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                          定年退職後の日々・・巴の妊娠                   
                           
                                  イマジン





日一日、妻のお腹が大きくなっていく。
山本にとって、何か見てはいけないものを見ているような感じがした。
巴が動物的なのである。
人間だって動物なのだから、当たり前の話であるが、それにしても、あまりにも動物的で、不気味なのだ。
8ヶ月目の検診に行った夜、巴が囁いた。
「あら、動いている、ほらほら触ってみて」
ところが触る気が全然しない。
気味が悪いのである。
しかしそうも言えず、恐る恐る手を出してみる。
動かないように祈りながら触ると何かがぴくっと動く。ビックリして慌てて手をひっこめる。巴がほほ笑んでいた。
からかっているのである。
「名前は考えてあるの?」と照れ隠しに聞く。
「あなたは?」
「女の子らしい、可愛らしいのがいいなあ」
「リン、というのはどう?凛々しいの凛よ、普通はおりん、おりんちゃん、と呼ぶのよ」
「いいじゃないか、とても素晴らしい!」
しかし内心では不満だった。なぜなら、山本リンダという歌手がいたからだ。その真似をしているようで、
嫌だった。しかし、それ以上にいい案も浮かばないし、それに単なる符号だから、気にするのは止めよう、と思った。

喫茶店の客も巴が出産間近であることを気付き、様々な表情を見せるようになってきた。
妊娠している女性を見る客の表情は、不思議なことに年齢によって大きく変化する。若い男性は概ね戸惑った
ように目をそらす。どうも正視できないようなのである。
そんな若い男性を見ると、巴はさらにおなかの大きさを誇張して見せているようでもある。その様なときは
決まって、8ヶ月目の夜に山本をからかったときの微笑みを浮かべている。からかっているのである。
若い女性は、巴に嬉しそうに微笑みかける者と、眉を細めて嫌なものを見るように目を逸らす者の二種類に
分けられる。その表情の差が極端なのである。若い女性がどうして嫌なものを見るように目を逸らすのか、
山本には理解不可能でもあった。
歳を経ていくと、男性も30歳を超える年齢あたりから微笑するようになり、これが年齢とともに増えていく。
この増加傾向は一直線で増えていき、歳を取れば取るほど増えていく。男性は年を取ればとるほど、赤ちゃんや、
妊娠している女性に対する興味は深まっていくようで、70代の男性だと決まって、微笑みで相好を崩す。
とても嬉しくなるようである。
女性の場合は男性と違って、20代や30代は年齢とともに微笑派が増加していくものの、40代でピークとなって、
それからは、やや下降線をたどる。女性は、どうも赤ちゃんに対するする興味は40代が最高のようである。

不老長寿者たちの年齢がこれまた、妊娠した女性に興味を示す割合と全く同じような分布を示している。
男性の場合は、老人の外観を持っている者が圧倒的に多く、20代の風貌の者は殆どいない。女性は男性と違って、
40代の者が一番多く、30代や50代がこれに次ぐ。つまり女性は40台をピークにして山形の曲線を描く。
巴も今や30代半ばの風貌をしている。
山本も次第に自分の風貌が若くなっていくことに気づいていた。もともと、不老長寿者になる前の自分の顔と
その後の顔は全く同じだと思っていて、どうして妻や会社の人間が自分に気付かないのか不思議だったが、
注意深く鏡を見ていると、微妙に違ってきていて、若返っていることだけはわかる。

不老長寿者のただ一人のお医者さんである木村先生に聞いてみた。
「それはねえ、私たちは、自分が一番自分であるような年齢に体が変わって行くのですよ、女性は30代や40代が
一番自分らしいと思っている人が多いから、そのような外観になるのです。
男性は、年齢的に老けている人の外観が自分らしいと思っている人が多いのではないのでしょうか。
でもね、それはあまり重要なことではありません。
どんな年齢の外観であれ、身体の機能はこれまた単純にその人が最も生物学的に優秀な年齢の状態になっていますから。
顔つきも同じです。
不老長寿者は自分が自分であることに最もふさわしいと思っている顔つきになるのです。
これは怖いことですよ、自分が自分であるに最もふさわしい、というのは、潜在意識の考え方なんですから。
あなたの顔は、あなたの潜在意識が決めるのです。誰のせいでもありません。あなた自身の顔なのです。
もともと、あなたが普通の人間であった時も、ほかの人は客観的なあなたの顔を見ていたのに、あなた自身は、
鏡の中に自分であることに最もふさわしい、自分の潜在意識の中の自分の顔を見ていたのです。
だから、不老長寿者になって、自分の客観的な風貌が、あなたの潜在意識の中にある顔に変わっていっても、
自分自身は気付かないのです、元々いつも見ていた顔なんですから。」

外観が潜在意識によるという説明には、どうも釈然とできなかった。
じゃあ、どうして妊娠している女性に対する興味の示し方の分布が、不老長寿者の年齢分布に一致しているのですか、
と聞いてみた。
「それはねえ、不老長寿者も動物だからですよ、しかも最も動物らしい人間だからです。動物であるせいです。」
と木村先生は、悲しそうに呟いた。
「不老長寿者は、最も利己的な、異端の動物なのです。
何故なら、動物の基本的な目的は、自己増殖して進化していくことです。進化して、子孫を繁栄させることです。
だから、普通の動物は死ぬことにより、次の世代に生きる舞台を譲ります。
何故なら、永遠に生きることは、自己増殖という動物の基本的な目的に反するからです。自己増殖しつつ生き続ければ、
無限に人が増え、地球に人が溢れ自己増殖どころか、生き続けることすらできなくなります。
そこで男性は、子孫が増えることが、自分の生存を危なくするという潜在意識の警告に従って、老人の顔になる人が
多いのです。
女性は、しかし、子どもを産みたいのです。だからその能力が最も高い40代中心の顔になるのです。」
しかし、子供が欲しい女性だって、不老長寿者はほとんどが独身であり、夫婦生活をしている者はほとんどいない。
何故だろうか?
「それが、不老長寿者の無限増殖を抑制する唯一の仕組みなのです。子供を産もうと思って愛情生活をすると、
その二人は、離婚したり、相手が不慮の事故等で死亡すると一年以内に、再び相手を見つけないと老化して
死んでしまいます。急激に老化しますから、相手はなかなか見つかりません。
つまり、結婚することは、相手の運命に従うことになるのです。
だから殆どの不老長寿者は、結婚しないのです。結婚して死ぬリスクを冒したくないのです。
ところが、巴さんと前の亭主は、800年前に結婚しました。二人は、死ぬリスクを恐れなかったのです。
そして子供ができました。ところがその子供は、普通の人間でした。あっという間に老化し、死んでしまいました。
二人の悲しみは、とても見ておれませんでした。だからでしょう、その後は、二人は子どもを作らなかったのです。
そして800年もの間、二人は本当に影のように寄り添い、睦まじく暮らしていたのですが、一年ほど前、
理由があって亭主が死んでしまいました。
すると巴さんは、予想よりも遥かに急激に老化し始めました。しかも、相手を見つける努力すらしないのです。
我々は、巴さんも死ぬつもりなのだと、悲しく見守っていました。
ところが、あなたの登場です。
我々がどんなに喜んだか、想像できますか?」
そうだったのか、巴と前の亭主はそんなに愛情深い生活をしていたのか、そういえば時々巴が見せる憂愁の表情を
思い出した。
霧のような深い悲しみが山本を襲った。

山本が見せた苦渋の表情を見て、木村先生が、山本の膝から手首を取り、脈拍を探りながら、医師特有の温かい声で、
山本に語りかけた。
「じゃあ、巴さんは、まだ過去の自分から、抜けきっていないのですね。」
しばらく沈黙が続いた。
木村先生は脈拍に神経を集中して、心臓の具合を診ているようだった。
そっと、手首を山本の膝に戻すと、再び口を開いた。
「しかしね、花束を巴さんに差し出したのはあなたが最初ではないのですよ、不老長寿者の中にも、巴さんとなら、
死ぬリスクを冒してもいいという者が、少なからずいたのです。
必死で説得した者もいたのです。
その中からあなたを選択したのです。
いつの日か、巴さんから、800年前、死ぬリスクを冒してもいいと思った理由や、その後の二人の物語、
特に亭主の死亡のいきさつを聞くことになるでしょう。
そしてその時こそ、あなた方二人は、本当の意味で夫婦になるのです。」