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C 青年期

      就職、結婚、仕事、子育ての頃

      動燃に入ると、原子燃料試験所のセラミックグループに配属されました。高卒の方と2人でチームを組んで、実験をやります。
     先ず、実験装置の組み方を教えてもらいました。「そのスパナを取ってくれ。」と言われ、これはスパナだと言い聞かせながら、
     彼の指先の物を取って渡しました。次に「モンキースパナを取ってくれ。」と言われました。猿のような恰好のものがあると思い、
     きょろきょろ探していると、「お前モンキースパナを知らないな。」と言われました。スパナを知らなかったことは、ばれませんでした。
     金属の板でホールダーを作ると言います。「板をどうやって切るのですか?」と聞くと、「鋸で切る。」と言うので、「へー鋸で
     切れるのですか?」と言うと「バカ!金切鋸ってのが有るんだ。」と言われました。実験をやったことが無い私には、何もかも知らない
     ことだらけでした。しかし、この様なことは3か月もすれば覚えます。彼等は自分の経験で知識を増やします。私は経験と共に論文を
     読んで知識を増やします。半年もすれば、実験データをどう評価するか、実験のパラメーターをどう選ぶか等イニシアティブを取れる
     ようになりました。入社1,2年目の若手研究員で、輪講のゼミをやることとなり、教科書にグラストンエドランドの「原子炉の理論」と
     寺澤寛一の「数学概論」を選びました。原子力を勉強してきた連中は「原子炉の理論」は難しいと言いましたが、量子力学や相対論に
     比べれば、大したことは有りません。「数学概論」には、各章末に問題集が付いています。普通の本では、問題集があれば答も載って
     いるのですが、この本には載っていません。私は、答えが分からないと言う事はあっても、分かった答えの解き方が間違っている事は
     無いと言う自信を持っていました。「数学概論」の問題で解けない問題は無く、ゼミでは先生役をしました。国立大卒に対する
     コンプレックスも霧消しました。
 
      1年経った時、同じ部屋の先輩が炉部門に転出しました。彼は原研との共同研究で、照射試験をやっていました。この研究は原子燃料
     試験所の中で最も重要な花形研究と見なされていましたが、この研究とやっていた高卒の研究員をそっくり頂き、後を引き継ぐことと
     なりました。2人の高卒研究員を貰う破格の厚遇でした。当時は、9月と3月に原子力学会があり、社内でその発表の予行演習をやって
     いました。そこで、発表者が先輩だろうと、係長、課長だろうと、おかしい点は厳しく指摘しました。
 
       3年目の初夏の頃です。突然、試験所の全員が集められ、所長が「国の方針で、遠心分離法によるウラン濃縮を動燃が大々的にやる
     ことになった。試験所を改組して新たに濃縮技術開発部を作り、本社に濃縮開発本部を作る。」と発表しました。そしてその場で、
     私は濃縮技術開発部へ行けと言われました。これまでの研究がやれなくなるのでふさぎ込んでいると、私のグループの主任研究員が来て、
   「中村康治氏(東大の生産研究所出身、燃料部門の技術トップと言われていた)が濃縮開発本部長になる。彼が貴方をどうしても濃縮へ
     連れて来いと言う。私は反対したが、抗しきれなかった。一年間濃縮でやってみて、どうしても濃縮が肌に合わなければ、私に言え。
     何とかするから。」とのことでした。また、濃縮グループ担当の主任研究員が来て、「濃縮は理論が難しいので、数学に強い人が要る。
     あなたを京都大学原子核の東先生の研究室に国内留学させてやる。通常、国内留学すれば海外留学の権利を失うが、貴方の場合、海外留学の
     権利は残す。」とやたら美味しい話でした。私は中村氏とは特に面識も無かったのですが、学会発表予行演習の時の議論を聞いていて、
     私をどうしても使いたくなったのだと思います。

       それ迄の研究成果を8月迄に全部まとめて、留学に備えました。ところが、私の京大留学は、産学協同路線だとして学生が反対すると言う
     理由で京大から断られ、実現しませんでした。そこで、「来年システム試験と称して、9台の遠心機で、カスケード試験をやるので、カスケード
     の設計をやれ。」と言われました。カスケードとは、1台の遠心機では少ししか濃縮出来ないので、段を重ねて所定の濃縮度にしようと言う
     ものです。当時、3号機と称する遠心機で分離試験が行われていましたが、実態を見ると、分離効率が2〜3%、寿命が1週間程度でした。
    「どう言う条件で設計するのだ?」と聞くと、「効率50%、寿命10年で設計しろ。」とのことです。ウラン濃縮の開発は、遠心分離法は
     動燃担当でしたが、ガス拡散法を原子力研究所と理化学研究所が合同でやっており、対抗するためのあせりから、この様な滅茶苦茶な計画を
     作っていたのでしょう。また、3号機はヘリウムをウランガスのシールに使っていました。カスケードで次の段に送る時にこのヘリウムとウランを
     コールドトラップで分離する必要があるハズです。1段毎にこのコールドトラップを設けていたら、経済性など出る訳が有りません。
     カスケードを考える前に、まともな遠心機の開発が必要だと主張しました。すると、ヘリウムが入っていた方がウランの分離が良くなるという
     文献が有ると言って、渡されました。その文献を読んで間違いが有ることに気付きました。正しい計算をし、分離は必ず悪くなることを証明し、
     定量的にもどの程度悪くなるかを示し⑴、周りに説明しました。しかし、誰も計算の中身を理解できないため、本社に行って、直接中村本部長に
     説明しました。40分ぐらいの説明を終えて、本部長の顔を見ると、本部長は、「俺は数学が弱いからな。」と言いました。私は糠に釘を打つ
    ような話だったのかと思って、がっかりして帰りました。

      しかし、本部長は私の計算の中身は分からなくても、私を信用しました。「カスケード試験を止め、遠心機単機の開発に集中する。また、
    これまで遠心機の製作は東芝のみであったが、オールジャパン体制を採る。」と宣言しました。参加を募ると、東芝以外に日立製作所、三菱重工、
    川崎重工がプロジェクト参加を表明しました。本部長は各メーカーに自分の得意な技術を活かした遠心機を作るよう要請しました。そして、
    遠心機がどの様なものか分からない新規参入メーカーには、動燃から講師を1人ずつ派遣することとし、私は川崎重工に派遣されました。
    川崎重工と話していると、彼等は「ガス軸受けが得意なので、これで回転体を回す。」と言う事でした。ガス軸受けは非接触タイプなので、
    相当の寿命が期待できます。分離方式としては、3号機の方式はドイツのグロートが採用している熱向流タイプですが、何故分離しないのか
    分からなかったので、マンハッタン計画時にアメリカが採用した外部向流方式を試みたいと思いました。しかしこの方式は、中心軸からガスを
    抜き出すので、遠心機の回転速度が速くなると、中心部のガスが希薄化し、必要な量のガスが抜けなくなります。このため、熱向流のメリット
    を取り入れた内部循環型の外部向流を考え⑵、この方式で遠心機を作って貰いました。この遠心機で分離試験をやると、いきなり40%を超える
    分離効率が得られました。これに対し、他のメーカーの遠心機では、ほとんどまともな成果は得られませんでした。

      各社のデータが出揃った頃、本部長は主要メンバーを集めて、「無駄な遠心機を回していてもしょうがない。得られたデータを評価して、
    最適な遠心機となる標準機を作る。この設計を、甲斐、お前やれ。」と言いました。「ではメーカーとも相談して。」と言いますと、
   「メーカーとは相談するな。相談すると皆勝手なことを言う。それでは標準機にならない。お前一人の考えでやれ。期間は3か月だ。」
    とのことでした。「よし、やってやる。」という気持ちでした。先ず、経済解析コードを作り、経済性達成が目的であるとしました。
    分離性能や圧力分布の計算、風損の計算、分子ポンプの性能計算、応力計算、振動計算、熱温度分布計算等工学ハンドブックは勿論、
    当時知られていた文献から計算式を集めて可能な限り定量的にパラメーターサーベイを行い、目指すべき遠心機の具体像を描き出しました。
    全部1人でやらなければならないため、睡眠時間は7時間→6時間→5時間となり、最後は徹夜で仕上げました⑶。朝、やっと必要部数の
    コピーを終わって、本社に持って行きました。動燃とメーカーのお歴々が並んでいる中で、内容の説明をしました。当然、この内容は、
    発表まで私以外は誰も知らない完全ノーチェックでした。濃縮はこの2〜3年後には、年間100億円を使い、高速増殖炉と並んで日本最大の
    プロジェクトとなります。私は未だ28歳でした。空前にして絶後の進め方でした。
 
      この発表内容にすぐ反応したのが川崎重工です。「うちが作った遠心機は、分離性能でも寿命でも断トツだった。何故うちの遠心機では
    ダメなのか?」これに対し、「ガス軸受けでは、消費動力が大きすぎ、経済性が出ない。」と答えました。川重は本部長の所にも行きましたが、
    本部長の「これ以外はやらない。」と言う答えを受けて、遠心法からの撤退を決めました。最後に川重の担当者が来て、「もっと甲斐さんと
    やりたかったのですけどねえ。」と言って、肩を落として帰って行きました。東芝、日立、三菱重工はこの概念設計に従って、詳細設計、製造、
     回転試験を行いました。私は、技術判断の全権限を握っていました。海外の軸受けや回転胴製造に関する情報が得られたと言う幸運も有り、
     遠心機開発は短時間で長足の進歩を示しました⑷。
   この頃、年平均でも月200時間残業していました。帰宅は、今日は風呂に入るから11時半、入らないから12時半といった具合でした。
     残業として扱ってくれるのは月20時間迄でしたから、後はサービス残業とも言えますが、残業していると言う気は全く有りませんでした。
     いくら仕事が忙しくても、土曜の夜と日曜日は暇です。友達も次第に結婚し、独身寮では長老の域に近づきます。しかし、初恋の痛手が
     大きかったので、自分から女性に声をかけることは無く、女性から声をかけてくれるのを待ちました。女性をふるのも悪いので、女性が
     私で良いと言うのであれば、誰とでも結婚する積りでした。会社は、地元に原子力の理解を得るためには、社員が地元の女性と結婚するのが
     最も有効と思っていました。独身寮主催のクリスマスパーティーや観桜会を催すのに、人事課の職員がポスターを持参して近隣のデパート、
     銀行等を回っていました。
 
       4月の観桜会の時、隣にいた女性が私に話しかけてきました。名前は「ふみこ」と言い、私の母と同じ名前です。生まれてから死ぬまで、
    「ふみこ」に面倒を見て貰えるのも良いかなと思いました。前は山一證券に勤めていましたが、止めて、わが社へアルバイトに来ている
     そうです。「アルバイトは2年が限度なので、今年の9月で辞めなければならない。」と寂しそうに言いました。証券会社を辞めて我が社の
     アルバイトになれば、給料は半額でしょう。我が社へ来た目的は見え見えです。我が社は、当時大卒だけでも20〜30人採っており、高卒は
     それ以上です。独身寮は東海駅から6キロぐらい離れており、交通の便が悪く、又、水戸、日立は歓楽街が少なく、遊ぶのは大変なので、
     アルバイトが来れば、入れ食いの状態でした。それなのに、彼女には誰も手を出さなかったようです。私より背が高いと言う欠点もありましたが、
     例え慈善事業としても、私が相手をしてやらざるを得ないのではないかと思いました。

       最初のデートは、当時流行りのボーリングに行きました。私の投げたボールはコロコロと転がって行き、ピンがパタンパタンと倒れるだけで、
     100アップするのがやっとと言う状態です。文ちゃんはボールを後ろへ高く振り上げ、ぐっと身を沈めて床すれすれから投げます。まるで
     プロボーラーのようなフォームです。ボールはすっ飛んで行ってピンをぶっ飛ばします。コントロールも良く、第一投のヘッドピンと1本残った
     ピンは必ず当てます。フックボールを投げないので、スプリットが多くそれ程点数は上がらないのですが、それでも130ぐらいは行きます。
     後ろから投げるのを見ていると、身を沈める時は大きく足を開きます。この日はミニスカートを履いて来ました。ギリギリまで見えるのですが、
     この上を見るためには結婚するしかないと思いました。

       夏が来ました。デートで、海水浴に行きました。海水浴と言っても、私は全く泳げませんので、砂浜で幅跳びをしました。走り幅跳びは辛うじて
     勝てたのですが、立ち幅跳びは10pぐらいの差をつけられて、負けました。私も中学の時はリレーの選手だったので、その跳躍力にびっくり
     しました。文ちゃんは、データで表すと165H、85、58、85のサイズで、胴に比べて足が長く、両脚を揃えて立つと、脚の間に隙間がほとんど
     できません。前から見ると足は細く見えますが、横から見ると、太腿の後ろ側にアスリート的な筋肉がついていて、日本人離れしたスタイルでした。
     聞くと、小学生の頃は、100m走は日立市で一番早かったそうです。あの筋肉でぎゅう〜と締めて貰えれば、幸せになれるだろうと思いました。

       9月になり、本社転勤の内示を貰いました。文ちゃんに言うと、「私の取り得は、丈夫で長持ちすることです。」と言いました。事務棟に本社の
     社宅の状況を聞きに行くと、人事課長が出てきて、「俺が話をしてきてやる。」と言って、文ちゃんの実家へ行き、私のことを目一杯宣伝して来て
     くれました。本社に転勤になって、直ぐ式場を探しました。長く休めるのは冬休みしかなく、当時日本で一番高いビルの霞が関ビルの最上階にある
     東京會舘の結婚式場が12月24日に空いていましたので、クリスマスイブに、そこで結婚式をあげました。式の時、文ちゃんの友達が文ちゃんを
    「100万ドルの笑顔とカモシカの足を持つ。」と形容しましたが、私はなるほどと思いました。
 
        結婚して約1年後、父が60歳で亡くなりました。肝臓癌で、酒の飲み過ぎでした。亡くなる前に会いに行った時、父に「松瀬君(中学の時以来の
      朋友)が博士号を取った。」と言うと、父はしばらく沈黙した後、絞り出すような声で「俺は男じゃ無かった。」と言いました。進学相談に行った時の
      言葉は、父にとっても重く重くのしかかっていたのでしょう。5年後に私も博士号を貰い、アメリカに留学しました。あと5年生きていてくれたら、
      喜んで貰えたのにと残念でした。