多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(2 中) 鶴田征三 投稿者:新風児 投稿日:2011年10月23日(日) 鶴田さんの今回の記述には、なつかしいポンポン井樋、貫通道路とかタナジがあります。鬼丸の私の家にも 洗いものや水汲みをする時に使う川に付き出たミニ波止場があったのを覚えています。今回、多布施川沿いに 歩いた時には見かけなかったタナジだが、今の若い人に言っても知らないでしょう。 10月7日に行われた城南中学校の同窓会は佐賀神社境内にある式場で有ったものの写真を撮る時間は 無かったので、ここでは2002年4月、ベルギーから連れてきた2人の娘達を案内した時撮った佐嘉神社の 脇を流れる松原川を掲載しました。丁度にっぽうさんの時でした。 北堀端の蓮池の写真を撮ろうと同窓生の藤戸康昭氏に案内されて見に行って驚いた。藤戸氏の話によると 外来種の亀が蓮の新芽を食い荒らしてしまい、あれほど広かった蓮の群生を殆ど駄目にしてしまった。 苦肉の策として市は亀の駆除と同時に亀が入らないようにぐるりと網を仕掛け、蓮を保護することになった そうだ。現在、蓮はお堀の中心部だけに見られる。 多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(2 中) 鶴田征三 ぜんじゃあ橋(善左衛門橋) 多布施川は第1部で記した開運橋の後、くねくねと東、南に方向を変えながら南下している。多布施1丁目、 川原町、伊勢町の境辺りにぜんじゃあ橋がある。江戸時代は長崎街道の要の一つであった。土橋であり洪水で しょっちゅう流されていたが、見かねた伊勢町の宇野善左衛門という人が私財で石橋を建設したので、 こういう名がついたとのこと。 護国神社の太鼓橋 この辺は水深も有り幅も広く、小学校にはプールがなかった私たちの頃は、佐賀ん町第一の水泳場でした。 タナジも大きく船の乗り入れができていた。私は少し下流のポンポン井樋で泳いでいたので、ここまでは来て いない。しかし辻の堂橋に至るまではかなり川幅が広く水量もあって子供たちが盛んに遊んでいたのは 知っています。 辻の堂橋 このあたりで川はぐっと東へ向きを変える。子供のころはもう大きな道になって、橋のイメージは ほとんどない。しかし川の水量は多く、泳ぎは盛んに行われていた。 この橋を使って、「辻の堂」という貫通道路との交差点から、北は高速道路の佐賀大和IC近くを通って、 川上峡、富士町、三瀬トンネルまでの幹線道路が近年拡張再整備され、福岡在の私は車で佐賀に行くときは 必ず利用する便利な道になりました。昔はくねくね曲がった狭い山道を車で走るには神経を使い時間が かかったが、最近はすいすいで、未だ曲がりが多く狭い福岡側の道の方が随分見劣りするようになっています。 今秋10月1日にある佐賀市・富士町・三瀬村・諸富町の平成大合併で、北山ダム・三瀬ルーベル牧場 どんぐり村・天山スキー場・古湯や熊の川温泉、三瀬トンネルまで佐賀市となり、子供の頃のイメージから すると何か信じられない気がしますが、背振山系を境にして佐賀市と福岡市が接することになる。 県庁所在地の市が隣接して存在するのは全国唯一とのこと。 ポンポン井樋 川は辻の堂橋から向きを変え東へ流下するが、500mも流れると突き当たって南に方向を変える。 ここがポンポン井樋で松原川を分流する。この井樋の周辺は幅広く水深もあったので、高学年小学生にとって 最高の水遊びの場所であった。ややよそ様だった私も、親父の勤める役所がこの近くにあったこともあって、 時々遠征し泳いでいた。でも残念ながら、ポンポンの名の由来については記憶にありません(Q1)。 分流させて出来た松原川は佐嘉神社・松原神社の裏手(北側)を流れ、松原神社の角で曲がって南下し、 さらに新道や片田江方向に流れていた。松原神社の角の辺はやや浅いのですが護国神社前の泳ぎ場に似た場所で、 この辺の子供たちは利用していたようだ。近年両神社の北側の松原川(近辺に店・飲み屋も多く、子供の頃は ややドブ川に近かった)が親水公園として整備され、きれいになっている。この川の中に河童の像が6体 (長老河童、父、母、長男、次男、長女河童)置いてある。河童が人間の子を水難から守るということらしいが (私は子供のころ大人から、泳ぎすぎると河童に引きずりこまれるぞと脅かされていた)なぜ河童なのか疑問に 思っています。ただ松原神社が河童の木像を所蔵していることは知っています。 なにか関係があるのでしょうか(Q2)。 つづく