人と自然 投稿者:高木伸 投稿日:2009年 3月15日(日) 今年も春が来た。 関西では奈良二月堂のお水取りが終わると春が来ると言われている。 お水取りは3月14日に終わるので今日から春なのである。 春は生き物が躍動する季節。 花が咲き、草木は芽吹き、虫が這い出て、鳥は歌う。 なんという素晴らしい季節であろう。 このような自然界の営みの中に人が介入している。 人も自然界の一員であるが人は知恵を授けられているので、ややもすれば自然に 手を加えようとする。 都市の生活は正しくそうであり、田舎の生活でも家を立てて住み水道・電気を引き、 トイレを作り日々の生活を営んだら何らかの形で自然に手を加えているのである。 人は知恵が備わった時点から程度の差こそあれ自然に抗って生きていくようになって いるのである。 そして、一度快適な生活を手に入れたらそれをなくすことは不可能である。 つまり、原始の生活に戻ることはもはや出来ないのである。 しかしこれが行き過ぎになると環境を破壊することになる。 「環境破壊」と一般的に使っているが、環境破壊とはどういうことだろう。 3月の初めの新聞に、姫路城に植えられている松を虫から保護するため冬の間、 幹の周りに巻いていた 菰を取り外して焼いたという記事が載っていた。 松は松くい虫をはじめ虫に弱い木であり、ほおって置くとすぐ枯れ木になってしまう。 そこで、松を保護するため幹に菰を巻いて、3月の初め啓蟄の頃地面から這い出して 外はまだ寒いので 菰の中に集まった虫たちを焼いて殺して松を守るのである。 つまり、人にとって大事な松を保護し松に群がりそれを枯らしてしまう虫は 殺してしまうのである。 これは、一つの例に過ぎないが、万事人を中心に回っているのである。 旧約聖書によると人は万能の神ヤハウエーの啓示を聞き、そしてこの世に生きるため 神の啓示を守る 契約をした。 他の生き物にはそれがない。人が生きていくうえで必要ならそれらを利用することが出来る。 つまり、今環境保護が叫ばれているのはこのような人間中心の生き方が前提になって いるのである。 私はそれで良いと思うし、そのようにしか考えることが出来ない。 ところが、「木霊 2月5日付北極の氷(環境問題)」の中で紹介してあった、作家五木寛之氏 の考えでは、このような人中心の考えで地球環境保護を推し進めたらいつかは行き詰まるで あろうと警告を発しておられた。 五木寛之氏の考えには興味を持つものの難解な問題である。