多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(1) 鶴田征三 投稿者:新風児 投稿日:2011年10月20日(木) 先日作者の鶴田征三さんが上京された折に了解を得ましたので数年前に投稿された全文をシリーズでご紹介します。 今回は私(11期生)が先日佐賀への帰郷時に撮った写真を添えて投稿します。 写真は文章とは合致していませんが、我々の思い出多い現在の多布施川をご覧ください。 多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(1) 鶴田征三 私に課せられた主題に関し、その一部を皆様にご報告申し上げます。佐賀県立図書館・市役所歴史資料課、 福岡市総合図書館で調べた資料のなかの、記憶に絡んで興味をもった記述の受け売りですが、私も知らなかったことが 多く、そうだったのかと懐古しました。時間に余裕がお有りの方はお読みください。 文末に次報のための質問(宿題)もあります。 旧佐賀市を潤している母なる川。かっては佐嘉城堀の防衛水、また飲料水、日常用水、さらに周辺農村地域の灌漑用水 確保の上から、地域住民のライフラインともなる極めて重要な川であった。佐賀市の上水は大正5年から通水が始まった とのことです。当初の水源は深井戸で、循誘・勧興・日新・赤松の4水源地があったが、水量不足と水質不良で多布施川の 水の利用に変更されたようです。また『水は川上、桜は神野、夏は多布施の舟遊び、フッと見そめた娘の肩に、憎や蛍が 飛んでくる』なる佐賀の当時の新民謡にあるように市民の憩いの川でもあったようです。 いしいび(石井樋) 嘉瀬川(川上川)本流から多布施川に導水するため、成富兵庫茂安が1620年頃長年をかけて構築した。 それを称えた副島種臣揮毫の水碑があります。昭和35年、さらに嘉瀬川のやや上流に川上頭首工が完成し、 多布施川に導水したので、約340年間水を流し続けた石井樋は不要となり閉ざされて、水は涸れてしまい、 川底は雑草の繁茂にまかせ荒れ果てていましたが、現在心ある人達の尽力で石井樋の復元・太鼓橋の整備・ 全体の河畔公園化がなされている。かなり出来上がっていますが、まだ完成してはいないようです。 お茶屋いび(御茶屋井樋) ご存知、鍋島閑叟公の別邸として造営された神野茶屋が大正3年に佐賀市に寄付され、一般公開され神野公園と なったとのこと。多布施川から御茶屋井樋でこの公園に導水し、御茶屋の床下を細流で通して前庭に導き曲水の宴が 催されるよう工夫してある。築山は嵐山をかたどり遠景に天山を入れてあったとのこと。 かちどき橋(勝鬨橋) 今は公園北橋というのが正式名らしいが、その前は木造のかちどき橋があった。すぐ東が神野競馬場で、馬が走るときは、 ワアワア喚声が響きわたり、かちどき橋と名づけられた。競馬場は昭和47年、鳥栖市に移転しています。 せんだん橋(栴檀橋)、新栴檀橋 せんだん橋は古いので、自動車通通行を禁じています。新栴檀橋は頑丈に作られ、車が盛んに通っている。この新橋の すぐ西に神野公園バス停、その向かいにグリコ工場があります。 この辺の多布施川の両岸は橋名の由来となるセンダンをはじめ、エノキ、かえでや桜並木で今でも美しいようです。 赤松小5・6年の担任だった池田先生は後年、この神野公園の北側の開成という町に住んでおられる。 つづく