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          オー・ハッピーデイ                   
                              
                                                                     イマジン


1  卒業式は、なんとも不思議な日だ。
 巣立っていく者にとっては、在学中のあれこれなんぞ、過ぎ去ったこととして
  ほとんど関心もなく、ましてや懐かしむ気には到底なれない。
 これからの人生こそが、関心の的で、視線はこれから入る大学や
  職場に向いている。
 
   ところが卒業生を送る学校関係者、家族、在学生は、卒業生が涙ながらに
  在学中を懐かしんでいるのだろうと、同情的なまなざしとなる。
   卒業生は、そんなことはちっともない。
   むしろ、周囲に気兼ねして少しは感傷的な雰囲気を出さなければならないのかと、
  戸惑うぐらいである。これが普通である。
 
  綾野にとっては、そうではなかった。涙が滂沱として流れ、止めようがない
  のである。高校生活は、本当に楽しかった。
  クラブ活動でけがをしたこと、修学旅行での友人とのいさかい、休憩室の
  ちょっとしたやり取り、そんなことが今ではとても貴重なものに思えてくる。
  とにかく何でもかんでも、懐かしいのである。
  これがもう終わるかと思うと、とにかく悲しい。 涙が、いつまでも止まらない。
  ところが卓は、綾野がなんで泣くのか全く分からない。 
 
  そこで怪訝な顔で、まじめに聞いてみる。
 途端に綾野が激怒して、卓の顔をひっぱたいた。周囲の同級生もビックリ
  仰天した。めそめそと、あるいは号泣しながら、とりあえずひっきりなしに、
  涙を流す、よくまあ、こんなに涙が眼の中にあるものだとビックリするくらい
  よく泣いている綾野が、突如として卓を、思い切り殴ってしまい、大きな体の
  卓が、よろめいたのである。
  それもそのはずで、綾野は空手クラブの所属でなんと二段位なのである。
  なぐり合っては勝てるはずがない。卓は怒るよりも、びっくりしてしまった。
  なんで殴られたのか、皆目見当もつかない。
  再度聞いてみて殴られたらたまんないので、とりあえず離れようと芳江を
  探した。あるいは芳江だったら、わかるかもしれないと思ったのである。
  ところが、綾野が追いかけてきて、卒業証書が入った筒で、後ろから強烈に
  頭を殴りつけてくる。
  空手二段が素手で殴ることとは違って、これはあまり痛くなかった。しかし、
  さらにびっくりして、綾野がなんかしらんが気が狂った、これはいかんと、
  今度は走って逃げ出した。後ろを振り返ると、なんと追いかけてくる。
  涙を止めどなく流している怒り狂った顔は、実に見るも恐ろしい。

  しかし所詮男と女だ。いや肉体的な差ではない。一方はズボンに運動靴で、
  一方はスカートに高校生のくせに革靴を履いている。いい家の御嬢さん
  なのである。引き離しながら、校舎に入ると、廊下を回り、教室に隠れて、
  ようやく逃げおおせた。
  しかし息が切れて、はあ、はあと、机に両手をつき、前かがみになって
  息を整える。ようやく落ち着いて、ドアから廊下に首だけを出して様子を
  うかがう。誰もいない。ほっとして、ゆっくり歩きだした。
  
  校舎を出て、裏庭で自転車を引き出した。サドルにまたがったら、芳江に
  気が付いた。芳江は、誰もが振り返るほど美人である。色白で、額が
  秀でていて鼻梁がすっと高い。しかも成績優秀で、東京の大学に行くらしい。
 にこにこ笑いながら、おしとやかに近づいてくる。
 卓も、綾野のことを聞こうと思い、ほほえみながら待ち受けた。
 
  ところが、芳江は、近づくや否や、卓のむこうずねを思い切り革靴で
  蹴り上げた。ウワッと悲鳴を上げると、今度はまたもや卒業証書の筒で
  横面を張られたのである。ナンダナンダ、今日という日は一体なんなのだ、
  たかが卒業式じゃあないか、今日という日は、女という女はみんな気が
  狂う日なのか。
 
   家に帰り、鏡をみた。綾野に殴られた左ほほが青くなっていた。空手二段が
  思い切り殴りつけたのである。さもありなんと思った。
   母親が、冷湿布を持ってきてくれた。知っていたの?と聞くと、ああ、先ほど
  綾野さんと芳江さんが来て、あなたが前田君になぐられたんだといって
  いたわよ、どうして喧嘩したの、と、聞く。違う、殴ったのはその二人だと
  言いたかったが、黙っていた。なにしろ、理由が説明できない。喧嘩なんか
  するんじゃないのに、卒業式なんだから、と母親は言う。
  全くその通りだと思う。
  
  今日は卒業式だ、卒業式の日は、卒業式に出るほかは何の用事もない。
  さすがに、この日は母親も田んぼの世話や畑の雑草取りも免除して
  くれている。何か、想い出づくりに行事があるのだろうと思い込んでいる
  ようである。
   しかし、何もない。
   大学入学前で、将来のためにやることも何もない。
   親しかった友人たちは、進学する大学も違い、あるいは進学に失敗して
  浪人生活の者もおり、遠慮が生まれてきて、どうも一緒に遊ぼうという気に
  なれない。
   縁側に寝転んでいると、猫が近づいてきた。かわいがっている猫だが、
  向こうもそのように思っているらしい。なんとなく保護者然としている。
  顔の真ん前に座ると、なんと青く腫れた頬を舐めだした。ざらざらした猫の
  舌の感覚が気持ちいい。そして、にゃあ、と鳴いた。
   どうも、同情してくれているらしい。猫に同情されるなんて、とてもやるせない。
  がっくりしていると、暖かい縁側で寝転んでいたせいか、ウトウトと
  昼寝していたらしい。
 
   母親が、綾野さんたちが来ているわよ、と起こしてくれた。びっくりした。
  玄関に行ってみると,綾野、芳江、前田が三人が来ている。
  母親の後ろに隠れて「オウ」というと、綾野と芳江は殴ったことがないような
  無邪気な顔をして、母親には可愛らしく見えるように、シナを作っている。
  いい気なもんだ。
  
  前田が、ちょっと出ないか、と言う。綾野が「コーヒーを飲みに行こうよ」と
  にっこりする。
  「いや、今日は卒業式だから、夕食はうちで・・」と断りかかると、母親が
  「あら、行ってらっしゃい,みんなで食事も思い出になるよ」と肩を押す。ほら、
  前田くんとも仲直りしなさい、と母親がトンチンカンなことを言う。直ぐに
  芳江が、そうよそうよ、と返す。なんだ、この連中は、と前田が不審そうな
 顔をした。
   しぶしぶだったが、出ていくことにした。前田もいるから、この二人が
  暴力を振るうこともないだろう。

2 前田はプロ野球に進みたかった。
 
  県の高校野球界では、3本の指に入る屈指のピッチャーだった。甲子園の
  マウンドも踏めた。しかし、どこからも声がかからなかった。プロだけでなく、
  大学野球からも声がかからない。しょうがない。だから進学することにした。
  
  小さい頃から野球選手が自分の唯一の未来だった。幼稚園でのおママゴト
  遊びだって、野球選手であるお父さん役を演じた。
  
  花の未来だった。
   多くの球団から誘いがあって、高校の卒業式にはマスコミが群がり、
  にこやかに、鷹揚に振る舞いながら、華やかに門を出る。しかも片腕には
  花束を持つ芳江がぶら下がり、若いふたりの新たな出発となる。
  おママごと遊びでは、そう約束した。指切りげんまんでの固い誓いだった
 のである。
  
  ところが、マスコミは群がらない。つまり野球選手にはなれないのである。
  物心付いて以来、自分の将来と定めていた唯一の理想が、人生を踏み出す
  前に潰えてしまう。これほど悲しいことはない。
   これまで、将来のための修行は、野球をどれほど上手くなるかだけで、
  これ以外は考えていなかった。だから、とても不安で、死ぬほど辛い。
   
  芳江に相談すると、あなたは、もともと速球投手じゃあないじゃないの、
  と言う。ピッチャーは速球投手じゃなければならないと思い込んでいる。
  だから、プロになれないのは承知の上だったろう、と言わんばっかりだ。
   だけど、ピッチャーの醍醐味は、速球ではない。変化球にあるのだ。
  球がゆっくりとべースに向かう、打者がジリジリして鼻孔をぴくつかせ
  ながらバットを小刻みにふるわせている、しかし耐え切れなくなって
  バットを振る、球はその後をゆっくりと通り過ぎていく。その時の投手の
  快感は、実に、まさに比類がない。
   なのに世間は、剛速球投手こそ、真のピッチャーであると思い込んでいる。
  プロ野球の監督たちですらそのようだ。誠に救いがたい。
  
  芳江も言う。
  「ほら、鳥栖工業の大河くん、唸りを上げる速球で、打者がバットを
  振ったときは、既にキャッチャーのミットにドスンと音を立てて収まって
  いるのよ、とてもセクシーよ!貴方の球なんて、フラフラときて、地面に
  落ちてしまうじゃあないの、ホント情けない」
   
  違うのである。
   力がないから地面に落ちるのではなく、それ程変化するのだ。この変化球を
  身につけるのに、どれほど苦労したか。
  大河は阪神に入るという。喜色満面の写真が新聞に載っていた。それに比べ、
  自分には誰も声をかけない。大学野球すら無視している。
   しょうがないから一般受験して早稲田大学に入学することにした。
   合格発表の日に、野球部のグラウンドに行く。親切なコーチがいて、球を
  見てくれた。カーブを投げたら、速球を投げろという。速球を投げたら、
  もういいという。そのあとは何を言っても取り合ってくれない。
   どうも、自分には野球をやる能力がないと思ったようだ。
 
   かくのごとく、世間は新しい才能を見出す能力のあるものはほとんどいない。
  指導者が能力を認めてくれないと、いくら能力があっても、それを発揮する
  場所を与えてもらえない。
   場所を与えてもらえずに埋もれた逸材は、無数にいる。むしろ、世に出た
  逸材こそ、滅多にない幸運なのだ。人間の世の中とはそういうものだ。
   やむを得ない。
 
   大学卒業後は、平凡なサラリーマンになるのだろう。会社では甲子園球児
  として、酒席での話題ぐらいにはなるかもしれない。
   マッ、それでもいいか。
 
   しかし、芳江に花束を捧げるかどうかは、大いに迷った。野球選手に
  ならないからである。しかし、約束は約束だからと、登校の際駅前で一番
 安いのを買って、芳江にやった。
   意外だった。大いに喜んでくれた。
 
   ところがである。
  芳江が言うのには、卓は花束を綾野にはやっていないらしい。すっかり忘れて
  いるという、なんという奴かと綾野と二人で激怒している。
   それはひどいなあ、といったけれども、卓が綾野に花を渡す約束なんて、
  全然記憶にない。そもそもあいつは野球選手などという華やかな未来は全く
 志していなかった。大体、将来の夢などとは無縁のボウとした性格で、幼稚園の
 時に、高校生というはるかな未来に、綾野に花束を渡す約束をするなんて、
 想像もできない。
  
  しかし二人が怒っているのだから、約束はしたのだろう。約束したのなら、
  花ぐらい買ってやれば良い。
   それにしても、綾野に殴られて走って逃げたという。
   なんという意気地無しか、女に殴られて逃げ出す、いくら相手が空手二段
  であっても敢然として反撃し、滅多矢鱈に殴られてもなお反撃する。
  それが男ではないか、なんという女々しさか、だいたいあいつは、いじめっ子
 から意地悪されてもメソメソとして逃げ出す、だからさらに苛められるのである。
   前田は、いつもそれをかばってやっていた。
   そういえば、綾野だってそれが悔しいから空手を習いに行ったのである。
   中学校の時に綾野に言ったことがある。そうして庇うからますます意気地なし
  になる、もっと頑張れというべきでないか。
  
  ところがけしからんことに、綾野も芳江も、卓はあれでいいの、可愛いんだから、
  可愛ければいいの、と言って取り合わない。
   二人は、これから卓を誘う、という。卓がかわいそうなので付いていくことにした。
  顔を見ると、頬が青くなっている。ひどく殴ったもんだなあ、とびっくりした。

                                          (つづく)