定年退職後の日々…日曜日午後の喫茶店 イマジン ウイークデイは昼食前後が最も込むが、日曜日は、午後は2時ごろから客が増え始める。 家庭で、あるいはどこかで誰かと昼食をして、それはそれで楽しいものだったのだろうが、日曜日の午後は 一人になりたい、静かにすごしたい、という人が多いようである。 だから、コーヒーも舐めるように飲んでいて、店内が異様に静かである。 そんな雰囲気の中で急にドアーが開いたので、客全員がちらっと視線を送ったようだった。 山本は息を呑んだ。 妻と娘だった。逃げ出したくなった。しかし、ママはいなかった。 渋々、水とお絞り、それにメニューを持って、窓際の席に行った。 妻がちらっと見上げると、小さな声でコーヒーと呟いた。娘も頷いた。山本は声を出したくなかった。しかし、 「承知いたしました。ごゆっくりどうぞ」という声が自動的に出てしまった。言ってしまって、はっとした。 が何も気付かなかったようだった。 コーヒーを二人の前に置いた。手が震えて、カップが少し音を出した。震えるな、冷静にしろ、と 自分自身を叱咤した。 カップを置きながら、妻の横顔をそっと見た。久しぶりの妻の顔は、少し老けたように感じた。 以前には気付かなかった唇の端のしわ、皮膚のたるみ、これらが、いつの間にか五十代後半の女性になって しまっていることを十分に物語っていた。 妻と初めてデートしたお盆最終日の花火大会の夜、花火の光に照らされた高校一年生の少女の張り切った 紅い唇と白い頬はもう既になかった。 髪にも白いものが目立つようになっていた。鏡の前で一本づつ白髪を抜いて、決して目立たせないように していた習慣もなくしのだろうか。 「お母さん、山本部長さんもおっしゃっていたじゃない、気が違っている人だったって。」 「でもその人が何か知っているような気がしてしようがないのよ」 山本は背を向けて、カウンターの中にそっと引っ込んだ。 喫茶店のマスターになってみると、店内の客の会話がよくきこえることに吃驚した。特に、カップを磨いたり、 コーヒーの豆を焼いたりしていると、実によく聞こえるのである。 そういえば、若いころ友人たちと喫茶店に入り、もう一杯飲もうと会話をしたりすると,たちまちマスターが 現われて注文を聞くので吃驚したことが何度もあった。古い喫茶店だと特にそうだった。 喫茶店業界の集まりなんかで同業者に聞いてみると、皆が一様にうなずいた。職業病かも、という者すらいた。 しかし、二人の会話はほとんど聞こえなかった。周囲を気遣い、額を寄せて特に小声で話しているようだった。 しかしそれでも、日曜日の午後、低く流れている音楽を聴きながら、静かに過ごす時間を求めてやって来た 他の客たちには、雰囲気を壊す存在のようだった。 一人、また一人と、静かに席を立って、店を出ていった。 暫くすると、全員がいなくなり、妻と娘だけになった。 山本は会計帳簿と算盤を持って、少し離れた席に座った。 いかにも帳簿づけに没頭しているようなふりをして、聞き耳を立てた。 気付かれないように、声を聞きたかった。二人が今どうしているのか、どういう生活なのか、 今何を会話しているのか。 家族に対する感情が胸一杯に広がり、溢れだしそうだった。俺だ、今ここにいる、元気でこうしている。 叫びたかった。抱きしめたかった。 「部長さんは、50前の人だった、と言っていたじゃあない。お父さんの筈がないのよ」 「でも何で帰ってこないのかねえ、外に行くところが無いのに・・・・・。 だからじゃあないか・・・って」 涙声だった。 そうだ、君の想像の通りだ、そうなのだ、思わず立ち上がりそうになった。 その瞬間、温かい柔らかい手が肩に置かれるのを感じた。巴だった。傍に山岡老人も立っていた。 「あなた、山岡さん、紅茶が欲しいそうよ」 山本は、カウンターに引っ込み、ダージリンを淹れ始めた。 手が震えていた。 しかし、ダージリンの香りが次第に落ち着きを取り戻させてくれた。 そうだ、もう俺は夫でもなく、父親でもないのだ。 妻は巴で子供はいないのだ、と言い聞かせた。 紅茶を山岡老人と巴の席に運んだ。二人とも心配そうに山本を見つめていた。 黙ってカウンターに戻ると、買ってきたばかりのセイロンのディンブラをとり出した。 ポットにスプーンで多めに一杯ずつ、祈るようにしてこれは妻の分、これは娘の分、そしてこれは ポットの分、とゆっくり入れた。 お湯を注ぐと、茶葉が上下に揺れた。 茶葉が落ち着くのをゆっくり見守って、静かにカップに注いだ。 甘いバラの香りがほんのりと匂った。 カップを、注意深く妻と娘の席に運んだ。いぶかしそうな二人に、にっこり笑いかけ、 「店のサービスです」と小声で告げた。 娘が「ありがとうございます」と呟いた。 母親が涙をこぼしたりしていたので、マスターが気を遣ってくれたのだろう、と想像したようだった。 妻が紅茶を口に含むと、あっと立ち上がりそうになった。そして山本の方を呆然と見つめた。 山本は紅茶が好きだった。 紅茶だけは山本は妻の分も含めて自分で淹れることにしていた。 妻も紅茶が好きで、その中でも、日曜日の午後ゆっくりしているときに山本が淹れてやるデインブラが、 特に好きだった。 この紅茶は特に湯加減が難しく、山本だけが、日曜日の午後の雰囲気にぴったりのバラの甘い香りと 独特の味を出すことができたからだ。 見つめられて、山本は微笑みを返したつもりだった。しかし、それは泣き笑いの様な 顔だったかもしれない。 妻は、悲しそうに、静かに視線を戻すと、黙って、味わうようにゆっくりと紅茶を啜った。 飲み終えると、娘を促し、少し会釈をして出ていった。