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   B 思春期、学生時代

   高校、大学の頃

    中学の時は、予習復習をするだけで、学校で一番良い成績をとれ、勉強以外にも色々の本を読み、部活もやり、
   世間の一般常識もあったと思います。その中で一つ強く思ったのが、ナチュラルサイエンスには真実がありますが、
   ヒューマンサイエンスには、真実が無いと言うことです。例えば、豊臣秀吉の伝記を読むと、秀吉はすごく良い人
   と書いてあるのに、徳川家康の伝記を読むと、秀吉は悪い人と書いてあります。これに対し、数学の公式や物理の
   法則は、誰がどう説明しても変わりません。そこで高校に入った時、理科系を志望しました。
 
    高校に入って一番感じたのは、私は頭が悪いということでした。最初の模擬テストでは4番でしたが、1年の
   終わりの頃は10番以内にも入れませんでした。早熟で、高校に入って、記憶力が伸びていない事を痛感しました。
   負けず嫌いでしたので、勉強時間を増やしたため、睡眠時間がどんどん少なくなり、やがて5時間睡眠になりました。
   その頃習った漢文「余もまた駑馬(どば)なり。これを鞭打ち、これを鞭打ち、これを鞭打って、しこうして又
   鞭打ち、行き行いて止まず。」の心境でした。印象に残るのは小崎氏でした。私は歴史年表を覚えるのに、数字では
   とても覚えられず、文を作って覚えました。「火縄くすぶるバスチーユ。」1789年フランス革命といった具合です。
   こうして、200,300の項目を覚えることが出来ました。しかし、彼は年表を全部数字で丸暗記していました。
   数学の問題を解くとき、通常4問出題されますが、私は時間内にせいぜい3問しか取り組めません。彼は未だ時間が
   有るのに、さっさと試験場を出て行きました。彼の記憶力は私の2倍、頭の回転速度も2倍です。彼は、友達付き合いは
   よくして貰いましたが、同じ人種とは思えませんでした。

    私の高校時代は、勉強以外は、何もしませんでした。クラブ活動もせず、勉強と関係の無い本は読みませんでした。
   クラスに女性はいず、同年齢の女性とは話すことも無く、思春期などありませんでした。成人の日に街へ出ました。
   大勢の女性が着物を着て、しゃなりしゃなりと歩いていました。顔を見るとぺたぺたとおしろいを塗っています。
   「女性は20歳になると老けるなあ。」と思いました。

    勉強以外で一つ思い出があります。ある時、学校から帰るとお客さんが来ており、母が玄関で対応していました。
   その客は私を見ると、「じゃーよろしくお願いします。」と言って、封筒を置いて出て行きました。私はその封筒が
   現金で、選挙の投票依頼であることが直ぐ分かりました。母に「そんな金返せ。返さなきゃ警察に言いに行くぞ。」
   と言いました。父は、私が言ったからだけではないのでしょうが、社宅を回り、各戸に配られた金を全部集めて、
   依頼者に返したそうです。選挙が終わって、警察の摘発が始まり、近隣では多くの検挙者が出ました。もし、
   あの金を返してなかったら、父は保線所の所長でしたので、懲戒免職は免れなかったでしょう。そして、私が大学に
   行くことも無かったでしょう。母は「あれは良かった。お前のお蔭じゃ。」とつくづく言っていました。
 
    3年になると成績が少し持ち直し、10番以内には入って来、最後は4番でした。そこで、京都大学を受けましたが、
   見事落ちました。すぐ東京に行きました。予備校に通って5時間睡眠の浪人生活で一年間過ごし、東大を受けました。
   模擬テストの結果からは受かってもおかしくは無かったのですが、また落ち、泣く泣く早稲田大学の理工学部応用物理科
   に行きました。
 
    もう勉強する気はありませんでした。早稲田学院から来た連中は高校で微分方程式の解き方を習っていました。物理や
   数学で出てくる微分方程式を彼等はさらさらと解きます。私は微分とは何かも分からず、ますますやる気を失いました。
   先ず、遊ぶ金が必要なので、アルバイトをやりました。近所で家庭教師をやりましたが、よくこれだけの金を貰えるものだ
   と感心しました。夏休みと冬休みには、銀座の三越本店に行き、ハンドバッグ売りをやりました。直ぐ、売るコツを覚えました。
   年寄りの2人連れは相手にしないことです。あれこれケチをつけて、「学生さんには分からないでしょう。」等と言って
   からかって、買わないで帰ります。狙い目は、若い1人だけの女性です。先ず来た時、一言声をかけておきます。そして地味な
   ハンドバックを見ている時に「それは少し地味だと思いますよ。これは如何でしょうか。」と言って若向きを出すと、ドキッと
   して、あわてて買って行きます。この方法で、三越には大分貢献しました。

    遊びでは、先ず麻雀を覚えました。賭けレートが高く、1晩で1月分の小遣いが無くなることもありました。必然的に弱い者を
   相手にし、そこから取ろうと考えます。しかし、これでは人間関係が損なわれてしまうと考え、半年位経つと、ほとんど
   やらなくなりました。次にニューオールリンズジャズクラブに入りました。中学の時、ブラバンでクラリネットを吹いて
   いたからです。ジャズには楽譜が有りませんでした。「耳で覚えろ。」と言われましたが、「とても覚えられない。」と言うと、
       「では曲を聞いて、自分で楽譜を採れ。」と言われました。レコードに針を載せて、ほんの少し走らせて針を上げると、ジャズは
        進行が早いため、歌謡曲1曲分ぐらい進んでしまっています。楽譜を採るどころでは有りません。私にはジャズをやるのは、
        絶対に不可能だと言うことが分かり、直ぐ退部しました。
        
           体育の授業で「山岳」がありました。上高地で1週間合宿すると、体育の単位が貰えます。受験勉強ですっかり体力が落ち、
        スポーツが出来なくなった私でも、山登りであれば、右足を前に出し、次に左足を前に出し、又、右足を前に出していれば
        良いのだから出来るのではないかと思い、山岳の授業に参加しました。20キロの荷物を背負い、槍ヶ岳の肩まで登りました。
        当時私は50キロに満たない体重でした。参加者は皆、屈強な体の持ち主で、私が付いて行けるはずがありません。途中で
        足が動かなくなり、立ってもいられなく、座り込んでしまいました。山登りなどおこがましく、ハイキング程度しか行けないと
        言う事が分かりました。冬になり、スキーに行きました。2泊3日でスキーをやると、皆そこそこ滑れるようになります。しかし、
        私は高校の時、授業で柔道をやっていたので、転びそうになると腰を引くと言う習性があります。スキーが前へ行った時、
        腰を引けば、転ぶのが当たり前です。3日目になっても、私だけは全く進歩しませんでした。
        
           新宿に、社交ダンスの講習所がありました。友達が誘ってくれましたが、「私にはパートナーがいないので、行けない。」
        と言って断ったところ、「私のを貸してやるから行こう。」との誘いでした。講習所へ行って、ブルース、ジルバ、マンボ、
        ワルツ等を教わりました。この時は講習を受けに来ている女性は大抵誰でも相手をしてくれるので良いのですが、最後に
        チークタイムがあります。当然、皆自分が連れてきたパートナーと踊ります。私は、壁にもたれて、見ているだけです。
        女性は香水を付けて来るので、香水と汗の匂いが混じって、刺激的です。終わると、友達とパートナーは「じゃーねー」
        と言って、一緒に仲良くどこかへ消えていきます。私は1人寂しく下宿へ帰ります。「世の中、こんな不公平があって
        いいのか。」と思いました。そこで自前のパートナーを探しました。唯一の女性の知り合いは、同じ学科の紅一点で、
        吉永小百合クラスの清楚な美人でした。意を決して誘って見ましたら、「私は個人的な付き合いはしません。」とぴしゃりと
        断られました。「あんな素晴らしい人が私のような無能な男を相手にしてくれる訳が無い。」と納得して、私の初恋は終わりました。
       
         3月末となり、期末試験が終わり、成績表が配られました。優はほとんど無く、良と可で、物理科で一番重要な科目である
       理論物理学通論は赤字の不可でした。成績表を見ながら考えました。何をやっても人より下手だ。勉強をやった方が未だましでは
       ないか。第一、この成績では卒業も出来ない。これでは高い授業料を出してくれてる親に申し訳ない。やはり、勉強しようと
       心に決めました。
       
         2年の時は、とにかく分からない数学を理解するようにしました。授業を聞いていても分からないので、数学の教科書を何回も
       何回も読んで、先ず微分とは何かをイプシロンデルタ論法から理解していきました。数学が理解できるようになると、読めない本が
       無くなりました。3年からは量子力学と相対論が出てきます。シュレディンガーの方程式の導入過程を理解し得た時、物理学の
       醍醐味を味わえたような気分になりました。そこで、4年の卒論を書く研究室は核研としました。
       
         3年の12月、世に言う早稲田闘争が始まりました。学生会館の管理運営権を主張し、大学本部に座り込んだ学生を大学側は
       機動隊により排除し、同時に授業料の大幅値上げを決定したのです。1月になり、会館の運営権や授業料値上げだけでなく、
       産業界に役に立つ人材育成、学の独立に対する侵害等の大学側の政策が一般学生からも反発を受け、授業放棄のスト権の確立が
       始まりました。私もそれまでは、ヒューマンサイエンスに興味が無く、政治に関心が有りませんでしたが、スト権となると
       他人事では有りません。「お前らは手に技術、心に日の丸か。」と言われ、政治心に火がつきました。当時、早稲田の文系
       各学部は民生(日本民主青年同盟)、社青同(日本社会主義青年同盟)、革マル(日本共産主義者同盟革命的マルクス主義派)
       等学生運動各派の根城と言えるものでした。しかし、「政治とは何ぞや。」と、基本から議論し合えば、所謂プロの学生運動家と
       議論し合っても、一歩も引きませんでした。「そんならお前やれ。」と言われて、理工学部の3年連絡協議会議長になりました。
       
         3月になり、大濱総長が機動隊導入を謝罪して、退任を表明しました。ところが、プロの学生運動家は「十分ではない。」として、
       4月以降のスト権確立に動きました。これに対し、私は「政治運動をやるのは良いが、これを授業放棄のストというやり方で
       やるべきでは無い。授業を受けて学問を学ぶことはどのような主義主張をしようとも必要な事である。」と言って、断固反対
       しました。理工学部が先ず、4月闘争から離脱し、他の学部も次第に止めていき、早稲田闘争は終わりました。その後、東大、
       京大、横浜国大、日大等多くの大学で、学園闘争が起き、東大安田講堂事件、連合赤軍による浅間山荘事件等と闘争がエスカレート
       していきました。これ等の学生運動は、長く続き、活動家と一般学生との乖離が大きかったと思います。これに対し、早稲田闘争は、
       期間的に短く、活動家と一般学生との乖離が少なかったと言えるでしょう。私自身に対しても、ある部分だけを見た人は、プロの
       学生運動家だと思ったでしょうし、又、ある部分だけを見た人は早稲田闘争を潰した立役者だと思ったでしょう。私自身は
       一般常識を示しただけだと思っています。
      
         4年になり、就職ガイダンスが始まりました。「優の数にプラス1、良の数にマイナス1、可の数にマイナス2をかけて全部合計し、
       プラスであれば、大学院に進学できる。就職希望者は、成績順に学科に来ている求人の中から推薦する。」と言うことでした。
       私は3年の時は良が1つで、後は全部優でしたが、1年の時の酷い成績がたたって、トータルではほんの少しマイナスでした。
       そこで、核研の担任の並木教授の所へ行き、「この大学院進学基準は、3年の時迄の基準か、卒業の時迄の基準か?」と聞きました。
       すると並木教授は「君、何を言ってるのかね。うちの研究室は成績が1番か2番じゃなきゃ、来ないのだよ。」と言いました。
       私はすぐ就職することとし、ソニーを受けました。就職担当の木名瀬教授は「他の会社は学科の推薦があればまず落とさないが、
       ソニーは落とす可能性があるけどいいか?」と言いました。私は深くも考えず、ソニーを受けました。筆記試験と重役面接は
       受かりましたが、最後の盛田社長の面接で落とされました。もう7月になっており、東証1部上場企業の求人は有りません。
       木名瀬教授は、「うちの研究室(物性研究室)でよければ来て良い。」とのことでした。九州の実家へ帰り、親と進学の相談を
       しました。父は「お前だけに、全ての金を集中する訳にはいかない。」と言いました。兄は工業高校出で、上の妹は短大に
       行っていました。高2になる下の妹が傍で聞いていて「私は別に大学なんか行かなくていいから、常兄ちゃんを大学院に
       やってくれ。」と言いました。結論は求めず、東京へ戻りました。
     
          大学へ行くと、原子燃料公社からの求人が来ていました。私は、京大入試は原子核工学科を受けたほどで、原子力に強い関心を
       持っていたので、直ぐ入社試験を受けることにしました。「国は、原子力の開発をより本格化させ、原子力研究所が基礎研究を
       担い、原子燃料公社が改組され、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)となって、開発研究を担う。」と報道されていました。
       試験を受けに行くと、受験者の一覧表が貼ってありました。理系を8名採用するのに、56名受験者がいました。部門別に採用し、
       物理、応用物理部門では、1名採用するのに10名の受験者がいました。理系の入社試験でこれだけ倍率が高いのは、他にほとんど
       例が無いでしょう。また、所属大学名が書いてあり、物理、応用物理部門では、東大以下旧帝大から7名、私大が2名、地方大が
       1名でした。国立大生に強いコンプレックスを持っていたので、これでは受かる訳が無いと思い、私の人生観の甘さを悔やみました。
       試験が終わると、試験会場の近くの皇居のお堀の前へ歩いて行きました。お堀を眺めながら、来し方行く末考えました。
       父と妹のあの時の言葉が重く重くのしかかってきました。しかし、その数日後、全く予想に反し、合格の知らせが届きました。