「観光立国日本」第5回 イマジン 特命担当室の発足以来、約6ヶ月が過ぎて、青木チーム、堺チームの作業も進んできた。 いよいよ、その内容を総合して基本方針の策定作業を始める時期がやってきていた。 そこで、岡本が秘書課の3階にある会議室を借りてきて、担当室全体で議論をすることになった。 「まず最初に言っておきたい。この会議での議論は、役職とか、先輩後輩とか、そういう関係にとらわれず、 みんな平等の立場で自由に発言してほしい。そのほうが良い結論になると思う。マッ、お前たちにこんなことを いう必要はないか。日頃から、遠慮と言うものを知らん連中だからな。」 「ケッ、それだけは岡本さんに言われたくないなあ」と堺が日頃の岡本の口癖を真似してまぜっかえしたが、 岡本は聞こえなかったふりをして、続けた。 「これは、俺がこれまでの議論を踏まえて大雑把にまとめてみたものだ。君たちの意見を引き出す為のたたき台 としての役割のものだから、この考え方の正反対のものが結論であることも十分にありうる。自由に討議してほしい。 さて、俺たちの仕事は、製造業を中心とする日本の産業は崩壊寸前に来ているという考え方から始まった。 そこでまず、この認識が正しいかどうかだ。 山本君らのペーパーによると、世界で始めて産業革命を起こしたイギリス、次のアメリカ、ドイツ、フランス、 これらは、いずれも後発の国の発展により、その先進産業は潰されてきたという。 イギリス、アメリカはそれぞれ独自の手段、例えばアメリカは移民の活用とドルの世界支配、イギリスは 金融産業と石油により発展を持続している、と言うがドイツ、フランスはどうなんだろうな?此処がもう一つ わからない。」 山本がすぐに応じた。 「ドイツやフランスは、アメリカやイギリスのように自国特有の生きていく手段が見つからなかったんです。 そこで、彼らはアメリカの真似をしようとしています。EUを創設して、貧しい加盟国から低賃金の労働者を移入する、 つまりアメリカの移民の受け入れの真似ですね、それとユーロの支配、これはドル支配のヨーロッパ版ですが、 この二つで生き延びようとしています。 しかし、これは先行きに不安があります。 まず労働者の移入ですが、これが成功する為には、移入労働者がドイツ、フランスの文化に同化し、そこの国民に なろうという意欲と、もう一つは、受け入れ側に同じ国民として受け入れようという基本的な合意が必要です。 アメリカには、この二つがありますが、ドイツ、フランスにはこの双方ともありません。 例を申し上げると、40歳そこそこでアメリカの国務長官になったキッシンジャーは、ドイツ人でした。 幼少の頃にアメリカに移住してきた人です。そんな経歴の人間が30数年後には国務長官になるという文化が アメリカにはありますが、階級社会のフランス、ドイツにはないんです。また、労働者もそれぞれの母国の文化を 引きずっていて、フランス、ドイツの国民になろうという考え方がありません。 それに、フランス、ドイツの思惑を他のヨーロッパ諸国も既に気づいていて、EUの運営が両国の意図どおりには 進まなくなりつつあります。イギリスがユーロを採用していないのがその典型ですが、いまやEUの憲法すら成立が 危うくなっています。 おそらく、フランス、ドイツは、ポルトガルやスペインのように過去の栄光のみが残っているだけの、たそがれの 国になっていくでしょう。」 「つまり、後進国が追いついてきたら、先進国はその国独自の手段、方法を編み出さない限り、たそがれていくと 言うことか?」 「そうです。後進国の低賃金と最新の設備の組み合わせには、先進国は到底勝てません。これは歴史の必然です。」 山本の下にいる経済職の杉山が続けた。 「岡本さん、たそがれて行けばまだいいほうですよ。たそがれはゆっくりときますからね。フランス、ドイツが たそがれていく余裕があるのは、傍に中国という国がないからです。 日本にはすぐ隣に中国があります。 中国には、農村地帯に貧しい15億の国民が住んでいます。この内陸部の貧しい農民たちが民工として、発展している 海岸部に洪水のように流入しています。今も世界各国に中華街がありますが、豊かになる為に中国人は外国に行く 必要があったからですが、いまや、外国にいく必要もなくなったのです。自国内の移動で足りるようになったのです。 中国はアメリカのように外国の労働者を受け入れなくても、国内でまかなえるのです。彼らは中国語を話す中国人です。 受け入れるとか、同化するといった問題が何もないのです。 それに、中国は世界4大文明の発祥地ですし、日本がまだ未開で野蛮な邪馬台国の時代に、既に中国は諸葛孔明や、 曹操の活躍する三国史の時代になっていました。数千年の昔から日本よりは遥かに発展していた国でした。その優秀さは、 歴史だけでなく、世界各国の華僑や、中華街を見れば十分でしょう。 日本国内の衣料品を見てください。その殆どは中国製です。10年ほど前は、安かろう・悪かろうでした。いまや、 日本製品と何の遜色もありません。安かろう・良かろうです。此処までくるのにわずか10年です。 鉄鋼だってそうです。日本の鉄鋼製造プラントの輸入により、30数年前に中国は初めて近代的な鉄鋼製造設備を 持ったのですが、わずか約20年にして鉄鋼の汎用品は日本は到底かなわないようになりました。現在日本がリード しているのは、わずかに自動車用鋼鈑だけです。中国がなお、自動車用鋼鈑を日本に頼り、かつそれで良し、 としているのは、民族資本の自動車製造企業が育っていないからです。 しかし今年、中国は、アメリカの自動車ショーに史上初めて、民族資本の乗用車を出品しました。これを アメリカのマスコミが大々的に報道していますが、いよいよ中国の自動車がアメリカに上陸してきたと 受け止めているからです。 自動車用鋼鈑は亜鉛メッキされたものですが、これをトタンと言いますね、これはポルトガル語のTutanaga (ツタンナガ)からきたものですが、このTutanaga(ツタンナガ)は、遥かな昔中国からポルトガルに 輸入された亜鉛の名称だったのです。 亜鉛は中国が原産なんですよ。 新日本製鉄は、昭和40年代の中葉、八幡製鉄と富士製鉄が合併したもので、資本の大きさ、日本経済における 重要性、いずれをとっても、当時日本最大の企業でした。鉄は国家なりと豪語し、今のトヨタよりもはるかに大きく、 国内でも世界でも群を抜く企業でした。しかし、この新日本製鉄がその地位を保っていたのは10年もなかったでしょう。 韓国等の後発組に追い落としを受けたのです。 最近のことを言いましょう。いいですか、新日本製鉄は10年前には社員は8万人いました。今はT万人です。 八分の一に縮小しています。これで10年前と同じ新日本製鉄と言えるでしょうか。少なくとも昭和40年代の新日本製鉄は 潰れていると言うべきです。 中国が自動車を本格的に生産するようになったら、自動車用亜鉛鋼鈑も国内で生産し、外国資本の自動車と競争できる ようにするでしょう。そうなると、日本の自動車も鉄鋼も到底中国に太刀打ちできません。それまでに後どれくらいの 時間が残されているでしょうか。 日本の自動車産業を思い出してください。 トヨタ、日産、ホンダがアメリカ市場でアメリカの企業と競争できるようになるのに、初めてのアメリカ上陸後10年も かかりませんでした。 中国はどうでしょうか?トヨタが日本企業のトップで有り得るのは、新日本製鉄より長いでしょうか? 鉄鋼産業が最終的に壊滅するのは、長くても後数年でしょう。自動車はそれより少し遅れるでしょうが、10年は持たない と思います。 私と山本さんは、戦後の経済体制は、昭和の終わりにバブルとなって、昭和の年号とともにパチンとはじけて消えた のではないかと思っています。それから17年、デフレの中を日本は良く持ちこたえたと感心しています。 しかし、これ以上はもう無理だという兆候がいたるところにあります。 ここ数年、製造業を始めとしてあらゆる産業で、リストラを実施する、実施できる経営者がもてはやされてきました。 これは明らかに、既存産業の縮小が日本経済にとって不可欠であることを示しています。 フリーターやニートと呼ばれる若者の日雇い労働者、半失業者や完全失業者の増大もそうです。彼らの大半は 勤めるところがなくて、やむを得ずこの状態になっているのです。 最近、中国経済の発展によって、雇用情勢が好転してきたと言われていますが、雇用が拡大しているのは、契約社員、 派遣労働者、短時間労働者などの非正規労働者のみです。 設備投資が拡大しているのに正規労働者の雇用が増えないのは、生産設備が装置産業だからです。装置を作りさえ すれば、非正規労働者で生産が十分拡大できるからです。 そうならば、中国でも生産を拡大することが出来ます。しかしそうならないのは、中国の各産業がいびつに発展し、 そのいびつな発展の隙間を埋める作業が、経済のあまりに急激な発展の為に追いつかないからです。このような 特殊な需要が、一時的に日本に向かっているだけなのです。 中国経済が整然と発展するようになれば、このような一時的な中国特需は消滅するでしょう。 そのときは、設備投資を拡大した企業をかかえる日本経済にとって、本格的な地獄が始まると言うことに なるでしょう。」 「君たちの考え方はわかった。しかし君たちの論理は、将来日本の産業がいつかは没落するという理由にはなるが、 日本の鉄鋼や自動車が10年以内に没落するという根拠にはならないのではないか。」 「そう来ると思いましたよ。」と山本が応じた。 「実はわれわれは、イギリスのマンチェスター、アメリカのピッツバーグなどの鉄鋼を始めとして、各先進国の鉄鋼、 自動車、造船、紡績、電気製品等の主要産業の生産高の経年変化を詳細に調べました。 これは大変な作業でした。国会図書館、大学図書館、業界団体の資料室、主だった企業の社史編纂室等など、 あらゆるところに首を突っ込みました。お蔭様で、埃症というのか、埃のアレルギーになりました。これは職業病だと 思いますよ。それなのに青木さんは、お前ら、何処をほっつき歩いてサボっているんだ、と怒るんですからね。 岡本さん、何か言ってやってくださいよ」 「嘘を言うな。お前は、去年ゴルフに行った時、俺に負けたのは花粉症の所為だとほざいていたじゃないか。」 「青木さん、あの時は花粉症で、今は埃症なんですよ。まあ、この部屋の上司はいずれも頑固者だから、この程度の ことは我慢しますがね。 さてそこで、生産量を縦軸に、横軸に期間をとってグラフにすると、綺麗な帽子状の曲線、つばつきの男性用帽子の 形ですがね、が出来ます。勿論、世界経済は拡大していますから、それに応じて生産数量は全世界の生産量に占める 割合により補正する必要があります。 これを年代順に並べると、実に綺麗な、一定の法則に従った変化が見て取れます。」 山本が、表を取り出して配った。帽子上の曲線がいくつも描いてあり、当初は帽子のトップのところが高原状に なっていて、カンカン帽子のような形であるが、年数が進むにつれてそのトップの平坦な部分が狭くなっていき 麦藁帽子状やトンガリ帽子状に変化していた。 「どうです。綺麗な曲線で、綺麗な変化でしょう。われわれもびっくりしたんですよ。戦争やいろんな出来事に よって若干の変化はありますが、各先進国の産業ごとの変化はびっくりするほど良く似ているでしょう。 どうです? 日本の鉄鋼はかなりトップから下降して帽子のつば状の部分、つまり低位安定のほうに近づいていますね。 自動車産業は、まだ帽子のトップ部分にいますが、後しばらくすると下降し始めると思いませんか。 帽子状の曲線の変化を数学的に解析すると、自動車は10年プラス・マイナス4年で下降を始めると予測できますし、 鉄鋼は7年プラス・マイナス3年で低位安定の帽子のつば状の部分に到達します。 こうしてみると、各国の産業の発展・没落と言うのは、人間の努力や英知を超えて、法則に支配されているん ですねえ。なんか空しいものがあります。」 みんな呆然としてこの曲線を見詰めていた。 岡本が口を開いた。 「恐ろしいほど整然としたグラフだ。しかし、先進国家の産業が没落を始めると言うのは、後発の新しい先進国の 誕生によるのだろう?この曲線によると新しい先進国の誕生も法則に従っているということになる。なんか 信じがたいなあ。」 田村も首を振りながら、信じられないという顔つきだったが、 「そうかもしれない。国や社会、政権の盛衰も歴史を見れば、人間の英知を超えた一定の法則があるようだ。 ましてや、産業は社会全体の必要性から発生し、不要になるから没落するのだろう。むしろ、最も法則性を 持っているのでないか。私はこの通りだと思う。 しかし、この表はあまりにも明快すぎて、不気味なほどだ。これを公表すると、この表を巡って神学論争が起きる。 その結果、世の中に議論してもらいたい産業問題から焦点がぼける。これは伏せておこう。この表があらわす産業の 没落の状況を、適宜文章で述べる形で使って、自動車産業や鉄鋼、その他の産業の盛衰を予測するという形に すればいいのじゃないか。それに、10年近くで製造業が潰れるというのは、総理や大臣の確信だし、それに沿う ある程度示せば、我々の役目はそこまでだろう。 本来、自国の産業の盛衰を予測するのは総理や大臣に専属する英知だよ。そこに、科学的な、或いは学問的な立証 というのは必要ないし、そもそも不可能じゃないか。 総理や、大臣の勘がでたらめでないことを確認するまでが、われわれ役人の義務だし、われわれの義務はそこまで だと思う。いいよ、これでいこう。」 と決断した。 「じゃあ、次は、だから観光産業ということになるが、少々突飛のような気がする。日本や世界の経済分析から、 観光産業に行き着くのには、もう一理屈が必要であるなあ。」と岡本がぼやいた。 「エーッ、それは十分じゃないですか、先進国が後発国に追いつかれたら、アメリカやイギリスのように、 後発国が持ち得ない、その国独自の産業を発展させる必要があることは、縷々説明しているじゃないですか」と 山本が心外だという口調で反論した。 「それは判っている。しかしその独自の産業が観光産業しかないという理屈だよ。いや、日本にこそ世界にない 独特な観光産業が十分に発展して、国民が食っていけるという理屈かなあ。」 「まず、しかないという理屈を探してみましょうよ。 何とか旨くやっているアメリカとイギリスの例から検討しましょう。 最初は通貨の問題ですが、アメリカのドルとまでは行きませんが、イギリスのポンドのように円を地域的な 国際通貨にするということが考えられますが、奥津先生の話ではアメリカの反対で到底不可能のようですね。 まあ、アメリカが反対しなくとも中国の元には到底勝ちそうもありませんし、もし仮に中国が元をアジアの 地域通貨にするというような野望を持ち、それが実現したら、日本は、中国の属国にならざるを得ませんから、 それを防止する為にも円の国際通貨化など、決してやろうとしてはならないし、むしろ、ドルがアジアでも 唯一の基軸通貨であることを日本としても推し進めるべきことですよね。 次は、アメリカのように移民労働者パワーの活用ですが、さっきの山本君の説によると、移民労働者の 活用には、移民労働者を日本人として受け入れる文化が必要のようですが、朝鮮半島出身者のことを考えると、 これも到底不可能というべきですね。 最後は、イギリスの北海油田のようなエネルギー源が日本にあるかどうかですが、これは到底ありませんね、 石油は無いし、石炭はありますが環境問題で使えないし、アッ、そうそう、日本は200海里の専管水域を含めると 世界第10位の広い国だそうですね」と堺が言いながら、しまったという顔で、青木のほうをチラッと見た。 岡本は、その堺の表情から筑波山の奇妙な老人の話が、田村室長の口止めにもかかわらず堺に伝わっていることに 気づいた。 青木が堺も知っておくべきだと思って漏らしたのに違いない。そして少し嬉しくなった。これは室員の一体感が 既に十分成立していることを意味しているからだ。 岡本は先を続けるようにと、無言で堺に促した。 「日本が排他的に使える海底や海水が豊富にあるということになりますが、深海には、マンガン塊などの新しい 資源が豊富にあるそうだし、凍ったメタンの固まりもあるそうです。また、核燃料の重水素は海水から採取できる そうです。新しい資源も活用しようと思えば日本は世界の中で大変有利な立場にあるようですね。 そうだ、観光産業以外に有望な新産業があるじゃないですか」 「そりゃ、ちょっと無理ですよ」と技術系職員の藤下が呆れたように口を挟んだ。「深海の資源の採取なんて、 これから確かに有望な産業ですが、実現できるようになるのは遥かに未来のことです。重水素なんて軽く おっしゃいますが、重水素を燃やすということは炉の中に太陽を作ることなんですよ。今世紀中に実用化が 出来れば御の字という代物です。当面、到底製造業の代わりにはなりません。」 「判ってるよ、念のために言ってみただけだ。」と堺が目を剥いた。 「いや大事なことじゃあないか、日本が未来のために新産業を模索するというのは。海底や海水の利用・開発も 大事なこれからの産業だと思う。」と田村が訂正した。 「そうですね、観光産業だけでは夢がないですよね。 私はロシアからの帰国直後、尿管結石になりましてね、虎ノ門病院で衝撃波による結石の破砕をしてもらったん ですが、もともとその機械は、ドイツで潜水艦を破壊せずに乗組員だけを殺す兵器の開発を下敷きにして 発明されたそうです。 新しい産業がどういうことで生まれるか予測がつかないということもありますから、先端産業のための研究・ 開発を日本の未来のために推進するというのを、方針の中に入れましょう。」 それまで黙っていた青木が口を開いた。 「堺さんの分析はその通りですし、室長や岡本さんの意見にも賛成です。しかし私は違った分析をし、 違ったまとめ方をしたい。アメリカのドル支配は軍の力であり、軍の力はインターネットと監視衛星、それに トマホークによるということでしたね。これは先端産業です。違った言葉で言えば科学技術的に「他の追随を 許さない産業」です。イギリスの油田は人類に不可欠な産業ですし、 これも資源的に「他の追随を許さない産業」といえるでしょう。移民労働者の利用というアメリカの力も、 アメリカの社会的に真似の出来ない文化があってこそ成立するもの、という意味で社会文化的に「他の追随を 許さない」ものです。 つまり、後発国の追い上げを避ける為には、資源的に、科学技術的に、文化的に「他の追随を許さない産業」 を探すということが必要なのではないでしょうか。そういう意味で、堺さんの言う海水や海底の利用、室長や 岡本さんの先端産業の育成や、そのための研究開発の推進というものを位置づけたらどうでしょうか。」 「流石に法律屋だな、まとめ方がうまい。新味は何もないけどな」 「ケッ、岡本さんと話すと気力がなえますね」と青木がぼやいた。岡本の口癖は室員全員の口癖に変わりつつ あるようだった。 「すると青木君の言う、『資源的に、科学技術的に、文化的に他の追随を許さない産業』のうち、資源とか 科学技術の分野は解決がついた。最後に文化の分野だな。これが観光産業か。観光というのは珍しい景色とか、 歴史遺産とか、そんなものだろう。 歌舞伎や能の観劇ツアーなんて高が知れている。文化を見せる観光産業なんて成立しうるのか、オイ」と 岡本が疑わしそうに室員を見渡した。 「私の兄貴は、MITを出てサンフランシスコでサラリーマンをしています。最近アメリカ人と結婚したんですが、 この間帰国してびっくりしていました。最初の給料の時全額を嫁さんに渡したら、嫁さんが驚いて、 こんな大金を1月で全部使っていいのかと聞くんだそうです。兄貴も驚いて、いやこのうちいくらかは俺に 小遣いとしてくれ、残りは始末して、ある程度の金額になったら 株や債権に投資をして将来に備えてほしいといったんだそうです。 しばらくしたら、義父がやってきて、『娘に聞いた。男らしくしろ、家計は自分でやれ、女々しくするな』 と説教したんだそうです。 兄貴が『日本の常識は世界の非常識なんだよな』とシミジミといっていました。日本の女性の地位は世界でも 独特のようですよ。 この独特の文化は、工夫すれば結構観光の対象になるかも知れませんね」 「杉山よ、お前は結婚したら、宿舎を外人観光客に公開するんだな、奥さんからひっぱたかれている姿を 見せたら外人は喜ぶぞ」 と堺がからかった。 筑波山の奇妙な老人の話はすっかり室員に知れ渡っているな、と岡本は感じた。それに、この連中がこんなに 引用するところを見ると、あの老人の考え方には一定の説得力がそれなりにあるようだと感じた。 「そりゃあ、堺さんのとこでしょう。」 「黙れ、俺の家庭は亭主関白だ」 「ハッハ、どこが?この間お邪魔した際は、隅っこで小さくなっておられたくせに。 いずれにしても、日本が世界でも類稀な女性の文化だというのは正しいと思います。かな文字は女性のために 女性が作ったものでしょう。こんなことは他の国にはありません。それに、日本のもっとも古い小説である 源氏物語は女性の作品で、女流文学としては世界で最も古いものですよ。」 「源氏物語か、それはそうだな。しかしありゃあ、都合のいい浮気物語だよな、渡辺淳一の淫猥な小説と 同工異曲だ。」 「全く、岡本さんにかかると、世界に誇る古典も薄汚く見えますね。それに渡辺淳一が怒りますよ。」 「渡辺淳一も若い頃の作品は詩情があったなあ・・・・。まあ、そんなことはどうでもいい。実はこの間 デイズニーランドに行ってきた。」 皆がエーッというような顔で岡本を見つめた。話が唐突だし、どう見ても容貌魁偉の岡本には似合わない。 岡本が慌てて付け加えた。 「いや行きたくて行ったんじゃない。家内の姪が田舎からやってきて、俺はお供さ。 そのとき、気づいたんだ。テーマパークも設備だけでなく、そこに物語や独特の雰囲気がなければならんとね。 むしろ設備の豪華さなんかより、必要なものは雰囲気なんだな、雰囲気が独特だと設備はちゃちなものでも 良さそうだ。つまり、物語や雰囲気から、そこが日常生活では決して経験できない異次元の世界となって おれば、人は繰り返し訪れるものらしい。」 「つまり、日本全体をテーマパークにすれば、観光客を呼べると岡本さんは考えているんですね。 その雰囲気を作る為に、日本独特の女性文化をテーマとすればよいということですか。」 と言いつつ、田村が考え込んだ。 「そうかもしれない。ローマはルネッサンス以来観光を主要産業にしているが、ヴァチカンの衛兵の華美な 服装は、ミケランジェロがその為に特別にデザインしたものだと云われている。 それにね、『ローマの休日』で有名なトレビの泉は、何の変哲もない小さな人工池だし、王女様が手を 差し込んだ獅子の口は、それこそ言われてみないと決して気づかないような小さなものだけど、観光客が 次々に手を入れて楽しんでいたなあ。そのときローマを案内してくれた大学時代の友人が言っていた。 『ローマの休日』の舞台はパリでもロンドンでも成立するが、何故ローマが舞台かというと、当時の イタリア政府の陰謀なんだと。つまり、第二次大戦時のムッソリーニの陰惨な印象を払拭して、再び 華やかで夢のあるローマにする為に、ハリウッドからマッカシーの赤狩りで仕事がなかった監督を呼び、 安上がりに作らせた観光映画だそうな。 この映画の成功で、今もローマは観光地になっているということだった。 つまり、観光地というのは一定の設備、装置と、それを生かす雰囲気があれば成功するものかもしれない。 岡本さんの言う異次元の世界だな。それが本当かどうかは関係ないようだ。」 「難しいことをいわなくても、日本のイメージは大昔から、フジヤマ・ゲイシャです。フジヤマ・ゲイシャで 観光産業をやれば、ぞろぞろ観光客は来ますよ。ゲイシャ問題は十分にわかりました。私が腕によりをかけて、 ゲイシャを描きましょう。何しろ理路整然とデタラメを書くのが、私ら法律屋の商売ですからね。」 「こらッ、青木、真面目にやれ。これは国家的施策を検討しているんだぞ。」 「分かってますよ、岡本さん。あ〜あ、疲れるなあ。 ところでフジヤマの問題ですが、この間、新幹線の窓から富士山を見て愕然としましたね、日本平からの 富士山はきれいな風景の象徴でしたが、富士山の前には、製紙工場の高い煙突があってモクモクと煙が 出ているし、縦横に高圧線が走っていて、その鉄塔で美しい風景が台無しになっていました。日本全国 こんなことになっているんじゃないでしょうか。この問題を解決しなければ、観光産業は無理でしょうね。 室長、ヨーロッパでは電線はどうなっているんですか」 「そういえば高圧線は殆ど見なかった。風景の邪魔にならないように上手に鉄塔を建てているんだろう。 地中化しているのかもしれない。都市は、殆どそうなっているから街路が整然としてきれいだ。日本でも、 低圧線は都市の一部では地中化してるよね。藤下君、高圧線の地中化は技術的にはどうだろう?」 「日本の高圧線は最高が50万ボルトだと思いますが、これ用のケーブル線が既に有りますから技術的には 問題ありません。50万ボルトを超えるものがあっても、ケーブル線はすぐに開発できます。問題は、 費用ですよ。莫大な投資が必要でしょう。 しかし、同じエネルギー源の都市ガスは完全地中化されているし、要は意識の問題でしょうね。」 「フ−ン、すると、金の問題か。金は、この前の堺君の講義によると、国債発行でまかなえそうだな。」 「岡本さん、誤解しないでください。国債は無限に金の出る打ち出の小槌ではないんです。あの時も言ったでしょう。 国民が国の将来に希望を持っているとき、すなわち円の未来に確信を持っているとき、という限定がついているんです。 国民は今日本の将来に希望を持ち、円を信認しています。その希望や信認には私は何の根拠もないと思っていますがね。 日本がこんな状態なのに国民がどうして希望を持っているのか、円を信認しているのか、不思議でなりません。しかし、 この希望、信認が続く限り大丈夫でしょう。 それに、今検討している我々の施策が、国民に希望を持たせる為のものだとすると、どれだけ金を使えるかは、結局、 この施策の出来栄え、国民に対する説得力いかんにかかっていますね。」 「そうか、要はこの施策の出来栄えだとすると、じゃあ、金の問題は、後でいいな。 さて、青木君のいうフジヤマ問題のもう一つは、風景を害する工場の存在だよな。これは観光産業を邪魔するんだから、 大臣の言うように潰す以外にないだろう。しかし、風景が汚くなるから潰すというのじゃあ、芸がないなあ。」 「岡本さん、私が言っているフジヤマ問題は、きれいな風景だけじゃあないんです。富士山というのは日本風景の 代表でしょう。 つまり、外国人観光客に日本の風景として見せるものは何かということですよ。これはゲイシャ問題とリンク しているんです。 外国人向けの絵葉書には両方が同時に描いてあるじゃないですか。あれは単に有名な絵柄を並べているだけじゃ ないと思います。 そう考えると、これは、ゲイシャ即ち日本独特の文化を阻害する工場の問題であり、工場は生産システムですから、 結局のところ、日本文化を阻害する生産システムは何かという見地から、考えるべきだと思いますね。」 「筑波山の老人が言っておったなあ、日本人は生まれたところで育ち、そこで生涯を送るべきだ。そうしないと、 日本の文化が途絶えると。」 「そうです、そうです。よく分かりましたね。」 「ケッ、お前は俺を試しているのか」途端に田村以外の室員が手を叩いて喜んだ。久しぶりに聞く岡本の 「ケッ」だからだ。 「いやいや、失礼いたしました。」と青木が珍しく頭を下げ、素直に謝まった。 「おっしゃるとおり、あの工場がわれわれの癇に障るのは、全国から大勢の人を集めて始めて成り立つ大量生産 システムの工場だからです。生まれたところで生活をするという日本古来の文化を否定しているからだと思います。 終戦前までは、一部の大企業を除けば、日本は、基本的には農民や職人と、小企業主による生産システムでした だから、多くの人が生まれたところで死ぬことが出来たんです。 つまり、これからの日本は、農民や職人と小企業の起業家つまりアントレプレナーによる生産システムに変えて いくということが必要だということになりますね。 それに、スイスや南仏をどうしてヨーロッパ人が好むか、それはやっぱり工場がないからだと思います。 スイスなんて、はと時計の工場だけですからね。工場がないことは観光地の最低条件じゃないでしょうか。」 「言いたいことはわかった、フジヤマ問題とは、つまり観光客に見せる日本独特の風景は何かということだな。」 と田村が続けた。 「そうです。江戸時代の末期や明治の初期に日本に来た西洋人の文章を読むと、日本は、本当に公園のように 美しい田畑、山には石組みの箱庭のような段々畑が幾層にも連なり、空には鶴、コウノトリ、朱鷺が舞い、 水辺には各種の水鳥が人を恐れず悠々と泳いでいる、何と心優しい国民かと感動しています。鳥類の捕獲を 幕府が死罪をもって厳禁していたからで、誤解ですけどね。 しかし、このような風景こそ、日本の原風景ではないでしょうか。」 「個人的にも絶滅した朱鷺が日本の空を飛ぶ姿を見てみたいなあ、俺はバードウォッチャーなんだ。」 みんな驚いた顔をして岡本を見た。岡本にそんな優しい一面があるなどとは思ってもいなかったからだ。 「お前たちは俺を、一体なんだと思っているんだ。」と岡本が愚痴った。 「岡本さん、それは可能かもしれませんよ、さっき先端産業の育成ということが決まりましたが、朱鷺復活作戦と 命名して、遺伝子工学を推進するというのはどうですか。夢があっていいですよ。」と山本が言ったが、これは 真面目な主張なのか、軽口なのか、岡本も判断出来ない様子だった。 「朱鷺復活作戦はいいが、そのような風景の維持には膨大な農民がいるなあ。農民は、当面、団塊世代のシニア などをボランテイア的に活用するにしても、農業では到底食えんぞ。」 「勿論、農業では食えません。しかしね、長良川の鵜匠を知っていますね、あの人たちは、実は宮内庁の式部職 という、れっきとした国家公務員なんです。だからこそ、今でもあの独特な服装をして観光客に鵜飼を見せる ことが出来るのです。 これからの農民は日本文化の担い手であり、日本の原風景を維持するためですから、長良川の鵜匠のようには いかないでしょうが、その最低生活を維持する補助金を出してもいいのじゃないでしょうか。そうしたら やっていけますよ。」 「スイス大使館勤務のとき、スイスの農民がそういうシステムになっていて、そのお陰で、あの牧歌的な スイスの山岳風景が維持されていると聞いた。此処まで観光に徹しているのかとびっくりしたことがあったが、 そうそう、フランスもそうだと、そのとき説明を受けた。」 「議論が煮詰まってきたな、まず第一に日本全体をテーマパークにする、テーマのコンセプトは フジヤマ・ゲイシャ、つまり日本の美しい原風景と女性が創ってきた日本文化だ。 そのために、美しい田畑、棚田、里山、豊富な動物たちの復活、これらを実現再生する為に国土を改造する。 と、まあこういうことか。」 「岡本さん、それだけじゃあ、足りません。今までの議論は、フジヤマとゲイシャを別々に考えています。 絵葉書には一緒に描いてあるでしょう。一緒に描いてあることが大切なんですよ。つまり、自然や風景の中で ゲイシャを見ること、日本の風景の中で日本文化に浸っている、日本文化を体験していると感じること、 これが大事です。歌舞伎や能を劇場で見ることだけじゃあ足りないんです。 デイズニーランドにはデイズニー映画のキャラクターが闊歩し、いつも微笑みを絶やさない係員がいます。 神社には神の代理人である神主や、美しい紅白の衣装の巫女さんがいます。それで始めて雰囲気がわかるんです。 外国人には文化が見えなきゃならないんです。目の前で見て始めて納得するのです。 どうも私の発想は貧困ですが、象徴的なことを言うと、通りを歩けば和服姿の女性がしとやかに歩き、 目を合わせればにっこりと微笑む」 「青木さん、それはあんたの個人的願望じゃないのか、女性に飢えてんだな」 「どっちが。堺さんこそ、昨日は、昼飯屋で調子のいいことを言って、女の子の手を握ろうとして いたじゃあないですか。」 「話の腰を折られたな。元に戻すと、交番には警官が江戸時代か明治初期の役人の姿をして立っている。 ホテルのフロントには和服の男性が厳かに座っている。 そうだ、皇居を守る皇宮警察官は、薩長の官軍の格好がいいのじゃないですか、日の丸のついた黒い菅笠姿 の衛兵が直立し、獅子頭のようなものをかぶった将校の指揮で衛兵交代をする。バッキンガムの衛兵交代より 感動的ですよ。 と、まあ、こんなことですかね。」 「これはいいですね、和服に似合うように、レストランの食器もジャパンで通っている漆器を使うように 奨励したらどうでしょう。そうすると和服や漆器などの日本の伝統産業も復活できますね。青木さんの言葉を 使えば、他の追随を許さない産業ですよ。」 「堺さん、ありがとう。伝統産業の復活というのが、私の駄弁を弄している目的の一つでしたからね。 しかしこれだけじゃ、まだ駄目です。 ローマやディズニーランドには映画があります。観光客が、その風景の意味を、予め映画を通じて知っています。 これです。日本に来る観光客が、予め日本の風景の背後にある日本の独特の文化を知っておくべきなのです。 教えておく必要があります。 皇族の新年の大事な行事の一つに歌会始があります。皇族方が和歌という詩を作るんですよ。 皇族だけでありません、名もない国民が全国津々浦々で、和歌や俳句という詩を作っています。正直言うと、 作品は目にしたくないものが大部分ですがね。 しかし、こんな王族や国民がほかにいますか。こんな日本の精神が、美しい田んぼや棚田や里山を 作っているのです。 しかし、このような日本の心の文化は外部からは見えません。 これを教える手段が必要です。 映画、アニメ、漫画、何でもいいんです。日本を表現する産業を育成するべきです。 堺さん、何か発言しない?」 「うるさい、自分で言え。」と堺が苦笑した。 「堺さんが言ってくれないから自分で言うと、これも他の追随を許さない産業の育成です。」 「よし、決まった。観光立国の為の基本方針は今までの議論でいいだろう。」と岡本が少し 大きな声を上げた。 「それじゃあ、最後の問題だ。これこそ、役人の腕の振るいどころであるが、この方針を法律で強制するか、 誘導策か、はたまた両方か、これについてはどうだ。まず、青木君、法律はどうだ?」 岡本の問いに対して青木が堺の顔をちらちら見ながら、珍しく言いよどんだ。オイ、どうした、 と岡本が、更に促して漸く青木が口を開いた。 「堺さん、付け加えることがあったら遠慮なく言ってくださいよ。」 堺が小さく頷いた。 「この問題は、実は堺さんと共同して勉強したのです。私たちは、戦後の傾斜生産方式と高度経済成長政策 の両方を研究しました。どのような法律によって、或いはどのような誘導策によってこの有名な二つの 政策が実行されたのかということです。この二つの政策が戦後の日本を作り、この二つの政策の成功が、 力の有る官庁の、優秀な役人によって実現した、といわれているからです。われわれの大先輩たちの 苦心の跡が、大いに参考になるだろうと思いました。 ところが、殆ど何もないのです。法律もなければ、誘導策もないのです。」 「そんな馬鹿なことがあるか。石炭を増産し、増産した石炭を製鉄業にまわし、その鉄を造船業に回す という傾斜生産方式については、高校の教科書にも載っているじゃないか。戦後の日本経済の発展の基礎を 作ったというのは、常識じゃないか。」と岡本が怒鳴った。 「いや、本当に何もないのです。傾斜生産方式は、資料によれば1946年12月の「1946年度第4四半期基礎物質 需給計画策定ならびに実施計画」という閣議決定により始まったと言われていますが、その具体的な 実施計画は、炭鉱労働者に一人一日小麦粉一合を加配する、酒、煙草、衣料品、石鹸等も増配する等と いうだけで、これ以外は何もないのです。この程度のものが石炭増産の為の政策ですよ。 仮にこんな施策で増産する効果があったとしても、増産された石炭が製鉄業のほうに振り向けられたという 記録は何もないのです。一定の産業に強制的に振り向けるというのならば、輸送計画もなければなりませんが、 そのような計画自体がないのです。そもそも統制経済ですから、増産された石炭だけでなく、全ての石炭について、 炭鉱からどういうところに回っていったのか記録があるはずですが、それもないのです。 石炭を受ける側の製鉄業の方には、少なくとも受領したという記録があるだろうと思ったのですが、無いのです。 石炭の増産には小麦粉の支給というような誘導策らしいものがありますが、製鉄業に対しては何もないのです。 法律どころか、とにかく何もないのです。 有るのは、傾斜生産方式という言葉だけです。 高度経済成長もそうなんです。これは1960年に池田内閣によって所得倍増計画として策定されました。その骨子は 10年で国民総所得を約13兆円から26兆円にするというものですが、その実現の施策が、農業近代化、中小企業 近代化、工業後進地域の開発という3点です。これで浮かぶ施策は圃場整備、工業団地の造成、制度融資の 拡大程度でしょう。こんな程度の施策で高度経済成長が実現できると思いますか。当初の3カ年計画は、2年目に 達成されてしまっています。政策の効果なら、2年目に3年分が達成されるなんてことはありえないでしょう。 当の池田総理は、自由主義経済の下では政府の計画が達成されるかどうかは、国民の努力にかかっているので、 政策展開は難しい、とまで発言しているのです。 この高度経済成長政策についても、法律も無ければ、その前の数年間と比べて、これといった新たな誘導策は 何も見つからないのです。 とにかく何もないのです。実に見事に何もないのです。所得倍増計画というのはスローガンだけなのです。 スローガンだけで、高度経済成長が始まったようなのです。スローガンだけで達成されたようなのです。 所得倍増計画はスローガンがありますが、傾斜生産方式については、この言葉自体が最初は無いのです。 どうも後で作られた言葉のようです。」 「すると何か、君たちは、傾斜生産方式も所得倍増計画も政策としては幻だったというのか、優秀な官僚が 国家の運営を劇的に成功させた、というのは嘘だというのか?」と岡本が吼えた。 「優秀な官僚というイメージを嘘だといっているのではないのです。何もしなかったというのが、優秀さの 証拠かもしれませんから。」と青木が不承不承呟いた。 「お前らは俺を馬鹿にしているのか。」と岡本が激した。 堺が割って入った。 「いや違うんです。青木さんは単に事実を言っているだけなのです。我々だって、困っているんですよ。 岡本さんが怒るのは、目に見えていましたからね。でも本当に何もないのです。信じてください。 何もないものだから、我々は、日本人は、何か目標を与えられて、それが正しいと信じると一斉に そちらに走り出す、自分で目標を達成してしまう稀有の国民性を持っているのではないか、そうとすると、 我々の政策を発表し、国民を信じて、その自律性に任せれば良い、という結論になりました。自信は 無いのですが、それしかないような気がします。」 「傾斜生産方式や所得倍増計画が幻かどうかの詮索は、もういいでしょう。具体的な政策を立てるように 指示したのは私だが、大臣訓辞では、政策は考えなくていいということだった。政策を考えることは 止めにしましょう。これ以外の今日の議論をまとめて、一度大臣に見てもらいましょう。」と 田村が後を引き取った。 「それじゃあ、用語の統一や文章の書き方も統一する必要があるから、一度青木君が全ての文章に 手を入れてほしい。俺も手を入れよう。それを室長に見てもらう。いずれにしても、何度か 書き直しが必要だろうな。みんなご苦労だった。」