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                      多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(終の上) 鶴田征三 

                                                                    投稿者:新風児  投稿日:2011年10月28日(金)  
  

              多布施川沿いに歩くと、いかに多くの種類の木々がある事かと驚いた。鳥星さんが描いたホルトの木、
             そして萩の木、せんだん、柿、楠、赤松、柳、竹その他もっともっとたくさん有った。僕は昔から植物が
       好きで、アフリカのサバンナからブラジルのノロニア島の熱帯樹林、ロシアやノールウエイの針葉樹林
       等世界のあちこちで木々を見て回ったが多布施川沿いの広葉樹や植物の種類の多いのには驚くばかりだ。
      清流と木々草花を見ると心が癒される。碇さんが句を詠みたくなる気持ちは良く分かる。鶴田さんの
      多布施川シリーズもいよいよ終盤を迎えた。

             多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(終の上) 鶴田征三

             最終回のご報告をいたします。秋の気配が感じられる今日この頃ですが、夏バテをなさらず元気と時間が
      おありの方は是非お付き合いください。多布施川の長さは10km弱とのこと。まもなく川の終点に至ります。

              佐賀城鯱の門
 
                 佐賀城鯱の門は、多布施川から見ると、前回の最後に記述した栄城橋や厩(うまや)橋からが一番近い。
               県立佐賀城本丸歴史館が去年8月にオープンした。当時の赤松小学校を当時の城南中学校の位置に
       追いやって、県が整備したものであるが、近くを車で通ったら、鯱の門・石垣などがきれいに整備・
       お化粧され、中の方には真新しい歴史館ができていて、前の広場には観光バスが2台・乗用車も数台
       止まっていた。
       小学校をここで過ごし、当時のものを知っている私から見て、何かよそよそしい感を受け、歴史館に入って
       みる気はしなかった。
               赤松小入学の日は、母に連れられこの鯱の門をくぐり、桜の花が咲いていて、古くて立派で大きな庭園を
       見ながら、冷え冷えした板張りの昔風の講堂にはいっていったのを覚えている。お城の石垣の上の方は
       雑木林になっていて大きな蔦も乱雑に生えていたが、上級生のころ沼南ボーイ君たちとターザンごっこ、
       チャンバラごっこ、OK牧場の決闘をして遊んだことが走馬灯のように甦ります。
               城壁は大きな石で組み上げられていますが、苔が生えたその大きな石の一個一個に耳を当て、小石などの
       硬いものでたたくと石によっては「コン・コーン、コン・コ〜〜ン」という澄んだ透明な音色が耳に伝わって
       きました。竜造寺家以来、鍋島直茂、閑叟公、明治維新の江藤新平等、もののふ達のひたむきな夢と魂の
       昂りの余韻が聞こえてきていたのだなと後年思っています。この大石の澄んだ打音については、今まで
       名古屋城・吉田(豊橋)城・彦根城・松山城・福岡城などで試してみましたが、聞けませんでした。
       なぜ佐賀城の特定の大石があの透明な打音を出したのか理由はいまだ分りません(Q3)。

               二の丸橋
 
                 本丸橋で東に向きを変えた多布施川は、市村記念体育館の南側の道路に沿ってしばらく東に向かって流れる。
               途中北側に広場があって、むかし日峯さんのお祭の夜店なんかで時々賑わっていたが、町別対抗子供野球大会
       なども行われていた。今は平地の駐車場になっている。この南のあたりで川に架かっている橋が二の丸橋である。
               この橋を渡って南に歩くと二の丸亭がある。小さい頃はここで町内会主催の小学校入学・卒業などのお祝いの
       催しが行われていて、母に連れられてきたことを覚えている。この亭の子で旧姓S.Iさんもまったくの
       同級生である。

               万部島の橋
 
                 もう少し東に流れた所で、この橋を渡ってやや広い敷地に入れた。石橋であったが名前は付いていなかった
       と記憶している。敷地のことを当時万部島公園と呼んでいた。竜造寺家兼という人が法華経一万部の読誦を
       行ったのでこの名が付き、その後も鍋島の歴代藩主が石塔を建ててきたとのこと。この敷地の南半分には
       「佐賀の役」戦死者の慰霊碑がある。石造り亀の背に乗る緑っぽい色をした・何やら難しい漢字が彫られた
       岩の大きな碑があったが、亀の頭などによじ登って遊んだ記憶ある。島義勇、江藤新平等が刑死した
       4月13日には慰霊祭典が行われている。

               ところで、私は「新道幼稚園」に通っていた。通園ルートは、ほぼ多布施川沿いに歩けばよかった。
       高取自転車店が有る県庁南交差点から東方向に、現在の市村記念体育館(幼稚園生から中学生の頃はこの
       体育館はなくて、旧制佐賀高等女学校?の校舎があった。一部使われていたようだが、県庁が火事で焼けた
       S24年旧制佐中・佐高女・成美高女が合併して男女共学としてできた新制佐賀高校の臨時の校舎だったのか?)
       の南側の道路を川沿いに歩いて万部島を過ぎてから、店がたくさんある丁字路(今の水ヶ江一丁目の西側部分)
       を右に曲がり、後述する相生橋の手前でまた左折(角に文房具屋があった。私は小学生時代6年間書道を習って
       いたが、教室が新道幼稚園の中にあったので、よくこの店で墨や紙・筆を買っていたことを記憶している)して、
       今の県病院好生館北側の道の途中・左側に幼稚園の門があった。今でも時々会っている静岡在の旧姓M.Sさんとは
       この幼稚園から高校まで同窓です。
       この幼稚園の舎屋は道路からかなり奥まったところにあったのですが、今でもあるだろうか(Q4)。

                万部島の橋の辺から多布施川の両側には民家や商家・会社が密集してあり、川面が見え隠れするようになると
       同時に、水が汚れてきて川藻が繁殖し、水遊びできるような状態ではなくなっていた。
       ただハヤ等の魚はまだたくさん泳いでいたのを覚えている。

                    つづく