縁に連るれば唐の物 中島 喜教 小さい時から将来はエンジニアになりたいという徴かな夢を抱いていた。 大学はそれほど深く考えずに金属工学科を選んだ。昭和30年代後半から 40年のはじめといえば、日本は高度成長期に当たり重厚長大型産業の華やかなりし 時代である。 それは、大学3年のときと記憶する。ある大手企業から新任の教授が着任された。 その先生は、それまで製錬所や中央研究所の所長を歴任され、特に亜鉛の乾式製錬に 造詣が深かった。 先生の講義はわれわれ学生とって極めて新鮮で、私個人は次第に非鉄製錬に興味を 惹かれるようになった。勿論、卒業研究はその教授の研究室を選んだ。 発足したばかりの研究室は実験器具も乏しく貧乏所帯ではあったが、英語の文献の 輪読会や山奥の鉱山訪問等を通じながら専門分野以外でも見聞を広めることができた。 先生の古巣の製錬所に同行させてもらい、そこで卒業研究のための分析実務の指導を 受けたこともある。 また、先生のはからいで電熱蒸留の亜鉛製錬所を見学させてもらい、「これが教科書に 載っていた真空コンデンサーか」と実物を目のあたりにして感激した。 その先生との出会いが、その後わたしが非鉄金属産業に身をおくことになった大きな きっかけである。 やがて、三井金属社への入社が内定した。当時三井金属は東洋一の神岡鉱山を擁し、 「亜鉛の三井」と言われた世界でも有数な亜鉛生産会社であった。 卒業研究のかたわら亜鉛製錬に関する文献を読んだり、先生から直接亜鉛製錬の話を 聞いたりしながら、将来は亜鉛製錬の技術者になる夢を描いていた。 無事卒業し、愈々社会人としての第一歩を踏み出した。昭和42年(1967年)4月のことである。 古きよき時代で三井金属では入社後3ヵ月間、新入社員研修が実施されていた。 三池製錬所ではまだ亜鉛電解工場が稼働しており、そこが最初の実習現場であった。 電解液の精浄工程ではアルシンガスの恐ろしさを学び、陽極板には二酸化マンガンが 電着することを知った。亜鉛は水素よりイオン化傾向が大きいため、停電になったら 陰極電着した亜鉛が溶け出す。 その頃の4月は春闘の季節でもあった。ちょうど亜鉛電解工場がストの対象になった。 我々実習員も動員され、真夜中に亜鉛電解工場に働く社員全員で陰極板を引揚げた。 次の実習現場は神岡鉱山栃洞坑。真っ暗な坑内は慣れない者にとって危険な場所である。 われわれ実習員はもっぱら手積みと称する掃除。こぼれた鉱石やズリを手でトロッコに 積み込む作業である。午後3時にあがり坑口に出ると、初夏の太陽が燦燦(さんさん)と 輝いていた。強烈に鼻をさすオゾンの匂いはいまでも記憶に残っている。 3ヵ月間の実習を終え、配属されたのは亜鉛製錬所ではなく竹原の銅電解工場(広島県) であった。それ以来退職するまで銅部門、電子材料部門を歩んできた。 亜鉛とはほとんど縁のない35年であった。 ところが3年前、縁あっていまの職場に勤めることになった。 亜鉛製錬技術者への夢は叶えられなかったが、ここで亜鉛と再会するとは夢にも思わなかった。 まあ縁とは不思議なものである。この再会を機にこれまでの経験を生かし、亜鉛の需要開発に 少しでも貢献できればと願っている昨今である。 (平成17年9月12日 産業新聞 産業春秋)