多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(2、 中の下) 鶴田征三 投稿者:新風児 投稿日:2011年10月26日(水) ポンポン井樋を少しさかのぼったところにホタルロード起点0メートル、終点石井樋まで6.5mと書かれた ペンキの剥げかかった遊歩道の標識が立っていた。その時丁度鴨の一羽が私を川床に生える水草の上を上流へと 案内してくれた。 多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(2、 中の下) 鶴田征三 赤松橋と貫通道路 多布施川はポンポン井樋から、今の県警本部を左に見ながら南下すると貫通道路にぶつかる。県警本部前 という交差点にかかる(もぐる)橋が赤松橋です。この橋から南が、城内の多布施川になる。ここからが子供時代、 私のテリトリーであった川です。この川の赤松橋から後述する栄城橋の間は店や工場がなく、架かっている橋の 数も少なかった。学校や役所・勤め人の家がほとんどで、私にとっては競争相手も少なく、悪さをしても怒る人は 少なく、砂底の多い川はきれいで、シジミや蛍もいて、自然がかなり守られた、今から思えばまさに動物行動学の 権威であるコンラート・ローレンツが推奨するような恵まれた場所でした。 ところで「貫通道路」ですが、今から思えばなんと趣のない名前なのだとは思いますが、当時は市を東西に突き 抜ける立派な道はこれしかなかったのだ。今は高速長崎道を始め東西の幹線はたくさんあるが、この道が今でも 貫通道路と呼ばれているのは、市民の当時の思いが残されているのだろうと納得しています。事実、私自身、 高校に入学した時北校舎に通うのに自分専用の自転車を、当時銀行員になっていた長兄が買ってくれ大事にして いたが、その自転車に乗ってよく貫通道路のツーリングを行いました。主に西の方に行ったのですが、当時は車の 量も少なく、自転車で車道を走っていたと思います。銀杏並木が記憶に強く残っているのですが、最近通ると 銀杏並木はあるが、樹勢が弱く衰えた感を受けて残念に思っています。 県庁前の北堀 多布施川が赤松橋を南下してすぐに、今の佐賀西高方向へ至る道の下をくぐる暗渠がある。これが県会議事堂・ 県庁前の北堀へ水を導くのです。「北の堀」は大きく3つあったのですが、それぞれが暗渠で連通していました。 洪水で水深が高くなると一番東側の小さい堀(日峯さんのお祭りやら・サーカス興行・相撲の巡業が行われた 広場の北側。当時この広場は舗装されておらず、雨が降ると大変でしたが、今は有料の公共平地駐車場になって いるようです。)から松原川の下流に流れ込んでいたのではないかと思います。 県会議事堂の北側の堀には鯉がたくさん飼ってあって、私も自分の鯉のように大事に大事に可愛がって餌を与えて いた。ガチョウもいました。真ん中の堀ではよくフナ釣りをやっていたが、南側が林になっていてトンボやセミが たくさん見られました。また大きな楠が何本かあって、よじ登ったり、その洞(うろ)で雨宿りしたりして遊んだ ことを記憶しています。平成になって、佐賀駅から空港まで南下するまっすぐな道を作るため、「くすの栄橋」を この堀の南北に架け渡し、邪魔になる1本の楠の古木を3千万円ほどかけてほんの10mほど移設させたという報道を 見て、その木でよく遊んでいた私は、佐賀の市民・お役人さんもなかなか味なことをやるなと感心しました。 今はやっていないようですが、真ん中の堀の上で毎夏花火大会があっていた。家がすぐ近くだったので一番良く 見える場所の確保には苦労しませんでした。また打ち上げ花火によっては落下傘が放出され、自転車が賞品として 当たるなどの特典を表示した錘がついていたのですが、次兄がその落下傘を取るために堀に飛び込んだり、楠に 登ったりした武勇伝を聞かされた。最近あっちこっちで行われている大々的な花火大会に比べると、当時の大会は ちっぽけなものだったのかなと思いますが、それでも堀の南北に渡したナイアガラの滝は目に焼きついています。 若葉橋 北堀の西の側をちょっと南に下るとこの橋が架かっている。この橋を渡って、子供の頃にはなかったが後年 造られた遊歩道に入れる。一角にホテルニューオータニがある「西の堀」全体の東岸一体が、佐賀の町を代表する 楠の並木道の風景を持った、清潔ではあるが人工的な感がする遊歩道として整備されている。この遊歩道を、 堀を右手に見ながら南に歩いていけば、博物館・美術館の前の道と堀端西通りをつなぐ道路に出る。子供の頃、 ここは楠もあったが手を入れられていない雑木林の感があり、けもの道みたいな殆ど人気のない場所を歩き回っては トンボなどの昆虫を観察したり、堀の中の蓮の花を取ったり、その実を食べたりしていた。 つづく