漁村の春 2                   
                           
                           田村 道子
 
                        
        
                       
   「ほら、あの子、額に傷があるだろう。子供の頃父親に虐待されたらしいよ」

    「仕返ししたいからボクサーになろうと思ったのかな」

  やっと賞金がもらえるプロになった頃、同年輩の競争相手の間で、もっともらしくそんな噂話が広がっていた。同情してくれるファンもいるから、
 被害はそれ程ではないし、日頃付き合いが悪いせいでちょっかいを出してみたいのだろう。

  子煩悩の父親ではなかったけれど、遠洋漁業で長期間留守にするからか、家庭で過ごす日々は穏やかで、家庭内暴力どころか、言葉での叱責も
 ほとんどなかった。留守を守る母親がその役割をしっかり務め、額の傷も母親の平手打ちで転んで床にぶつけた跡である。さすがに流れた血の量に
 驚き、母親は5歳の末男を背負い、村で唯一の医院に走った。80を半ば過ぎた医者はちょいちょいと縫い、「一丁あがり!」で、その乱暴な
 医療行為の跡が今も額に残っている。内科、外科、産婦人科だけでなく、目、鼻、耳、時には歯まで削る万能医だった。というか、村には他に
 医者がいなかったからで、その医者も翌年亡くなり、末男が母親と一緒に故郷を離れるまで、福浦は無医村であった。

  仰向けに寝転がったまま、末男は額の傷に手を触れて、恐怖に引き攣った母親の顔、母親の背中から見えた揺れ動く、血でほろ赤く染まった青い海、
 面白がっている様に聞こえたおじいちゃん医師の声、傷跡を見てポツンと「いい子にしろよ」と言った父親の口元などを思い出していた。
 懐かしいとは思うし、いつかは帰ると思うけど、今まで帰りたいと思ったことはない。何故だろう。優しい父親はどうしているか、兄は家業を
 継いだのか、姉たちは土地の漁師の嫁になったんだろうか、それとも故郷を離れたのだろうか、何より一緒に転げ回って遊んだガキ友達は漁師になって
 大型漁船に遠洋を回っているのだろうか、それとも末男と同じに都会で出稼ぎ仕事をしている者もいるのか。次男、3男坊で漁師にならずに家を出た
 若者の大半は定年退職後村に戻り、畑仕事や岩場での釣りを楽しんで老後を過ごす。だから日中は村では老人と子供以外は滅多に見かけることはない。
 犬は結構飼っている家はあるけれど、猫は干し魚の天敵なので憎まれ、野良猫は見かけると猪と同じに捕獲される。猪は鍋があるけれど、猫はどう
 なるのだろう。末男は見かけるとこっそり気に入りの野良猫に餌を与え、近所のおばさんたちからこっぴどく怒鳴られた思い出がある。

  サンドバッグ相手とひとしきりのシャドーの後、この様にベンチに横になると、走馬灯の様にくるくると故郷の情景が浮かんでくる。それも母親と
 一緒のスポーツカーのバックシートから見た、走り過ぎる緑の山々やその中の山桜のほの白い塊、土石流で裸になった山肌を覆う緑のビニールシート、
 頭上に張り出した木々の緑の葉、狭い一本道で出会った対向車のために、すれ違える幅のあるところまでゆっくりバックしようとして後ろを向いた
 若い運転者の顔。若くてあんな車が持てるなんて、どういう生まれ育ちなんだろう。それともレンタカーだったのかな。

  家を離れるあの時のことはこんなに詳しく鮮やかに思い出せるのに、一緒に暮らした父親の顔も兄妹の顔も、ぼんやりである。血を分けた者たちとの
 別れとその喪失感に触れたくないから、思い出そうとしない、思い出せないのかも知れない。

  父ちゃん、兄ちゃん、姉ちゃん、末男は今ちゃんとやっているよ。試合前の体重減量は辛いけど、食事の工夫と風呂の回数を増やして必死で頑張るし、
 賞金もまだなかなか勝てないから僅かだけど、勝てた時の充足感は何より大きい。自分でも何かが出来る、出来た、という喜び。
 そしてボクサーという存在を、こういう生き方もあるんだ、と教えてくれた施設の先輩に感謝してし過ぎることはない。確かにこの先怪我したり、
 年齢が進み、体力的に続けられなくなった時どうするか、など将来を思うと問題だらけだけど、今現在幸せでいられることで十分生きていける。
 福浦を出てからこの道に出会う前までは幸せと思えることは長い間なかった。むしろ不幸と僻んでいた気がする。
 

    「松山に着いたよ。ここの温泉で一泊するけど、君はどうする?」

   「宿に着いてから考えるよ」

  知子はこの若者としばらくは一緒に生活出来るかも知れない、と儚い希望を抱いていたが、小学生低学年の男の子がいる年増の女とは、成り行きで
 松山まで連れてはきたが、早いこと追っ払いたいという本音は痛いほど分かる。

  しょうがないな、という仏頂面で、若者は市内の温泉宿に車を入れた。宿帳に「一人旅だ」と名前を書く。知子と末男が宿の戸口で、どうしようかと、
 ぼんやり立っていると、

  「あんた、事情がありそうだね。よかったらうちで働きなよ。下働きが一人やめて募集しようと思ってたところさ」

 と声がかかる。振り返るとエプロンをして箒を手に持つ、この宿の従業員らしい男が手招きしている。

  「は、はい、宿の仕事は経験があります」

  ほとんど何も考えずに返事をした。とりあえず今日泊まるところが必要、多分今日だけでなく、東京に行くチャンスが掴めるまで生活出来るところが必要。
 当たって砕けろ、で出てきたけど、犬も歩けば棒に当たった、かな。住み込みかどうかは分からないけれど、違っていてもこのおっちゃんがなんとか
 してくれるだろう。

 世の中には悪人もいる、という発想はなかなか浮かばない二人の田舎者たちの都会での生活は、とりあえずこのようにして始まった。 

                                                          続く

           








          

 



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