邪馬台国 投稿者:高木伸 投稿日:2008年11月 3日(月) 3世紀前半の倭の国の都である邪馬台国は何処にあったのか?は江戸時代から続く論争ですね。 何故このような謎解きになったのでしょうか。 当時文字を持たない倭人の住まいや風俗が「三国志の魏志倭人伝」に記されており、 其の中に倭の女王の都するところ、すなわち邪馬台国への道程が記されています。 それは魏の役所があった帯方群(韓国ソウルあたり)を出発し狗邪韓国(韓国プサンあたり)、 さらに対馬国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国が続き投馬国、邪馬台国までが方位と距離 などで記されています。 方位と距離が記されているならば大方の見当がつきそうですよね。 現在倭国の地名で争いが無いのは対馬国=対馬、一大国=壱岐、末廬国=唐津付近、伊都国=糸島郡付近、 奴国=博多付近です。不彌国も大方は宇美町あたりに比定されています。 ところが、投馬国と邪馬台国の記述は方位はあるものの距離が記されておらず、代わりに水行・陸行で 記されています。 つまり、不彌国に続く記述として、「南のかた投馬国に至る。水行20日」続いて「南 邪馬台国に至る。 女王の都するところなり。水行10日、陸行1月」となっています。 「 」の部分が曖昧な表現なので、例えば南と東を読み替えるなど様々な仮説を生み邪馬台国をどこに 比定するか、説が分かれています。 現在最も多いのが、御存知の「九州説」と「畿内説」ですね。 最近では3世紀前半の奈良県の大型古墳の出土品から「畿内説」が有利になっていますが確定的とまでは 言い切れていません。 そして、今回「同人α第16号(夏号)揺らぎ」に掲載された長岡さんの「肥と筑」第6回を読ませていただき、 其の中の記述がヒントになり、私なりに邪馬台国を比定することといたしました。 ・・・「肥と筑」第6回p48中ほどに、「ちなみに昔は、那珂川水系と筑後川水系は繋がっていて、 博多湾と有明海は舟で往来できたそうです。」とあります。・・・ 前述の通り魏志倭人伝では帯方郡から狗邪韓国。そこから海を渡って倭国の対馬国、海を渡って一大国、 また海を渡って倭人の本土の末廬国、伊都国、奴国、不彌国までは方位が記されているので比較的容易に 比定することが出来ます。 ところが、其の後の「投馬国」と「邪馬台国」には南と記されているものの距離が水行・陸行で日数の記載に なっているので判然としません。 次に「投馬国」と「邪馬台国」が何処を起点として南にあるのかも判然としません。 そこで、私としては邪馬台国へ至るまでの記述が、帯方郡→狗邪韓国→対馬国→・・・→奴国→不彌国と続く 流れから想像して不彌国を起点とした方が素直かなと思えるので不彌国から南と考えてみます。 不彌国は奴国の東100里。また、奴国の南には沢山の国が存在します。そして、邪馬台国と境界を接する国が 21カ国あります。これらの国は邪馬台国と友好関係にあるようです。 いかに邪馬台国が大きかったかが想像できますね。 さて、本題に戻りましょう。 「南 邪馬台国に至る。女王の都するところ。水行10日、陸行1月」をどのように読むかです。 この記述は、「邪馬台国へは不彌国から南へ水行で10日もしくは陸行すれば1月かかる。」と読むのではないかと 考えます。 このような読み方を可能にしたのが、長岡さんの「肥と筑」でした。 長岡さんによれば、なんと「古代は博多湾と筑後川は舟で行き来できた」ということのようです。 それでは邪馬台国を比定してみましょう。 魏志倭人伝ではこのほかに、郡から邪馬台国に至る距離が12000余里と記載されています。 現在の1里と当時の1里は長さが違うようですが、郡から不彌国までは距離が記されているので単純に引き算すれば 不彌国から邪馬台国は1300里になります。 そして、末廬国〜伊都国(500里)、伊都国〜奴国(100里)などを参考に邪馬台国を比定すると福岡県の八女や 山門郡あたりが有力なようですが如何でしょうか? それから、邪馬台国の南には女王国(邪馬台国)に属さない狗奴国があり、男子を王としています。 邪馬台国を八女、山門郡あたりと比定すれば狗奴国は今の熊本県菊池地方でしょうか。 そして、投馬国は水行20日となっているので、不彌国から邪馬台国の倍の距離ですので、今の薩摩の国あたりに 比定したいと考えます。 また、魏志倭人伝には帯方郡から邪馬台国への道程の記述のほかに邪馬台国の東に海を渡って1000余里のところにも 倭人の国があると記されています。これは瀬戸内海を渡って今の本州のことでしょうか? さらに、倭人の国の南には身の丈3,4尺の小人国やさらに遠方には裸国や黒歯国があることも記されています。 最後にこの疑問だらけの記述の中で私が基本的に疑問に思う点があります。 それは陳寿がまとめたとされる三国志の一部である魏志倭人伝で倭人の国の位置や風俗などの記述が実体験に基づく ものであるのかどうかの点であります。 伊都国までは従来、半島から郡使が往来しているので立ち寄っているはずです。それでは使者は実際に邪馬台国を 訪問したのでありましょうか? 邪馬台国と投馬国へは距離ではなく水行・陸行で記述されているので、伊都国で聞いたことをそのまま記述した可能性も 否定できません。 また、邪馬台国から東の記述は其の書き方からして恐らく伊都国か邪馬台国で聞いた話を書いたのではないでしょうか。 (ただし、この記述は距離で書かれています???) いずれにしても謎の多い記述ですね。 皆様も一度推理して見られたら如何ですか。 (参考) 倭人の国の規模 対馬国(1000余戸)、一大国(3000戸ばかり)、末廬国(4000余戸)、伊都国(1000余戸。 小戸数ながら王がいて、さらに一大率という身分の高い統率者を置き、また、長官の他副官が2名おり女王国に属し、 大陸との窓口となっている重要な国のようです。)、奴国(20000余戸)、不彌国(1000余戸)、 投馬国(50000余戸)、邪馬台国(70000余戸)