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                   多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(終の中) 鶴田征三 

                                                                 投稿者:新風児  投稿日:2011年10月29日(土)  
  

       佐賀城址の鯱の門の姿は皆の脳裏に鮮やかに残っているだろう。新しく建った本丸の中に入ると赤松小学校時代、
      図書室として使っていたおいの間と巨大な木造の水溜めを思い出す。そして黄色く色づいた柿の木の事も。

      多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(終の中) 鶴田征三

       相生橋
 
         川は万部島の橋を過ぎてから、南に曲がり、さらに東に方向を変える。県立病院好生館のすぐ北側を流れるが、
        この県立病院の北西の角の辺にかかっているのが、相生橋である。川は病院の北東の角をぐるっと回って南に折れ、
        南下して現龍谷高校・中学校の敷地内に流れ込む。

       かんじょう橋(干城橋)
 
         この橋は川が龍谷高・中学の敷地に入り込む直前、城内の東西を結ぶ道路(県病院正門の前の道路)に架かっている。
        龍谷中は明治時代の終わりの頃に創設されたらしいが、それ以前に軍人養成のため干城学校というのがあって、
        龍谷はこの学校跡に建てられた。橋の名は、当時まだ干城学校の知名度の方が大きかったために付けられたとのこと。

       四つ手橋、大木公園
 
         龍谷中・高校の敷地の中を南下した川は明治時代の教育制度の基礎を作った大木喬任の誕生地記念碑が有る大木公園の
        あたりで西へ曲がり、龍谷幼稚園前でまた南に折れ、四つ手橋をくぐる。ずっと昔は魚を獲るジプ(四つ手網)が
        常設してあったらしい。

      すじちがい橋(筋違橋)、東南橋
 
         多布施川は南下して、私の頃の城南中の北側にあった「南の堀」の東側に沿って流れるが、この堀と多布施川を
        つなぐ水路にかかる橋を筋違橋という。中の館町と水ヶ江三丁目との境にあるが、明治の初期に政府軍と征韓党の士達が
        戦った場所らしい。私たちの頃、マラソン大会といって、このあたりを回って鯱の門の北側の大通り(城内の東西を
        結ぶ道)に出て、堀端西通りまで走り、さらに南下して「西の堀」の一角を回り、鬼丸町・「南の堀」の南岸を東に
        走って城南中のグランドに戻るという、約2.5kmのマラソンコースを走ったことをよく覚えている。今は「南の堀」の
        周囲も整備されていて遊歩道みたいになっているが、当時は砂利道で走るのがしんどかった。
       川は筋違橋際を南下して東南橋にいたるが、この後から曲がり東に流下する。この先が水ヶ江三・四・五・六丁目になる。

      あいよん橋(愛右衛門橋)、横小路
 
         片田江から水ヶ江大通りの道を水ヶ江大崎に向かって南下する幹線道路を横切る多布施川に架かる橋が、あいよん橋で
        あった。この辺が横小路といわれ、今は水ヶ江三・四・五・六丁目になっている。
       橋の名になった愛右衛門は横小路に住む武士だったのか、川渡しなどをした舟さしの名のか定かではない。
        明治から昭和の初期にかけて利用されていた馬鉄(明治32年生まれで、青少年時代を水ヶ江で過ごした親父が時々
        話していた)の停留所・事務所・車庫・厩があって川にはウマアリャーバ(馬洗場)を設けてあったとのこと。
       この時代、あいよん橋の上手は子供たちの格好の水遊び場であったらしいが、私はこの辺まで泳ぎに来たことは全くなく、
        記憶にございません。Y.Kさん、高木さんこの辺の水遊び場を知っていますか(Q5)。

     この後、多布施川は水ヶ江大橋の交差点から本庄大橋、川副町、犬井道を通って空港に至る道の方向に南下するが、
      川はこの道が比較的大きな八田江川を渡る八田橋の少し上流の辺で、八田江川に合流する。あいよん橋の下流の辺りで
      愛右衛門川という支流を分流してから八田江川に合流するまでの多布施川は大崎川とも言われていて私はそう記憶している。
      八田江川は南下し、最終的に有明海に注ぐ。子供の頃は、あいよん橋以降にはほとんど来ていないので記すことはできないが、
      高校生の頃自転車で有明海辺りまで、ぶらぶら遊びに行っていたことがあり、八田江川下流については、潮の臭いと干満が
      あって、岸辺には葦がたくさん生え、赤黒い蟹がたくさん這い回っていたなどのかすかな記憶がある。

           つづく