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                     多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(最終回) 鶴田征三 

                                                                       投稿者:新風児  投稿日:2011年10月30日(日)  
   

           鶴田征三さんの「多布施川」シリーズもついに最終回を迎えた。同じ時代を佐賀で過ごした我々には記述の
         あちこちに自分と同じ思い出が書かれてあるのを見て胸が熱くなる。戦後の食糧難や物資難の中でも良い親、
         良い先生、そしてよい仲間に支えられて幸せだった。北山ダムが出来て洪水も無くなり、多布施川の清流を
         守ろうと有志がたちあがった。そして佐賀駅の改築を機に街は大きく変貌した。でも、今帰郷したとき
         シャッターが下りたままになっている商店街をみると胸が痛む。でも、佐賀んもんの葉隠れ精神はそう簡単に
         消えるものではない。
         歩みは遅くても着実に次の世代に受け継がれ、発展を続けて行くだろう。

          最後に、これだけのエッセイを1度だけの紹介で終わらせたくないという私の願いをかなえてくれた作者の
         鶴田さん。そして作品集として「遥かなる木霊」のアーカイブに掲載していただいたひまじんさんとトトさんに
         心からお礼を申し上げます。(撮影機材Nikon D7000 写真copyrights Toshi Sakurai)


          多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(最終回) 鶴田征三

             子供の頃母に、お盆の15日を過ぎたら川で泳いではいけないと言われていて、忠実にそれを守っていました。
            なぜ泳いではいけないのか納得できる理由を聞かされていなかったのですが、現実に15日を過ぎると川面が
            ゴミで汚れて自然と泳ぐ気にはなれなかった。当時は15日の夜あるいは翌日の朝だと思うが、精霊流しと
            いって霊前にお供えしていたスイカやウリ・トウモロコシなどを川に流していた。これらが川のよどみ
           (よどむ所は水深・川幅があって泳ぐのに適していた)に滞留して泳ぎにくかった。今は環境を汚染するという
            ことで、流すことは控えられていると思います。

             佐賀市民の多布施川は嘉瀬川を離れ、全長10km弱の旅を終え、八田江川に合流しましたので、これを
            もちまして私の多布施川とその周辺についての懐古の散策も終りにします。貴重なお時間を使ってじっと
            辛抱強く読んでいただきましてありがとうございます。

             ところで当時動物園はどこにあったのでしょうか(Q6)。私の記憶に欠落しています。日峯さんのお祭りで
            サーカスの動物(ハイエナ)が逃げて問題になったことを覚えていますが、動物園のことは記憶にありません。

             記述中あやふやなこと、不明のことが多々あり、また記憶違いのこともあると思います。知っておられることや
            お気付きのことは是非ご教示ください。

             実は、私は自叙伝を少しずつ書いています。去年春に病気で入院して、ある日の夜病院のベッドでまんじりとも
            せず、高島 徹君のように何か残したいなと考え、一番安易な方法ですが、去年の秋頃から少年篇・青春篇・
            戦士篇・苦悩篇・回帰篇に分けた自分の過去を、時の流れとは関係なく思い出し次第、パソコン上に
            記述しています。今回の多布施川のことは少年篇の記載内容の一部を、特に多布施川に関係したことを
            ピックアップし、補完強調して書き直したものです。