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    定年退職後の日々・・「巴の出産」
                          
                                   イマジン
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 今日の客は、どうもJRの社員であるらしい、と山本は思った。
線路の保線作業や駅舎の改築の話などを面白おかしく喋っている。それとなく聞いていると、万世橋駅舎の
 改築の話もしていた。
 昔、万世橋という駅が、中央線の東京駅とお茶ノ水駅の中間にあった。
よくよく見ると、万世橋駅があったというあたりの鉄道の高架はレンガ造りで、何やら由緒ありげでもある。
山本は、東京駅とお茶ノ水駅双方にこんなに近いのに、なんで駅があったのだろうといつも不思議に思っていた。
それもそのはずで、巴に言わせると、この駅は、天皇家がクーデター等で皇居から逃げ出すときの脱出口で、
カモフラージュのために駅の格好をしていただけ、ということだった。
万世橋駅はもともと中央線の終着駅として、東京駅よりも古く、東京駅ができる前は大いに賑わいのある一大
 ターミナルであったらしい。
しかし、東京駅完成の後すっかり寂れ、ローカルの駅としても賑わいがなくなってきて、早晩取り壊される
 運命にあった。
然し、2・26事件の後に、事件が再発した場合の事を慮って、皇居から脱出用のトンネルが掘られ、
そのトンネルの鉄道を利用する場合の出口にされたのである。
出口は、このほかに総理官邸、赤坂御所、明治神宮、最高裁長官公邸の4か所があり、 
すなわちあらゆる方向に脱出できるようになっているし、総理、最高裁長官も同様な経路で逃げられるように
 なっているのである。

 客の話によると、この万世橋駅の駅舎があった場所を高層の賃貸ビルにするということだった。
しかし、話の内容はどんなビルかということではなく、工事現場の幽霊のことだった。
作業員が、幽霊が出るといって怖がっている、というのである。
建設工事の技術者や作業員たちは、一様に迷信担ぎが多く、そのことは法律にも反映されていて、
トンネル工事では女性の作業は永らく禁止されていたのである。
もっとも法律の方は女性保護のためというもっともらしい理由であったが、その筋の訳知りの講釈によると、
戦後労働基準法を制定するときに、戦前からの、
トンネル建設現場には女性は入れないという業界の慣例をそのまま採用したものであるらしい。
業界では、山の神様は女性であるので、トンネルの中にいる女性を嫉妬して出水や土砂崩壊を起こし、
人身事故を起こしてしまう、というのである。
これ以外にも、建設現場では様々な慣例がある。
例えば、井戸を埋め立てるときには、空気穴と称してパイプを人知れず埋め込んでいる。
これは井戸に住む幽霊が、息ができるようにするためなのである。
万世橋の現場では、幽霊が出ないように近くの神主を呼んでお払いをすることになっている、
しかも日本でもトップを争うようなゼネコンの社員である現場所長が、
大真面目にこの幽霊話を信じている、と発注者であるJRの社員が冗談の種にしているのである。
この話を夕食の話題にしたら、巴が真面目な顔をして、「そうよ、度々見つかって、井上さんが不用意だと
怒っている」、という。
よくよく聞いてみると、この幽霊は不老長寿者たちであり、出入りの時に作業員に見つかってしまった、
 というのが真相らしい。
不老長寿者たちは、大昔から地下にトンネルを掘って秘密の住居にし、その出口として各地に神社を作ったので
 あるが、東京の地下には皇居からの天皇等の脱出用のトンネルが掘られ、大昔からある不老長寿者のトンネルと
 交差したために、不老長寿者たちも出入り口として万世橋駅を利用するようになった。また、駅が廃止されたら
 誰に遠慮することもなくなったので、普通人から見えないようにする〈結界〉を設置するのをすっかり失念して
 しまい、ついには見つかってしまった、という。
井上さんは、近くにある神田明神の神主をしていて、建設現場の所長からの依頼で、お祓いの儀式をする、
その際、密かに敷地の片隅に結界箱を設置する予定であるらしい。
「敷地の片隅と言ったって、あそこは坪何百万円もする土地だから、JRがウンと言わないだろう」というと、
「それはそうなので、この前井上さんが現場に行った時に手頃な石を見つけ、〈霊気がある、この石は
 祭らなければならない〉、と現場所長を脅したのよ、すると所長がそれを真に受けて、JRを説得し、敷地の
 隅に小さな結界箱としての祠を作っていいことになったらしいの。」
山本は思わずふ〜ん、と唸った。
「そういえば、あちらこちらに、どうしてこんなところに、と思うような場所に、小さな祠があるが、
 あれはそういうことなのか」、と云うと、「全部が全部そうではないけれど、その近くに住む不老長寿者の家を
 守る〈結界〉である場合が多いでしょうね」、 というのが巴の返答だった。

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 旧万世橋駅の幽霊話は、山本夫婦にとっては少し困ったことでもあった。 
というのは山の上ホテル近くの古山病院へは、神社の下から不老長寿者のトンネルにはいり、
これが暫く使えないとすると、地上の道路を使わざるを得ず、これはトンネルよりは大幅に大回りになるからである。
さて巴の陣痛は突然やってきた。 巴は自分でタクシーを呼び古山院に向かう車の中から、山本に電話をしてきた。
山本は大急ぎで店を閉め、病室に向かった。 巴は分娩室にいたが、そこには付き添いの看護婦さんがいるだけだった。 
「先生は」と聞くと、「先生が診察室でお待ちですよ」という。
古山先生は、患者の診察中だった。診察が終わって出てきた人を見ると、着飾った白人の女性だった。  
看護婦さんから連絡が言っていたのだろう、診察室のドアから、先生が、いつものキョトンとした目に少し微笑を
浮かべて、
 「やあ、お入りください」と招き入れてくれた。
「巴さんは、長引きますよ、何しろ800年ぶりだから」
 ハー」
「ご主人はいてもどうしようもないから、お帰りになってもいいですよ」
「構いませんか」
「もちろん、巴さんには何の異常もないから、ご安心ください」
「ハー、どうもありがとうございます」
というような不得要領な会話をして、分娩室に引き上げた。
巴は、少し陣痛があるらしく、時折顔をしかめる。先生が言うとおり、ベッドのそばにいても何の手助けもできない。 
だから帰ってもいいと思うが、苦しんでいる者を放り出しては、なんとなく帰りづらい。
かといって、本や週刊誌を平気な顔して読むわけにもいかない。 慰めようと思っても、そもそもどれくらい痛いのか
想像もつかないし、しかもこれから更に痛くなることが予定されている。不用意な発言は厳に慎むべきであろう。 
そうすれば、亭主としては、せいぜいため息をつくことぐらいしか能がないのである。
暫くして青い顔をした巴が、「退屈でしょう、帰ってもいいわよ」、と小声で行ったが、「フム」と答えただけで、
座り続けた。
「帰っていいといったら、それを幸いとして直ちに帰った、なんと言う薄情な」、と後々非難されてもかなわない、
 と思ったからである。
そこで、何とかかんとか1時間程度は、巴と時折会話しながら頑張った。しかしそれが限度だった。 
もうこれだけ頑張ればいいだろうと思い、「それじゃあ帰るけれど、頑張ってね、先生もいるし、安心してもいいと
思う」というと、巴がチラッと目の隅で顔を見ながら、「あなたはね」と答えた。
ぎくりとしたけど、帰るといい出したことなので、「いやいや」といいながら背を向けた。

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 午前2時ごろ携帯電話が鳴った。
 古山先生だった。無事に女の子が生まれたという。大慌てで、身支度を整え、山本は病院に向かった。
巴はまだ分娩室にいた。娘にはガラス窓を通じて面会した。 
なんとも妙な気がした。 丸っこい、小さな生き物が赤ん坊だった。 巴が目の隅から私の顔をじっと見ているのが
わかっていた。 
どういう表情をしようか、なんと言おうか、と考えた。 山本は巴の顔を見ると、意識的に目に微笑を浮かべ、
「可愛いね」とつぶやいた。
目に見えて巴の緊張が解けるのがわかった。

翌朝、巴の病室に行ってみると、6人部屋だった。みんな最近出産したという。
カーテンもなく、皆があっけらかんとして寝ていた。
同室者に挨拶しながら、顔を見ると、美しさの点では、みんな標準以下だった。 美人なんて一人もいない。 
どちらかというと、ブスばかりだと言っても大袈裟ではなかった。どうしてこんな人ばかり集まっているのだろう、
と不思議に思った。
しかし、これは山本の思い違いだった。退院して1ヵ月後の検診についていくと、
同じごろに出産した奥さん方が集まっていて、その中の美人数人から、
「まあお久し振り!」と挨拶されたのである。彼女達は同室者だという。
山本はびっくりした。つまり、病室で会ったときは、彼女達はお化粧せず、すっぴんだったのである。

なんというか、要するに山本は女性たちの楽屋裏を訪れていたのである。
舞台で華やかに歌い、踊っている美人達が化粧を落とすと、
なんと言うことのない街中のフツ―のオバサンなのだということ聞いたことがある。まさにそうなのであろう。
しかも、病室は実に居心地が悪かった。なんとなく、みんなの目つきが意地悪そうなのである。
すなわち山本の存在は場違いなのである。何であなたがここにいるの?という目つきなのである。
もじもじしていると、巴も気付いて、面会所でお茶が飲めるから、とか呟きながら山本を連れ出してくれた。 
ほっとした。
乳児室に行くと、看護婦さんが気付いて窓のところまでベッドを押してきてくれた。
ベッドの中で、娘は満足そうに眠っていた。 凄く白い色だった。これは美人になりそうだな、
と少し嬉しくなった。 
色が白いね、誰に似たんだろう、と巴に囁くと、たちまち巴の眉が吊りあがったのがわかった。 
巴はどちらかと言うと白いほうではなく、私はといえば、これはもう明らかに黒いほうだったのである。
不用意なことを言ってしまって、山本はしまった、と後悔した。 
それでなくとも、神経質な面がある巴に、この子供の親は誰だろうと遠まわしに言ったことと同じだからである。
これから一切、娘の容姿については、細部にわたる具体的な発言しないことにしよう、と心に決めた。 
きれい、美しい、可愛い、というような抽象的な表現が無難なのである。