馬に似た山(短編) 投稿者:高木伸 投稿日:2014年 2月28日(金) 山の姿は美しい。 人は山の姿を動物に見立てることがある。 馬は動物に見立てる中でも特に多いのではなかろうか。 大昔から人と馬の関係は人が生きていくうえでの重要なパートナーで あったからであろう。 馬は駒ともいう。 北海道駒ヶ岳、木曽駒ヶ岳、秋田駒ヶ岳、箱根駒ヶ岳など日本の名峰に 駒のつく山は多い。 駒という名のつく山を見ていると馬が寝ている姿に見えてくる。 私がこれから話す山はこれら名峰とは程遠いが、天下無双の馬の山である。 私がまだ幼い頃。年の頃10歳ぐらいと記憶しているが、佐賀県の西部、 武雄と伊万里の間あたりに八幡岳という770m弱の裾野が広がった 美しい山がある。 その麓の小学校の分校に叔父さん家族が赴任していた。 この辺りは平家の落人伝説があるところであるが、日本各地にある平家の 落人伝説の地に違わずこの地もとんでもない辺鄙なところであった。 叔父さんの家族は叔母さんと男3人女1人の子供がいて、そのうちの1人の 男の子が私と同級生であった。 子供たちの年が近かったこともあり、夏休みには1週間ほど滞在することに していた。 ここは山のなかだったので夏でも涼しく、夏の夕暮れなどは校舎と家の間の 渡り廊下にいるとひんやりとした風の通り道であった。 佐賀の家にいれば夏休みの宿題など気にかかるが、ここでは宿題のことなど 忘れてしまって、朝から晩まで遊んで暮らした。 近くには小川があり、きれいな水だったので石をひっくり返して、そこに潜む 沢蟹を獲って遊んだり、平家部落からスイカをもらって来たりして時間の たつのも忘れて遊びまわった。 夜になると満天の星空には天の川が降るように美しく輝き、叔母さんから 星の名前を沢山教えてもらったりした。 また、周りは田んぼになっていたので、中に入りドジョウやタガメやミズスマシ などいろんな水中生物を獲って遊んだが、翌年からポリドールという農薬が まかれたので田んぼには入れなかったことを覚えている。 このことは、子供の頃の楽しい思い出として今も覚えているが、なかでも 鮮烈に覚えていたものがある。 唐津と伊万里をつなぐ筑肥線の肥前長野という小さな駅が分校の 最寄駅であった。 木造の小さな駅舎を降りたら周りには何もなく、田んぼの中を一直線に通る 一本道が社まで通じている。社から右に折れ、左に折れる九十九折の山道を 登りおよそ1里を歩いたところに分校があり付近は小集落を形成していた。 駅に降り立って遥か分校の方角を眺めたら右手に馬が寝ているのである。 しかも普通の大きさの馬ではなくて山のような馬なのである。子供の目には まるで怪物に映った。 馬は社までの一直線の道を歩くと、同じ姿で少しずつ大きくなって見えてくる。 まだ寝たままの状態だ。 社を通り越して右へ曲がったところから急に大きさが増して今にも立ち上がって 私に攻撃を仕掛けてくるような気配で迫ってくる。 小さな私は逃げ帰りたい衝動に駆られたが、迎えに来た私より4歳上の 男の子は平然としているので、なんとか我慢してさらに歩を進めた。 ところがあるところまで進むと急に馬の形が崩れ出したのである。 分校に着くころには馬の形はすっかり消え失せただの山になっていた。 そのうち、叔父さんが転勤になり伊万里の本校の教頭先生になってからは ここには行っていない。 それから、何年か経ったある日、私の家に遊びに来た叔母さんが言うには、 あの馬に似た山(叔母さんは山の名前を言っていたが何の変哲もない 名前だったので記憶に残らなかった)のたてがみの部分に植林が 為されますます馬に似てきたとのことであった。 私はずっと馬に似た山のことが気になっていた。 そして、あれから45年後に肥前長野に降り立った。 そして、当時と同じ道を辿ることにした。 子供の頃に降り立った駅舎も村の社も広く大きく見えた分校も校庭も 何もかもが小さな箱庭のように見えた。そして、なによりもあの馬に似た山が ただの山にしか見えなかったのである。 私は何か大事なものを忘れてきたのではないかとその時ふと思った。 あの馬が馬で無くなってからさらに15年が経過した。 私は感無量の気持ちでこのことを書いている。