California as I saw 投稿者:Steve Toda 投稿日:2016年10月 7日(金) カリフォルニア見たまま(9) ハーパー・ロビンソン社に半年ほど経った頃そこへ引っ張ってくれた彼が ”東京銀行で人を 探しているそうだぞ” というので行ってみました。 そしたら驚いたことに出てきた二人が大学の 先輩だったのです。 そして、簡単な面接の後 ”明日から来れる?”と言うのです。 むろん、 ここでも少くとも1週間前に通告してから会社を辞めるルールがあるので、結局それくらい 経ってから銀行に入りました。 東京銀行の現地法人で正式には Bank of Tokyo of California で外国為替銀行として カリフォルニアに進出して支店網を作りあげていました。 現在はユニオン・バンクになり、 三菱・東京UFJの子会社です。 仕事は企業向け融資担当オフィサーで日系企業の貿易金融業務でした。 銀行ですから窓口での客の対応、現金の取り扱い、金庫の開け方から始まって個人向けと 企業向けローンの作り方、クレデイット・カードの発行等多岐に渡る銀行業務を学び ローン・オフィサーとして働きました。 実は私の日米での会社勤めの中で一番楽しかったのはこの銀行時代です。 というのが、夕方になると支店長が ”一杯いきますか?” と声をかけ、向いの建物の地下の バーにおりていき、グラスを傾ける。 暫くすると ”お腹がすいたから、日本町でも行きますか?” ということになり日本町へ繰り出して食事をして、次はピアノ・バー。 当時はまだカラオケ というものがなかったのです。 日本町にピアノを弾いてその伴奏で歌うバーが幾つかあって 日本の商社、銀行などの進出企業の社員で一杯でした。 楽しかったのは夜の部ばかりでなく、仕事として特に人間関係が素晴らしかったからだと思います。 日本の会社のいいところばかりを集めたような感じでした。 トップの人は親父の如く、すぐ上の人は 兄貴のようで最近の日本の会社で起こっているような変な上下関係のない毎日でした。 その状態は外国にある日本企業で働くという特殊な環境だったためだったかもしれません。 というのは、上の人もこの国でビジネスをするのは初めてで、すべてを熟知している訳ではないので、 いわば皆でやり方を試し試し進んでいて、下の者の意見も聞いてくる傾向があったのです。 下の者の中にはここで仕事をした経験のある人もいて、ここでのビジネスのやり方を身につけたのもいて、 それを上の人に助言するようなこともありました。 銀行で最初に配属されたのは、サンフランシスコ・メイン・オフィスでダウンタウンの古いビルの一角。 支店長と次長は東銀からの派遣。 その隣は企業向けの融資担当者で皆現地採用。 白人の男性の ローンオフィサー、それから私の先輩の現地採用の日本人、 それから白人の女性のローンオフィサー そして私が並んでいました。 向かいは窓口が並びテラーと呼ばれる窓口担当が数名、その後ろにオペレーション・オフィサーと 呼ばれるスーパーバイザーが座っている。 奥の方には個人向けローンの担当者やノート・デパートメント と呼ばれる書類の処理班とブック・キーピングと呼ばれる小切手の取扱部門がいました。 この頃はまだコンピュータを使っておらず、ローンの支払い処理や小切手の処理を人間の手で行っており、 今から考えると気の遠くなる様な時代でした。 我々の仕事は企業向け融資をすること即ちローンを出すことと顧客の会社へ出かけていわばアフター サービスをすることでした。 企業は生き物ですから中味が少しづつ変わっていきますから、時々 出かけていないとある日、とんでもないことになっていることがあります。 先輩のオフィサーに連れられてあちこちの顧客の所へ行きました。 ほとんどが中小の日系企業で 相手も日本人がほとんど。日本からの進出企業には信用枠を作っておいて、毎年更新していく形が多く 定期的に訪問していました。 この中の一軒が後で働くようになる輸入食品の卸売り業者でした。 変わった客としては目玉を取り扱う人がいました。 それも日本語ぺらぺらのロシア系の白人。 日本に住んでいた人で雑貨の輸入をしていて一時は日本製のシガレットライターで儲けたと言っており、 造花やおもちゃの部品、たとえば人形の目玉も扱っていました。 それから、元ジャズシンガーでいわゆる ”呼び屋” をしている客もいました。 日本へ有名歌手を連れて行ったり逆に日本から歌手を連れて きたりしていました。 そういえば、銀行では日本の芸能人などにも出会いました。 日本から来るとドルが必要になるので 円からの交換のため来られるのです。まずその年優勝したヤクルトの監督広岡達郎さん、それから 大学の先輩中村八大さん。 中村さんはもともとピアニストですから、ピアノバーに行って一曲弾いて くださいよとお願いしたら弾いてくれて素晴らしい演奏をしてくれました。帰り際に ”こんなに楽しい夜は 久しぶりだ” と喜んでくれました。 かく、日系コミュニテイーの中小の会社・商店に対して貸し付けをしていてコミュニテイーにどっぷり 浸かって仕事をしていました。 その最大のイベントがサンフランシスコの桜祭りで、春に日本人町挙げて お祭りがあり、その手伝いを銀行員としてやりました。 祭りの最後にパレードがありそのパレード 実行委員を努めました。 パレードには日本からのクループを含めて沢山のグループが参加し、太鼓や 日本舞踊、柔道、剣道、バンジョーバンドや桜の女王のダシ、最後には神輿も出てサンフランシスコでも 大きなパレードになります。町からも市長、警察署長、市会議員等がオープンカーに乗って参加し 何十万人かの人出があります。 ある年はパレードの日に大雨が振り、その時たまたま銀行の日本町 支店長が祭りの委員長で、桜の女王は高価な着物を着ているので雨でダメになるからどうしようと 困り抜いて、”濡れてもいい人はパレードに出て下さい。そうでない人は出なくてもいい” という決断を しました。 ところが彼自身どこからか透けて見えるビニィールのかっぱを幾つか買ってきたのです。 我々もあんなかっぱはここではあまり見かけないのであとで 支店長あれはどこで見つけたんですかと 聞いたら ”実は自分でも憶えていない”という。 本人もよほど動転していたらしい。 また、別の年には 出発地点の市庁舎から当時のダイアン・ファインシタイン市長がハッピを羽織って車に乗ってしまったのです。 ただの祭りのハッピであれば問題なかったのですが、松竹梅酒造の名前の入ったものだったのです。 そのメーカーは大喜びでしたが競合他社は渋い顔。 テレビでも中継されるので大変な宣伝になって しまいました。 このファインシタインさんは後に上院議員になり、オバマ大統領の就任式の司会を務めた 有力な政治家です。 このあと、銀行の他の支店でも働きました。 シリコンバレーのサニーベール支店、サンフランシスコの 日本町支店、オークランド支店です。 サニーベールにはローキード社や他の有名なエレクトロニクスの会社があり海軍の飛行場もあり、 70年代には例の ロッキード P3C 対戦哨戒機がタッチアンドゴーの訓練をしていました。 P 3 C は 日本の田中角栄の汚職事件で話題になった飛行機です。 オークランド支店はサンフランシスコの対岸に位置しバークレーの南にあり、治安の悪い地区です。 ある時、銀行の前に池があって錦鯉が泳いでいたのですが、その池に入って何かわめきながら、 端から端まで歩いた女性がいてびっくりしました。精神不安定の人だったと思います。 あの町は 政府が戦時中に兵器製造のために工場を作り、工場労働者を送り込んだのですがその人達は 黒人ばかりでその結果黒人の多い治安の良くないことになってしまったのです。尤も、治安の悪いのは 限られた部分で銀行のあたりはその部分にはありませんでした。しかし、 銀行ですから セキュリテイー・ガードを雇い、そのガードはピストルを下げていました。 幸い、私の在任中に 事件らしいことは起こりませんでした。 最近、アメリカでは白人の警官が黒人を射殺する事件が多発し、それに対し黒人が白人の警官を 射殺するという困った状況になってきています。 あれはアメリカの抱えた頭の痛い問題で、黒人差別が なくなっていない事と銃があふれているという二つの深刻な事態がこの社会に大きな影を落としています。 銀行で働いて感じたことは、コミュニテイーにいかに溶け込み人々の中に入り込まねばならないかと いうことでした。 それが金融サービス業というものの使命なのだと思いました。 つづく