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              観光立国ニッポン(最終回)
                   
                          
                                  イマジン






 別れの季節              


安田総理の前に、官房長官と経済産業大臣が座っていた。安田総理が目を上げると「素晴らしい。
それに前回は無かった防衛構想もとても良い。これで、北朝鮮でのショー・ザ・ブラッドが
なくなればよいが。」と呟いた。
「早速来週の火曜日の閣議にかけようじゃないか」と官房長官を見た。
「月曜日の事務次官会議には無理ですね、どう急いでも再来週ですよ。それに、事務次官会議は
通らないでしょう。全会一致だから、たった一つの省が反対しても通らないんですからね。」
「それはそうだ。これを実現するためには官庁のガラガラポンが必要だし、残った官庁も権限は
ほとんど無くなる。これを官僚が承知するはずがない。事務次官会議を通過するには早くても
百年はかかるよ。そのときは、日本はもう日本ではなくなっているだろう。
この案は、そもそも産業政策というよりは、国家像の問題だ。国家像は国民が決めるべきもので、
官僚ではない。国民に代わってそれを決めるのは国民から直接の負託を受けている内閣だ。
事務次官会議にはかけないし、かけるべきでない。
そうだ。閣議における総理大臣の発議権を使おう。総理大臣の案として私が提案する。
そうすると何か題を考えないといけないなあ。この内容は、そもそも日本文化の復興をテーマに
していると云える。日本文化の復興がテーマだとすれば、少しは産業界や官僚の抵抗も少なく
なるかも知れんな。日本ルネッサンス計画としよう。どうだい? 
 しかし、そうすると、田村だったか?田村以下の職員、七人だったな、七人の侍か、
この歴史的文書の作成者なのに、永遠に名前が消されることになる。彼らが承知するかなあ。」

「それは大丈夫です。そんな事に拘る者は一人もいないようです。だからこそ、この案が
出来たともいえるくらいです。しかし、彼らはもう経済産業省には居れません。私は骨を拾っ
やると約束しております。」
「分かった。幹部二人は、外務大臣に頼もう、二人は外国がいいだろう。残りの五人は、
どうしたらいいかな、官房長官」
「そうですね、日本ルネッサンス計画によると、将来、環境庁、文化庁が巨大官庁になります。
今のうちに移しといたらどうでしょう。何しろ彼らが立案者ですから。官房副長官を通じて
総理のお声掛りといっときます。」

火曜日の閣議は淡々と進行した。月曜日の事務次官会議で了承された案件を官房副長官が
読み上げ、その声と、各大臣が花押を所定の位置に記入する音だけが静かに閣議室に流れていた。
最後の案件の署名が終わると、さあこれから閣僚懇談会だという雰囲気が流れ、少し座が
ざわめきだした。
官房副長官が声を少し高くし、「最後に総理大臣発議の案件がございます。日本ルネッサンス
計画でございます。」
何事かと閣議室がシーンと静まり返った。総理秘書官が日本ルネッサンス計画と題され
十数ページの冊子を配っていった。全員に行き渡ったのを見た副長官が、文章を読み上げ始めた。
外務大臣は冊子から顔を上げた。
昨日夜、総理から呼び出しを受け、官房長官、経済産業大臣陪席で説明を受けていたので
内容は承知していた。見渡すと財務相、経済財政・金融相、防衛相の三人が他の大臣に比べると
明らかに違った雰囲気だった。冊子に意識を集中していなかった。
そうか、俺以外にこの三人に事前説明をしたのか。
総理は、俺とこの三人がこの内閣を支えていると思っているのか、俺とこの三人に支えて欲しい
と思っているのか。
「なかなかよく出来ているだろう。この考えは私の信念だ。特に、日本の森林は長年日本人が
牧してきた結果だと述べている点だ。日本書紀にも、日本の森林はスサノオノミコトが一つ一つ
種を植えたお陰と書いてある。日本人の原点は此処にあるんだな。」
「総理、大変結構だと思いますが、農業については政策の大幅な変更が必要になりそうです
現在の政策との整合性をすり合わせるために、暫くお時間をいただきたいのですが。」
外務大臣はビックリした。現在の政策との刷り合わせなど考えていないから、次官会議を通して
いないのじゃないか、こんなものを従来の政策とのすり合わせなど考えたら、収拾が付かなくなる
ぐらいのことが分からんのか。反対なら、正面から反対した方が、むしろ評価される。
「反対なのか」と総理が冷たく聞いた。
「いえ、そうではありません」
「それはよかった。私は、今日これを閣議決定にしたいと思っている。」と畳み掛けた。明らかに、
反対する大臣は直ちに罷免するという脅しだ。閣議は全会一致で決める必要があるからだ

いいタイミングだ、と外務大臣は思った。
二ヵ月後に参議院の選挙を控えている。
国家財政の健全化の見地からは、消費税を中心とする増税が待ったなしの時期を迎え、参院選は
消費税アップの議論が争点になるだろうと予測されている。
今まで、消費税アップを争点にして勝った政権は存在しない。
しかし今回は、この日本ルネッサンス計画を中心の争点に出来る。
しかも勝てば、この計画実現のための消費税増税が国民の承認を得ていると強弁もできる。
 参院選で勝てば、すぐに内閣改造だ、現内閣は論功行賞内閣で、そういう意味では安田総理の
自前の内閣ではない、自前の内閣を作ると安田政権は長期政権になるだろう。外務大臣は沈思した。
そうなれば俺が総理になる目はない、じゃあ、長期政権化を阻止する方法があるだろうか、
協力を拒んで閣外に出たらどうなるだろうか。長く無役を続けなければならない俺に、
支援者は付いてくるだろうか。

省議室は、閣議決定されたばかりの「日本ルネッサンス計画」を前に重苦しい空気に包まれていた。
誰も一読して、これが前回の報告書の焼き直しだと理解していた。
「将来俺たちは環境庁の一部局になるのかなあ」とぼやき声が聞こえてきた。「省がわずかあの
七人に負けるなんて」と続くと、次官がその方を向いた。
「俺たちは負けたんじゃない。明治以来俺たちは十分に使命を果たしてきた。その結果このような
計画が可能になったのだ。俺たちが目指してきたものが此れなんだ。俺たちは十分に勝った。
勝ったから退場するんだ。」
勝ったから退場するんだという次官の言葉が、各局長の胸にずしんと落ちた。
次官が、少し声を大きくした。
 「この計画が軌道に乗るのには、もう暫く時間がかかるだろう。その間、少しでも製造業が
混乱すると、日本売りが始まって、せっかくのこの計画が頓挫する。
これだけは言っておく。わが省が不安を示すと混乱が加速する。最後まで製造業の存続・発展と
この計画は両立すると言い張れ。
不安を示す者は笑い飛ばしてやれ。自信を持たせておくんだ。」
「我々は自分の首吊りの綱を、笑いながら引っ張るんですね」
「そうだ。・・・・・・・・それが、最後の仕事だ。」

 三週間ほどたち、大臣特命担当室の室員の人事とそのほかの若干の人事が発表になった。
その中に、山中の独立行政法人産業経済研究所への出向の人事もあった。次官の秘蔵っ子
としての山中の左遷は、職員に驚きの目を持って迎えられた。

「君は、黙って、産業経済研究所のフェローになってくれ。」
 山中が蒼白になった顔を上げ、哀願するように次官の顔を見た。
「いいか、これから官僚の世界は、衰微していく。日本ルネッサンス計画を見たろう。
あの計画の要点は、地域主義だ。地域主義というのは結局のところ、官僚はもう要らんという事だ。
明治維新以来日本は脱亜入欧でやってきた。これは要するに、日本の産業構造が西欧の論理に
従う必要があったからだ。だから西欧の知識と論理を身につけた官僚が国を動かすことが出来たし、
その必要があった。
しかし、これから日本文化で国造りをしていく事になると、我々は必要がない。必要がないから、
役所の機構も限りなく小さくなっていくだろう。省内にいても、君の活躍すべきポストはもう無い。
これから君は、研究者として、わが国産業を見つめ、必要な提言をするようにして欲しい。
そのほうが良い。」
「私は、行政官になるために通産省に入ったんです。行政官として一生を終えたいんです。だから、
次官の指示通り、特命担当室の情報も取りました。将来のポストは何でもいいんです。
ここに置いてください。」

次官は無表情のまま、暫く山中を見つめていたが、渋々口を開いた。
「田村の女房から電話があった。泣いておった。女というものは不思議なものだな。田村の人事を
聞いたのだろう。情報の漏洩は田村の所為じゃない、自分がやった事だという。離婚させられたのに、
田村のことをまだ心配している。」
知っているのかと、山中はがっくりと、肩を落とした。しかし、再び顔を上げて、哀訴した。
「そんな積りじゃなかったんです。田村が奥さんの面倒を見てやれないから、女房に世話をさせよう
としただけなんです・・・・・・」
次官の顔に嫌悪感が浮かんできた。
「君は田村と仲のいい同期生だ。だから君に頼んだ。その関係から、情報を入手するだろうと
思ったからだ。
判っているだろう。行政というものは、結果が良ければ、それでいいというものではない。
結果にいたる道筋も、基本的には正しいもので無ければならん。時として、決して正しくない
方法を取らざるを得ない事もある。しかし、それには限度がある。守らなければならん限度がある。
 君はそれを踏み越えた。最低の倫理を守ることは、行政官としての最低の資質だ。
 ましてや、行政組織を率いる長として、どんな組織であれ、最低の倫理を踏み越えた者に、一日も
組織をまかせるわけにはいかん。
 それに、君が二番目に持ってきた報告書は、ガセネタだった。日本ルネッサンス計画を見れば、
担当室があんな事を一度も考えた事がない事は一目瞭然だ。あれも、田村の女房から手に入れたん
だろう。という事は、田村が総てを知って、自分の女房と君を嵌めたんだよ。
 同期の者の恋女房と情を通じて、情報を取る。しかも、それを知った亭主がそれに耐えながら
偽の情報を流し、世の中を動かす。亭主がどんな気持ちでそれをしたか、想像しないのか?
どうだ?経済産業省が、君を省内にそのまま置けると思うか?
 たしかに、俺と田村が黙っていたら、事の真相は誰も知らんだろう。田村はああいう性格だから
黙っているだろう。俺も絶対に口外しない。
 しかしな、俺は、そんな事をする奴は嫌いなんだよ。
 そんな奴とは一緒に働きたくない。
 フェローが嫌でも、此処には君のポストはもう無い。」

 山中は悄然として次官室を出た。次官が、フェローが嫌なら辞めろ、と冷たく言い放ったからだ。
 廊下に出ると、大臣特命担当室の表示のあるドアがあった。
 「お前は田村に嵌められた」という次官の声がリフレインした。
 思わず、ドアを押し、部屋に入るとパーテーションのガラスを通して、田村の影が見えた。
 つかつかと入っていくと、田村が椅子に座ったまま山中に顔を上げた。
 いつもの田村の顔があった。決断力の無い無能だと思っていた当時の田村のままだった。
 山中は口を開いた。自分でない別の人格がしゃべっているようだった。
「お前がこんな汚い事をするのか、女房に逃げられるような奴が」
 自分でもビックリするような大きな声だった。
 岡本が素早く立ち、パーテーションの中に入ってきた。
「出て行け」
 岡本が、山中と田村との間に立った。
「なに、生意気な、補佐風情が何を云うか」と山中が怒鳴った。
それを聞いて、堺が椅子から飛び上がると、山中の襟をつかみ、拳を振り上げた。山中の
『補佐風情』という台詞は、『ノンキャリアの癖に』というのと同じだった。それは、
この部屋のもう一人のノンキャリアの心の底の悲しさと怒りをかきたてたのだった。しかし、
岡本が素早く動き、羽交い絞めにしてとめた。止めろ、こんな奴に。
それを見ながら、俺はなんと言うことを云ったのか、俺は次官が言うように汚い人間なんだ、
人間の屑だ、と山中は絶望感にとらわれた。
田村は、終始身じろぎもせず、悲しそうな表情で三人を眺め続けていたが、
「もういいだろう、もういい」と誰に言うのでもなく、呟いた。
 

「堺さんが文化庁なんてビックリしましたねえ。」
「そりゃ、どういうことだ?」と堺が目を剥いた。
「文化庁は文化を理解している人が勤務するところですよ。何しろ、文化を推進するところ
ですから。堺さんがいると、せっかくの文化が壊れそうですよ。文化庁はよく取りましたね」
「黙れ、うるさい。もうお前には映画のパス券はやらない。」
「なんですか、そりゃあ?」
「文化庁にはな、全国どこでも無料で入れる共通パス券がうじゃうじゃあるそうな。
欲しかったら、もっと先輩を尊敬しろ」
「馬鹿だなあ、騙されているんですよ、今時そんなものがあるわけ無いじゃないですか」
「あっ、室長と岡本さんがご到着ですよ」
全員が、立ち上がった青木に促されて、席に着いた。
「田村室長、もう室長じゃないですね、ウーン、しかし、今日だけは許してください。
今日は、田村室長、岡本室長補佐の壮行会、特命担当室の解散式、それに我々の環境庁、
文化庁への出発式ということですので、いろんな意味が篭った懇親会ですが、とりあえず、
乾杯をして始めたいと思います。それじゃあ、乾杯の音頭は堺さん、お願いします。」
「それでは、不肖、堺めが、音頭を取らせていただきます。アッ、室長や岡本さんは
知らんでしょうけどね、担当室の乾杯の音頭は、「カンパーイ」じゃなくて、大きな声で
「ケッ」と言う事が慣例になっています。
それでは、準備はいいですか、大きな声で、声を合わせて、それッ、ケーッ」
岡本も苦笑しながら、杯を上げ声を合わせた。
「それでは、酔っ払わないうちに、聞いときます。明日は何時の出発ですか?皆で
お見送りに行こうと思っているんですよ。」と青木が尋ねた。
「その事は、先ほど、岡本さんと話し合いました。我々は、お気持ちは有難く
いただきますが、今日の此処を出発の場所としたいのです。せっかく皆さんに
壮行会を開いていただいたので、此処をお別れの場所とさせてください。
シーザーが出陣に際して友人に語った言葉に、こういうものがあるそうです。
『また会うときは微笑を交わそう。それが叶わぬならば、今をよき別れのときとしよう』
というのだそうです。
われわれも、今をよき別れのときとしたいのです。」

チューリッヒ行きスイス航空の搭乗口は、ヨーロッパ観光に向かうツアー客や
ビジネスマンたちでごったがえしていた。
次に日本に帰るのはいつだろうか、と田村は思った。
スイス留学に向かう中学生らしい男の子が母親に野球帽を直してもらいながら
田村を横目で見ていた。
ちょっと微笑を返すと、男の子が目をそらした。

「田村さん」、という声に振り向くと岡本夫妻が立っていた。
「あれ、あなた方はトルコ航空じゃないですか、搭乗口はここじゃないですよ、
それに五時間も前に、どうしたんです?」
「どうしたはないでしょう、見送りに来たんですよ」
「主人が大変お世話になりました。」と夫人が慎ましく挨拶をした。
六年前、岡本がロシアに旅立つときに、立場こそ違うが、ほとんど同じ会話を
したことを思い出して、田村と岡本が苦笑した。

「イヤー本当にお世話になりました。仕事をお手伝いさせていただいて
感謝しています。」と岡本が神妙に言葉を引き継いだ。
「こちらこそ、岡本さんがいてくれなければ、この仕事は完成しなかったでしょう。
いや、この仕事は岡本さんの仕事だったと思います。私の方こそ岡本さんの
お手伝いをさせていただいて嬉しく思っています。」
「いやいや、田村さんの指揮の下に仕事をしたんです。しかしそれにしても、
今日は随分込んでいますね。」観光旅行なのか、大きなバッグを引きずって
突進してくる若い女性を避けながら「我々中年男性は目に入っていないんで
しょうね」と岡本が苦笑した。

「田村公使」という声に三人が振り向くと、秘書課長が立っていた。
「大臣がお見送りをしたいそうで、貴賓室でお待ちです。」
ああそうですか、と歩きかけて田村が戻ってきた。
「岡本さん、三人で行きましょう、奥さんも是非」
「大臣は田村公使といっておられます。」
と秘書課長が慌てていった。
「いや三人でいきます。」と田村が少し強い調子で答えた。

貴賓室にいくと、大臣、次官、官房長が立って待っていた。
三人の前のテーブルにワインのボトルとグラスが四個置いてあった。
大臣が、「岡本君も来ていたのか」と微笑んだ。
「家内です」と岡本が妻を紹介した。
「岡本君には本当にお世話になりました、大袈裟でなく、ご主人は
日本の救世主の一人ですよ、この一年、奥さんも大変だったでしょう。
改めて御礼を申し上げます。」
と、大臣が深々とお辞儀をした。
どぎまぎして言葉を返す余裕もなく、夫人が慌ててお辞儀をした。

大臣がちょっと身じまいを正した。
みんなが少し緊張して、大臣の言葉を待った。
「この一年、君たちはよく頑張った。君たちのおかげで、日本の将来も
何とかうまくいきそうだ。総理も大変感謝されておられる。今日は
君たちに感謝の言葉を言うためにきた。  本当にありがとう。
日本政府を代表してお礼を申し上げる。
君たちはこの一年で、もう既に一生分の仕事をした。これからは、
田村君はリヒテンシュタイン公国で、岡本君はトルコ共和国で、
その国に関する専門家となって、穏やかな仕事を地道にして欲しい。
いつか、私も政治の世界から身を引くときが来るだろう。そのときは
妻と、君たちの国を是非訪問したい。そのとき君たちは、その国の
大変な専門家となっているだろうな。」
田村が二人を代表して答えた。
「大臣の膝下にお仕え出来た事を、私たちは本当に光栄に思っております。
私たちは、大臣がいつお見えになっても、適切なご案内が出来るように
精一杯勉強をしておきます。御出でになるのを首を長くして待っております。
今日はご多忙の中、お見送りを頂きました。
これは、私どもの生涯の喜びとなるでしょう。誠にありがとうございます。」

秘書課長が大臣の身振りに応じて4つのグラスにワインを注いだ。
「ブルゴーニュの1985年のものだ。」
といって、グラスを取るように三人に身振りで促した。
岡本夫人が、自分たちは飛び入りで、二個のグラスは次官と官房長の
ものではないかと、ひるんだ様子をした。
次官が微笑みながら、手で夫人にグラスを取るように促した。
「それでは、君たちの未来と旅の平安を祈って、乾杯」
四人が一斉に杯を干した。

「大臣が、二人にリヒテンシュタインとトルコに塩漬けの人生を送ることに
なるとあけすけに言い渡したなあ、少し可哀想だった。」と次官が
渋滞している高速道路にいらいらしながら呟いた。
「先週の外務次官とのお話はどうでした?」と官房長。
知っていたのか、と次官は思った。俺も、そうだった、官房長のときは
次官が何をしているか、どこに行っているか、詳細に把握していた。
またそうしないと官房長としての役割が勤まらなかった。
「田村のことは、外務次官もすぐに承知をした。しかし岡本については、
前例がないといって渋る。いくらなんでも、キャリアでない者をトルコ大使に
なんて無理だというんだ。」
「どうしました?」
「じゃあ、大臣同士で協議してもらいましょう、と開き直ったさ。やむを得ず、
奴さんも承知した。反古にされたらかなわんから、官房副長官にも報告しといた。」

夕闇が迫り、すれ違う乗用車が点灯し始めた。官房長は、その明かりに時折
照らされる次官の顔が妙に疲れているのに気付いた。

「大臣が奥様と外国旅行に行きたいとおっしゃっていたな、実は、俺もそう
思っている。来年の通常国会が終わった後にはそうしたい。それまでに
準備をしといてくれ。」
「分かりました、行かれたい国・・・・・・」と言いかけて口をつぐんだ。
大臣は政界を引退したら妻と旅行に、と言われた。そうだ、これは次官の初めて
の引退声明であり、それまでに準備をしろというのは、旅行のことではなく、
後継者としての指名の意味だと気付いた。
「承知しました。」と低い声で答えた。

官房長はこの2年間、次官の行動をつぶさに見てきた。これが、権謀術数を
繰り返し、先輩や同期の者を蹴落として上り詰めるに値するポストか、入省以来
あこがれて来たトップの席かと、暗澹たる思いだった。
日本ルネッサンス計画の立案にしても、次官は真っ向から反対する産業界の
先頭に立ち、その代弁を続けてきた。しかしそれが、衰退せざるを得ない産業の
悲鳴を世に知らしめ、次官の頑迷固陋な悪役振りが、産業界の憤懣と慨嘆を
巧妙に抑える役割を果たしてきたのだった。
経済産業次官があれほど反対しても、歴史の流れは止めようがなく、またそれは
そうしなければならないという意味で必然なのだと世間を納得させた。同時に、
経済産業省の官僚に省としての衰退をも納得させた。
その行動は、日本ルネッサンス計画を支援し、実現する最大の効果と目的を
持っていたのだ。

黙り込んでいる次官の顔がさらに疲れてきて、いまや陰惨な表情すら浮かべていた。
それを横目で見ながら、官房長は心の中で次官に語りかけた。
「次官、私も次官のように、次官がこの二年間行動されてきたように行動します。
あなたの薫陶を受けてきた後輩として、名誉や、栄光のためでなく・・・・・」