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  思い出の風景 1  

       在岡山タケオ氏   3月 3日(土)


大阪駅西のコンコースには長い列があった。
夕闇が1日の終わりを告げる。
列の一員となって長い時をトランプで紛らわす。

何がきっかけか、大蛇のうねりのごとく長い列が蠢きはじめ、引きずられるように、
押される様に大きな荷物を両手に歩き始めると、私はいつの間にか
夜間急行 雲仙西海の自由席に吸い込まれていた。

見慣れた須磨の浦は僅かな町の灯を隔て真っ黒な海となり、
暗黒の海が背景のガラスには通路に広げた新聞に佇みスルメを片手に飲む人が、
明るい車内に別世界のように浮かぶ。

いつの間に寝たのか前のめりになる感覚とともに目覚めると、窓は曇り外が見えない。
窓を拭うと闇夜に小粒の真珠をちりばめた無数の灯り、火を噴く煙突、停車の駅名は宇部とある。
ガッタンという音とともに動き始めると、いつの間に居なくなっていたのか通路の住人達が
どやどやと戻ってきた。

夜が明けると下関では電気機関車に繋ぎ変わり、関門トンネルに入る。
窓は、海の水が入るから閉めておきなさいと聞いた。

門司で再び先頭車両の交代がある。その停車時間、通路の人も私も、
ホームの洗面所で顔を洗う。水が冷たい。
弁当売りの声が行き交い、汽車が動き出しても追いかけてくる。

遠賀川を渡った、黒崎を過ぎた、通路の住人も新聞紙を片付け笑顔になっている。
これまでのスピードを忘れたように、ゆっくりと確かめるようにホームにたどり着く列車、
止まらぬうちから降りてゆく人々を窓から見る私。

昨夜大阪に居た私は、こうして一夜のうちに博多に着いた。
母とは大阪のホームで別れた。荷物を網棚に載せ、周りの人にヨロシクと言った。

父は夕暮れの大阪で切符を母に届けると職場へと急いだ。寓話のごとく父は外で忙しい。  
 
博多からトロリーバスで天神へ、天神からは宇美、大宰府天満宮行きボロバスで
板付空港をコの字に廻るように走ること3,40分、志免で降りる。

バス道から直角に入る志免のメイン通りは舗装の無い凸凹の地道が蒲鉾状に続く地道だ。
左に八百屋のような今で言うスーパーがあり、続いて映画館があるが見世物小屋の雰囲気、
2,3の商店が続き小鳥屋が見える、隣は氷屋 冬は炭屋になる。

祖父宅は次の角だ。
磨りガラスに00歯科医院と浮かぶ金文字の開き戸を入ると湯屋のような靴脱ぎと、
10畳ほどの待合に緑のビニールの長椅子が並び、受付の小窓。

外の通りは、向かいの角は煙草屋。小路を挟んだ隣は池田布団店だが、
小路側の入り口には質の暖簾。国道から直角に伸びる通りの中ほどである。
更に通りの奥を臨むと香椎線の線路の向こうに、ボタ山と採掘場跡の景色がある。

  思い出の風景 2

博多で迎えてくれた叔母は別棟で和洋裁のミシンに夢中だ。
荷物を投げると診察室を覗く。おお、帰ったか と祖父の声がするがヒューンという鑢の音。
開いたままの小窓に小さな空き缶、中に1円5円が見える。診察室の空き椅子に大根や青い野菜が置いてある。
現物診療。貧乏のはずだ。 

渡り廊下を奥へ行くと土間で竈から白い湯気、中の間にはヒー婆さんが火鉢を抱くようにして 
よう帰ったのう と言いキセルのタバコを呑めと差し出す。
大人になった気分でまねをする。

布団屋のユミちゃんとタバコ屋のひろ子ちゃんが縁側に顔を出し、
おとなで都会人の私を見ている。

間もなく昼の支度が出来上がるが、祖父は技工室から戻らない。
夕食に何がいいと祖母が問う。

炭鉱跡の探検を済ませると何も無い日々。技工室でピンクの歯肉を固めては
電気やすりでヒューンと削る面白さ、相変わらず1円5円10円の診察料の缶。
代物支払いの野菜。

父方の歯科医院の風景。座敷に、食卓に、祖父、父の姿は無い。 

  思い出の風景 3 
   
30分100円(?) 柳の揺れるお堀のボートはとっておきの娯楽。
赤松小のグランドは鉄棒の練習。何処とも知れず糸を垂れフナを釣った用水。
雷が鳴り竿も投げ捨て逃げ帰った池。

長崎街道を見下ろす二階は柔道場のごとく叔父達の居場所。
禿げ頭、口にマスク、短気、こわいのが、母方の祖父。
あなたー孫よ!と叫ぶ祖母の声も時遅く、殴られて階段を転げ落ちる私。
叔父の身代わり。

叔父達は皆学生さん。末っ子は中学生。その下が私。
深層心理に引っかかるのだろう、今は皆私に優しい。いいことだと思う。

志免で1週間過ごすと、片田江に1週間、そしてまた志免に1週間戻ると、
新学期を迎えるため甲子園に戻る。

夜行の急行で飛び立った私は、午前8時の特急かもめに連れられて、明るい間に大阪駅に滑り込む。
空間と時間はねじれ、私は母と再会するのだ。

チッキを解く二間の部屋に、父は今夜も見えない。
時空を越えて旅した私を 父は知ってか、知らずか・・・
おそらく 私にもそんな経験をと 与えてくれたのだと 今になって思う。