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         定年退職後の日                   
                           
                                                            イマジン


                        
 妻には、大学のダンスパーティで出会った。
 一目ぼれといっていい。
 初めての出会いなのに、ホールの中央で踊る姿にすっかり魅入られてしまったのである。
 華やかで、優雅で、ため息が出る程にシックだった。
 ボブヘヤーが、前進するときには後ろになびいて光り輝く顔を強調し、回転のときは頬にかかって、横顔に陰影を与え、
その影が大人の女性の憂鬱を表現しているようだった。
 時として相手から離れ、両手を腰に当てて首を斜めにかしげ、唇の片端を少しまくり上げ、ほんの一瞬静止する。
その瞬間に人生の退屈さを余すことなく表現し、直後に片足をちょんと踏んで「静」から激しい「動」に移行する、
そのような妻の踊りに、切なくなるほどの憧れを抱いた。
 あの頃は、妻の美しい踊りに魅惑されたと思っていたが、今は、あの美しさは単に踊りだけから生まれたのでは
なかったように思う。
 若い女性の生命の輝き、これから人生を確立しようとする若者だけが持つ独特の美しさが、踊りを通じて周囲に
発散されていたのではないか。
 その反対に、だからこそ、予測される人生の退屈さに対する嫌悪感や、実生活に入っていない、人生の準備段階にある
時期特有の、怠惰とさえ見える生活への軽蔑の眼差しがあったのだろう。
 しかし、そのような美しさと、一種独特の表現、印象のためだったろうか、妻はホールの隅で一人で佇んでいることが
多かった。
 私も同様だった。
 私の場合は、ブルースとジルバしか上手く踊れなかったという理由だったが、そのような私を、妻が優しく誘ってくれた。

 曲は当時流行っていたパティ・ページのテネシー・ワルツ。
 私たちはゆっくり滑り出した。
 踊る妻は、羽毛のように軽く私の意のままに、あるいは私の意以上に、私の意図を予め察しつつ、誘惑するように
拒絶するようにひらひらと空中を舞う。まるで山奥の薄暗い深い森の中を、燐光を発しながら時には激しく、時には
空中に静止しているかのごとく舞う、国蝶のアサギマダラのような、美しい動きだった。

 それが妻との最初のダンスだった。

 再会後、私たちは毎日公園で会った。
 妻は、公園のベンチまで来て、雨の日も風の日も私を待っていた。どうも一日中、娘が許しさえすれば、私をそこで
待っていたらしい。
 しかし、私には喫茶店のマスターの仕事があり、ランチ提供のあわただしい時間を過ぎて、公園に行けるのは早くても
午後三時ぐらいになった。
 午後三時ともなれば、太陽は翳りだす。
 私を見ると、妻はすぐに立ち上がり、踊ることをせがんだ。
 娘は、私を、ご近所の人にリハビリにダンスを教えるボランティア団体の人だと紹介しているようだった。公園で出会う
人の中には、ご苦労様等と声をかける人すらいた。
 最初は、妻の踊りは酷かった。
 周囲で見ている人には、私が介抱しているように見えていたかもしれない。
 しかし人間は、どんなに歳取っても成長するようである。
 程なくして妻は、車椅子から脱却し、歩いて公園に来るようになった。
 そうなると、妻の動きはいよいよ軽くなり、90歳を超えた老婆とは到底思えないものに変化してきて、時には美しくさえ
見えるようになった。

 公園のダンスを、多くの人が、注目していたらしい。
 妻のダンスが向上していくと、団地の人が一緒に参加するようになり、ついには、公認のスポーツサークルとして、
団地の集会所で練習ができるようになったのである。
 驚いたことに、集会所の練習では、妻が教師をつとめた。
わけを聞くと、妻は、若いころに、日本スポーツダンス連盟の公認審査員まで勤めていたのだそうである。
 私と結婚してすっかり主婦業に専念しダンスを封印していたのである。

 始めて3ヶ月が経ち、夏になった。
 すると、妻が驚くべきことを言い出した。
 スポーツダンス競技会に出ようというのである。
 しかし、団地のサークルは中年以降の主婦と定年退職後の高齢の男性しかいない。華やかなダンス競技会にふさわしい
カップルは居ない、というのが私の感想だった。
 妻は、いや若い人だけじゃあない、中高年も多数出るのよ、それに励みになるじゃない、というのである。
 妻が声をかけると、面白がって、2人の主婦が名乗り出た。男性はなかなか手を上げなかったが、ようやく
高齢者の方が,妻の説得に負けて同意した。
 妻は、参加者が2組だけでは寂しい、せめて3組に、とこだわる。すると参加者から、じゃあ先生とボランティアの方が
出ればいい、と声が上がった。
 私が尻込みをしていたら、驚いたことに妻が顔を赤らめて、じゃあ出る、という。
 妻は90歳を超えた。ダンスの練習をして元気になったとはいえ超高齢者である。その妻が出るというのだから、
私が断れるはずもなかった。

 調べてみると、次の競技会は12月だった。
 ラテン部門とスタンダード部門の2種類があり、ラテン部門はサンバ、ルンバ、チャチャチャ、パソドブレ、ジャイブ、
スタンダード部門は、ワルツ、タンゴ、スローフォックストロット、クイックステップ、ウインナワルツであり、
いずれもこれらの五つのリズムを全て、こなす必要があった。

 競技会まではわずか4ヶ月、猛特訓が始まった。
 審査は、これまた五つの分野があり、音楽性、フットワーク、ムーブメント、表現力、それにボディラインが
審査項目らしい。
 最後のボディラインには驚愕した。妻は90歳を超えている。ボディラインなんて評価の対象にすらならないだろう。
 しかし妻は自信満々だった。
 練習は一段と熱が入り、私が到着する前にも、連日、昼食前から数時間しているらしい。
 私が3時ごろ行くと、それから妻は私を叱咤しながら、二人だけの練習を5時までおこなう。
 正直言って、私は驚きの連続だった。
 40代、50代の主婦に忽ち筋肉ができて若々しいスタイルに変貌したのは、連日の猛特訓の成果であるだろうと
納得したのであるが、60代や70代の高齢男性までもが、実に見違えるほど若々しくなり、歩き方さえもが
若者同様となったのである。
 最も驚いたのは、妻だった。車椅子に乗っていた妻が、10代の娘のような身体の動きを見せるようになったのである。
 サークル員に一人で模範演技を見せている妻の体の動き、手のしなやかさ、足の動き、それはまるで若々しい
オードリ・ヘップバーンのようなものだった。皮膚の張り、色艶を無視すればであったが。

 12月が来た。
 東京地区の競技会は新宿の体育館だった。
 わたしたち3組は、会場の更衣室で着替えをした。
 男性の服装は燕尾服、女性は肌を惜しげもなく露出したカラフルなダンス服だった。
 それを見て私は心配になった。
 妻はどのような服装だろうか。
 ちょっと遅れて現れた妻は、手首から足首までの白いレオタード、それに濃いブルーの簡素なドレス、ドレスと同色の靴、
そして顔、首等露出している肌は,全て、厚い白塗りで、目だけがアイラインで濃く縁取りされ、強調されていた。
このような妻の衣装、化粧の全てにおける質素さ、慎ましさは、他の踊り手の華やかさの対極にあるものだった。
 妻も不安だったのだろう。目で微笑みつつも、どう?と、聞いているようだった。
 私は耳元で囁いた。とても美しい、本当にとても美しいと。
 心から、そのように感じたのだ。
 不意に、目頭が熱くなった。
 目尻に浮かんだ私の涙を目ざとく見つけた妻は、手に持ったハンカチをそっと渡しながら、小娘のように、はにかんだ。

 競技会の参加者は100組ぐらいだった。
 6組ずつが一緒に踊り、審査員がその都度半分ぐらいを選抜し、2回目選抜、3回目選抜と競技者数が少なくなっていく。
 課題リズムは5曲で、一曲約1分半程度の長さが5曲なので7分程度踊ることになる。
 7分の踊りは、肉体的にとても辛かった。
 これが決勝のファイナルまで行くには、7回ほどの選抜を必要とした。私たちの3組は、意外に好調で、準準決勝まで
通過したが、準決勝で2組が落ち、決勝戦には1組だけが残った。
 その1組は妻と私だった。

 妻は相当疲労しているようだった。アイラインが汗で流れ、目の下の白い肌の所々で滲み出していた。
 私たちは相競技者10人と共に、手を組んで、曲の始まりを待った。
 最初はウインナワルツだった。その軽快なリズムに心が浮き立った。妻も同様のようで、私たちは滑らかに踊りだした。
タンゴ、スローフォックストロット、クイックステップと続いた。しかし、妻は、再び疲労の極みにまで達したようだった。
 目はうつろになり,顔は吹き出る汗のためにアイラインの黒い色が流れ、縞模様となって異様な風貌となっていた。
 最後の曲を待っている間に、耳元でやめようかと囁いた。しかし妻は激しく首を振った。
 曲が始まった。
 テネシーワルツだ。
 私たちは、お互いに歌を口ずさみながら、滑り出した。
 もう競技なんぞどうでもよかった。お互いの目だけを見ながら、二人のためだけに踊り続けた。
 テネシーワルツを踊る妻は次第に、更に動きが軽くなった。若い頃妻の踊りは高級車のようにスムーズで、蝶のように、
軽かった。しかし今の妻の軽さはそのような尋常な軽さではなかった。
 まるで重さがないような、空中を浮遊しているような軽さだった。

 加えて、やせ細った身体に白いレオタード、それに濃紺のパーティドレスと小さな足の同色の靴、真っ白な肌と顔に流れる
黒い縞模様は、ダンス競技者としては、誰が見ても、異様な姿であったろう。
 しかし私にとっては、その異様さは、昔、京都で見た薪能の美しさのようなものだった。
 いやそれよりもはるかに美しく、はるかに妖しげで、この世の者とは到底思えないような、神秘的な美しさだった。
 そのような姿で妻は踊り続けた。
 三拍子のリズムに合わせて、一拍目は二人とも大きく体を沈めながら、足を踏みだす。
二拍目から三拍目にかけては大きく伸び上がる。
 これは、まるで大海のゆったりした大波に身を委ねるような、快楽であった。
 その快楽が次第に高まり、これ以上ない至福に至ったと思った瞬間、妻が、放心したように顔を天に向けた。その瞬間から、
 妻は、この世の現実から離れ、一心不乱に神に祈り始めたように思った。
 その祈りの姿は、曲の進展に伴い、千変万化した。
 時には組み合ったまま激しく舞い、時には両手を離して頭をたれ、あるいは天を見上げる。
 妻の姿は、最早、ダンス競技会出場者の域をはるかに超え、神楽を舞う巫女のようでもあり、能の老女のようでもあった。
荘厳で、厳粛で、時として美しさよりも悲しみを感じさせた。
 その全てが、神よ死すべき運命の私に慈悲と祝福を、と祈っているようだった。

 永遠に続くかと思われた曲がついに終わった。
 その瞬間、妻も放心状態から戻り、踊りをピタリと止めた。私たちは、再び見つめ合った。
 静寂が会場を包んだ。

 直後に万来の拍手、観客は総立ちだった。
 そしてその時私たちは気づいたのである。5組の相競技者は自分たちの踊りを中止し、ホールを私たちのためだけに提供して、
見守っていたのだ。
 しかも、相競技者の数人はとめどなく流れる涙を拭こうともせず、大きな身振りで拍手していた。
 私たちは何度も何度もお礼のバウを繰り返した。

 これが妻との最後のダンスだった。