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       D 中年
仕事、子育ての頃

 本社での仕事は、カスケード試験装置の設計でした。 カスケードの基本式は簡単な結合の式で、差分方程式で表されます。
今迄は、差分方程式を微分方程式で近似して解いていましたが、私は、差分方程式をそのまま解くことに成功し⑸、
カスケードの形状を決め、その特性解析を行いました⑹。プラントの設計は、東芝、日立、三菱のメーカー3社を集めて、
設計委員会を開いて進めました。三菱重工は広島造船所が担当でしたので、担当者は夜行に乗り、広島を出て朝東京に着き、
10時からの設計委員会に臨みました。設計委員会の議論は白熱し、終わるのは7時過ぎでした。もう夜行の最終が出てしまっているので、
彼等は新幹線で名古屋まで行き、夜行に乗り換え、朝広島に着いて、工場に出て社内検討をしていました。週2回、設計委員会を
開きましたので、彼等は週4日、寝台車で寝ていたことになります。これを知った私の上司の1人が「そんな馬鹿なことをやらすな。」
と言いましたが、無視しました。担当者は、皆燃えていました。
 
 カスケード試験装置の設計が終わり⑺、順調に建設が始まると、次はパイロットプラントだと言う事になります。私は当然
パイロットプラントをやるものだと思っていたところ、中村本部長は「パイロットプラントはもう動燃の仕事ではない。メーカーに任せろ。」
と言って、パイロットプラントの仕事から外されました。残された濃縮の懸案事項の中で、私がやりたかった仕事は、何故3号機が分離
しなかったかを解明することです。今、上手くいっているからと言って、理由が分からないままにしておくと、仕様を変更した場合、
ダメになる可能性があります。解明のためには、遠心分離機の回転胴内のウランガスの流れの状態を知る必要があります。ガスはマッハ5以上の
極超音速で回転していて、10の5乗以上の圧力勾配が有り、地上では、他に例のない状態です。プローブを入れると、プローブによりガスの
流れの状態が変わるので、胴内の状態を知るのは解析計算によるしかないでしょう。このテーマは大学の先生方にとっても興味深いもので、
当時、東工大、名古屋大の原子力工学科だけでなく、京大の航空工学科の先生もいくつかの論文を発表されていました。特に、京大の
航空工学科は日本の流体力学のトップと言われていました。これ等の論文は境界層理論を使い、回転胴内の一部の流れを解析するもので、
全体の流れの状況を知って、分離性能を正確に計算する事は出来ません。そこで、私は計算機を使って、数値解析により全体の流れの
計算をしようとしました。当時半導体の性能が未だ十分ではなく、計算機は、真空管を使うバカでかいものでした。大型計算機は
IBMの独壇場で、IBM360―195と言う超大型計算機が世界に10台程度有り、1台が東京で商業運転されていました。新宿の
住友ビルにあり、ここへ行って計算コードを作りました。教えてくれる人は勿論、相談する人もいません。情報元は本屋さんの専門書と
国会図書館の論文です。但し、IBMのサービスエンジニアがプログラミングを手伝ってくれました。プログラムは膨大となり、
デバッキング等の手伝いをやってくれる彼等無しにプログラム完成は不可能です。また、彼等はフォートランで書いたプログラムを
アセンブラー(機械用語)で書き直してくれました。このため、計算時間が半分程度になり、成功の大きな要因となりました。

 通常の流体を律するナビアーストークスの式は非線形性が強く、時間の項を入れて、時間で追いかけるのが普通です。この方法にも
いろいろありますので、工夫して計算したのですが、解が収束しません。1回計算すると、すぐ20万円ぐらいかかります。1日やっていると、
120万円ぐらいかかります。当時なら、ケンとメリーのスカイラインが買えました。得るのは紙屑だけです。夢中になってやっていると、
4,000万円位使っていました。そして、この方法で収束解を得るのは不可能だと結論を出しました。この時頭に浮かんだのは、非線形方程式を
解く最もポピュラーな方法であるニュートン法でした。勿論、単なるニュートン法では出来る訳がありませんが、緩和係数を使う方法があると
言う事を本で知りました。この方法でやっても収束する目途はありません。もし常識ある上司がいたら、次の挑戦を許す訳が無かったでしょう。
しかし、当時はIBMの常識外れの請求書でも、私が判を押せば、誰も文句を言いませんでした。お手手が後ろに回ることも頭にちらつきましたが、
ままよ、どうせ1回限りの人生だと思って、突き進みました。この方法を採用してからは、予想外に早く収束解を得ることができ⑻、
分離性能が計算出来ました⑼。この頃は年6,000万円ぐらいの計算機代を使っていました。
 
 間もなく東海事業所へ戻る辞令が出て、現場で実験を担当することとなりました。中村本部長も濃縮を去り、再処理担当理事となりました。
カスケード試験装置の運転が1年を過ぎたので、状況を調査するため、分解してみました。軸受けを見ると、オイルが黒く濁り、ウランの
固形物が付着しています。これでは、後1年は運転できても10年は運転できるはずが有りません。標準機のガス抜き出し法では、軸受け部の
ウランガスの圧力が高くなりすぎ、スクープ法に変えるしか無いと思いました。この方法をパイロットプラント建設に間に合わさなければ
なりません。幸い、内部流解析計算は更に非線形性が強い場合でも収束解を得るのに成功しており、若干のモデル化により、スクープ法の
解析を行い⑽、実験のパラメーターを大幅に減らすことが出来ました。
 
 ある時、名古屋大学の金川昭教授が私の前に現れました。先生は動燃の濃縮専門委員会のメンバーで、前に、中村本部長に「専門委員会で
議論するのなら、私も委員会に出席させて下さい。」と言ったところ、「あれは、失敗した時の言い訳のため、やっているのだから、お前は
出なくて良い。」とのことでした。従って、面識程度はありましたが、特に話をしたことは有りませんでした。先生は「お前はいろいろ社内報を
書いているが、そんなのは何の役にも立たない。権威ある学会誌に論文として出せ。4〜5件も出したら、俺が学位をやるから。」と言われました。
私には「論文」を書くと言う概念が無く、まして、学位を貰うなどとは夢にも思ったことが無かったので、びっくりしたのですが、よしやるぞと
言う気になりました。2年少しで6件の論文を原子力学会誌に発表し、これを持って先生の所へ行きました。先生は既に論文を知っており、
「これで良し。全部束ねて、全体の要旨と意義、目的、背景を書いた序と結論を付けて持って来い。学位論文を書いて良いかどうかの予備審査会を
やる。」と言われました。約1月後に予備審査会が開かれ、数人の先生方から多くの質問が出ました。私の論文の問題点は、実験データとの比較が
無いと言う事でした。通常は実験データと比較して真実であると言う事を証明するのですが、遠心分離機の実験データは機密扱いしていて、
公開出来ません。そこで、「誤差はナビアーストークスの微分方程式を差分方程式に変える時と収束させる時に生じる。差分方程式のメッシュの
数を増やしても解がほとんど変わらないことで、差分化の誤差が十分小さいことを、又、得られた解をもう1度元の方程式に入れて、十分収束
していることを証明した。従って、この解はナビアーストークス方程式の完全解だ。ナビアーストークスの方程式は流体に成り立つ式として世に
知られている真実を表している。」と言う理論を展開して説明しました。ある先生が「そうは言っても実際はどうか?」と言われたので、
「今、500億円かけてパイロットプラントを建設しようとしています。私の論文がおかしければ、こんな話にはなりません。」と答えました。それ以上
質問は出ず、金川先生が「私の部屋で待ってなさい。答えが出るのに時間はかからないだろう。」と言われました。待っていると、程なく先生が帰ってきて
「学位審査の時、お前みたいに威張っているのは他にいないと言われたぞ。」と言いました。「ええ!」と言うと「よいよい、通ったから良い。」と
言われました。約4か月後、学位論文を書き上げて提出しました⑽。本審査は、何事も無く通過しました。一字一句の修正も求められず、
「このまま修正なしで、黒表紙を着けて30部提出しろ。」と言われました。謝辞の所に「妻文子に感謝する。」と1行追加して、提出しました。
先生から電話がかかってきて「変わってるじゃないか。」と言われました。「見つかりましたか?」と言うと先生は呆れて、それ以上何も言いませんでした。
私は、学位取得に1円たりとも使いませんでした。出張旅費の余りで、研究室にお茶菓子を買って行っただけです。論文の印刷も社内報として印刷しました。
「黒表紙代は払う。」と言いましたが、印刷屋は「こんなめでたい話なのに、金なんか貰えませんよ。」と言いました。金を貰うどころか、先生から数値解析の
講義をやってくれとのことで、非常勤講師に任命され、1週間の集中講義をやって、講義代を貰いました。その後、メーカーから来た論文博士号を持っている
技術者に「いくら払ったの?」と聞かれ「1円も払ってない。」と言うと「へー」と驚かれました。金を払う風習があることも知りませんでした。
後に金川先生に会った時、先生は「お前がいなければ、濃縮で後2,3件は論文を書けたのになあ。」と言いました。私が先生を濃縮分野から追い出したようなものです。
先生は濃縮の研究を止めて、再処理に関する研究をやられ、後に原子力安全委員の要職に就かれました。金川先生がいなければ、私は理論解析研究者としての
足跡を世に残すことは無かったでしょう。正に命の恩人以上です。
 
 この頃、東工大の三神尚教授から仏サックレイ研究所の第2回「高速回転流体のワークショップ」に参加するよう要請が有り、参加しました。このワークショップは、
世界中の遠心分離機の理論解析研究者が集まって研究成果を発表し合う場でした。遠心機の構造については機密扱いされていましたが、理論解析については、成果を
競い合って発表していました。当時は原子力の最盛期で、先進各国の原子力研究機関や大学が各国持ち回りでほぼ2年毎にこのワークショップを盛大に開催しました。
私が数値解析結果の発表を終えると、大きな拍手が起き、数人の出席者が握手を求めて来ました。この中に米ロスアラモス研究所のジェントリー博士がいました。
この研究所はIBMの360-195を独自に持っており、その数値解析研究は世界中が仰ぎ見るようなものでした。彼は「よくあの式の収束解を得たものだ。私もいろいろ
試みたが、振動してどうしても収束しなかった。」と言いました。この瞬間が私の人生最高の時でした。この後もこのワークショップの多くに参加し、
論文⑾⑿⒀⒁を発表しました。また、その組織委員会の委員にもなり、日本でも開催しました。後に、ロシア、モスクワ工科大学のボリシェビッチ
教授が世界の遠心機の数値解析の歴史をレビューして、このワークショップで発表しましたが、それによると、「甲斐の解析手法により、初めて、遠心機の数値解析が
可能になった。実際のウラン濃縮研究に有意義な成果もほとんど甲斐によりなされた。」と書かれています⒂。

 また、この頃、原子力留学生の試験が1か月後にあるので、受けるように言われました。動燃では毎年2,3人、10人に1人ぐらいの割合で海外留学していました。
しかし、濃縮部門からは濃縮を機密情報と捉え、試験を一切受けさせて貰えませんでした。年齢的に最後のチャンスでした。しかし、急に言われても英会話力が無く、
受かる訳が有りません。試験は英検の1級でした。ところが、人事から電話が有り、「合格したから、留学生説明会に来い。」と言われました。「仕事の業績で
決めたのか?試験結果で決めたのか?」と聞きますと、「試験結果で決めた。」と言います。「私が受かる訳が無いだろう。」と言いますと、「英検1級に受かった者は
1人もいなかったので、筆記テストの結果で決めた。」とのことです。筆記なら得意です。通常、英語筆記力は大学受験の時が一番高く、大学を出る時はかなり下がり、
就職してからはすっかり低下し、論文を英語で書ける人は珍しくなります。私は受験勉強を人より1年多くやったので、得したと思います。
中村本部長の「遠心機はもうメーカーに任せろ」と言う言葉が気になり、留学に際し、転身を考えました。学位審査のメンバーであった仁科浩二郎先生(仁科芳雄博士の
御子息)がアメリカのミシガン大学出身で、「核融合をやりたいのなら、紹介してあげる。」と言われ、ミシガン大学にポスドクの資格で1年間留学できることになりました。
8月にキャンパスに着きました。妻帯者の宿舎は広大なキャンパスの森の中に点在し、木陰からリスが顔を出していました。キャンパスでは素晴らしいスタイルの女性が
ホットパンツとブラだけで、闊歩していました。夏期講習の授業に出ましたが、彼女等は、後ろから見ると、背中丸出しで、細い紐が横に一本あるだけです。
見ていると、目がくらくらしました。私はもう中年の妻帯者ですからまだ良いのですが、若い独身学生は授業など聞いてられないのではないかと思いました。日本にいる時、
新聞に、「ある老教授が授業に女学生がジーパンを履いて来たのに怒って、授業をやらずに出て行った。」と言う記事が有りました。この教授がこの姿を見ると卒倒
するのではないかと思いました。
出発前に、課長に「核融合の研究をして来るから、帰ってきたら原研に出向させてくれ。」と言いました。すると、「お前の留学に理事が強く反対し、理事長裁断で
行けることになった。向こうへ着いたら理事長にお礼の手紙を書け。」と言われました。そこで、アメリカから「お陰様で核融合の研究が出来るようになりました。」と
書いて出すと、課長から手紙が来、「理事長が怒って、「なぜ動燃の仕事でないことをやらせるのだ。すぐ呼び戻せ。」と言った。人事が中に入り、既に1日10,500円の割合で
365日分留学費を渡している。返せという訳にはいかないから、報告書に核融合に関する事は一切書かず、1年で必ず帰って来るようにしろと言ってる。」とのことです。
9月から新学期が始まり、プラズマ物理の授業に出席し始めました。しばらくすると、アッチャス教授が来て、「あなたの解析計算力と私の核融合の知識を結び合わせると
素晴らしい研究が出来るに違いない。一緒にやらないか?」と言いました。私にはためらいが有りました。寺澤寛一の数学概論を解いてみましたが、前のようにすらすらとは
解けず、若い頃に比べ能力が落ちているのは明白です。また、英会話力が弱く、少し早く喋られると分かりません。それに、理論解析は、その分野で一番頭が良い研究者が
全部やってしまい、2番目以降はほとんど何も残りません。そこで、先ず、核融合を勉強してから、何が出来るかを考え、計画書を2ヶ月ぐらいかけて作りました。
ナビアーストークスの方程式とマックスウエルの方程式を連立して解こうと言う計画です。教授に話に行くと、「スプリングタームは他所の大学に行くので、やるのは来年9月
からだ。」と言います。私の留学期間は8月までだと言いますと、何か考えなければならないと曖昧な返事です。日本に帰れば、核融合をやれる可能性は全くないのですから、
核融合の勉強をしても無駄です。そこで、勉強を諦めて、この機会に目一杯遊ぶことにしました。

 マイカーとして、ビュイックリーガルを買いました。空色の車体に白のランドゥートップのフルサイズカーです。車幅がバスとあまり変わらない位広く、前席に二人で乗る時は、
運転席と真ん中に乗ると言う感じになります。妻に運転させている時、妻の膝に頭を載せて、寝ていることが出来ます。
ハロウィーンの日に、アパートの隣の部屋に住んでいる韓国人が「御菓子用意している?」と聞きます。「何のこと」と言いますと「もうすぐ子供等が来る。お菓子が無いと困るよ。
私のを少しあげる。」と言って、お菓子をくれました。すぐ子供等が10人程来ました。どうやら全戸回っているようです。あどけない顔の女の子が両手を差し出していますが、
床の上から見下ろしますと、小学生でも高学年になるとボインちゃんで、妻のより大きいです。もし韓国人にお菓子を貰ってなかったら、対応に困るところでした。
11月に日系2世のキクチ教授の紹介で、テネシー州のオークリッジ研究所を訪問しました。マンハッタン計画の時、濃縮ウラン製造の研究を行った研究所です。訪問を兼ねて南部に
約1週間ドライブに行きました。12月になると、やたら寒くなり、銀行の屋上にネオンサインがあって気温を示していますが、夜の8時ごろにはマイナス20度位、真夜中は
マイナス30度にもなります。クリスマスのシーズンは、教授の家に招かれてパーティーです。アメリカ人は来ている服装や車は質素ですが、家の大きさと豪華さはまるで違います。
半地下が広い応接間になっており、流しとワインセラーが付いています。アメリカではホームパーティーが社交の中心です。ここでの経験が我が家を建てる時のコンセプトになりました。
1〜2月は昼間でも0度以上になることは無く、雪はさらさらです。3月になっても氷ついたままで、何時春が来るのかと思っていたところ、天気予報で、暖かくなると言う報道が
なされました。ミシガンの季節の移り変わりはダイナミックです。1週間もすれば、すっかり春になりました。ここで起きたのが、スリーマイルの原子炉事故です。
「アメリカでは今までどんな戦争の時でも疎開などしたことがないのに必要になった。」といった報道がなされていました。大学でも「なぜ、緊急冷却系を止めたのだ。」といった議論が
口角飛沫をを飛ばしてなされていました。

 4月に3週間かけてヨーロッパ旅行に行きました。パリへ飛び、レンタカーを借りてコートダジュールへ行き、モンブランに上った後、イタリアへ入り、スイス、オーストリア、ドイツ、
オランダを回り、アムステルダムからロンドンへ飛び、ミシガンへ戻りました。主要観光名所をあらかた回りましたが、ホテルは行き当たりばったりでしたので、アムステルダムでは
ホテルの空きが無く、運河の畔で車内泊となりました。5月下旬には1週間かけて東部にマイカーでドライブに行きました。、ナイアガラの滝を見物し、トロントまで行った後、ボストン、
ニューヨーク、ワシントンを観光し、アパラチア山脈に入り、インデアン部落を見て帰ってきました。6月には3週間半かけて、西部をドライブしてました。ロッキー山脈を越えて、
モーニュメントバレー、グランドキャニオン等のグランドサークルを回り、ラスベガス、デスバリー、セコイア、ヨセミテ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル、カナディアンロッキー、
グレイシャー、イエローストーン等有名な都市と国立公園の大半を回りました。1日に平均500キロ近く走る強行軍でした。最後に、8月にハワイ3島を回って帰国しました。妻も、
すっかり楽しんでいて、元気溌剌、ワイキキ海岸では、風邪を引いていたにもかかわらず泳いでいました。当時の月給が20万円程度でしたので、1日10,500円のエキストラマニーは
使い出が有りました。これは税金から出ていますから、納税者には内緒の話です。35〜36歳の1年間のアメリカ生活は、若かりし頃の夢のような楽しい思い出です。
留学前に私が気になっていたのは、理論解析の跡継ぎがいないと言う事です。濃縮部内には、私の理論を理解出来る者がいません。このことを課長に言っても埒が明きませんので、
人事に相談に行きました。すると、誰か良いのがいれば、連れて来いとの事です。そこで、早稲田応用物理の出身研究室に行き、私の学位論文を見せ、理解できるような研究者を
動燃で採用したいと言いました。最初ドクター出を紹介してもらいましたが、人事に言うとマスターにしろとのことなので、再度早稲田に行ってマスターの学生を紹介して貰い、
採用試験を受けて貰うこととして、アメリカに行きました。ところが、留学から帰ってきて、この学生を不採用にしたことを知りました。私が日本に居ればこんなことにならなかった
と思うと残念です。出身研究室に足向けが出来なくなりました。

 留学から帰ってきて暫くして、「組合をやれ。」と言われ、東海支部執行委員長を1年間勤めました。丁度再処理工場が本操業に入る時で、原子力反対運動も激しく、原子力激動の

時代でした。執行委員は選挙で選ばれてきますので、反対派の執行委員もいて厳しい状態でした。反対派の主たる主張は「再処理工場が操業を始めれば、放射能がうようよ出て来、
従事者は白血病や癌になり、子供に奇形児が生まれる。」と言うものでした。通常、賛成派は反対派と議論はせず、排除することだけ考えている場合が多いのですが、私は彼等とも議論し、
「先ず事実を出来るだけ正確に認識し、それから考えろ。」と言いました。会社側に対しても、労働待遇の改善と安全対策を強く求め、成果をあげました。再処理工場はほぼ予定どおり
本操業に入りました。その後、私の知る限りでは、従業員の白血病、癌、奇形児等聞いたことが有りません。動燃従業員の定着率は極めて高く、東海村は人口が増え、発展しました。
組合をやっていて、最も鮮明に思い出す出来事は、電力労連から茨城支部大会への出席要請があった時のことです。当時、動燃労組は総評系であり、電力労連は同盟系でしたので、
関係は有りませんでしたが、同じ原子力産業従事労働者として、連携する必要があると考え、「出席はする、但し、急に接近することに批判がでる可能性があるため、挨拶等の目立つ
行為は控える。」ということにし、書記長に説明に行かせました。電力労連の支部大会は、出席者が1,500人ぐらいの大規模なもので、電力各支部が旗を立てて勇ましく入場していました。
私は壇上の来賓席に座らせられました。国会議員、県会議員、市会議員等の先生方が挨拶した後、「動力炉核燃料開発事業団労組甲斐委員長。」と挨拶の指名がありました。前もって
何も話して無ければ、少しは考えていたかも知れませんが、挨拶しないと決めていたのに「挨拶しろ」では正にびっくり仰天です。しかし、話が違うじゃないかとそこで怒る訳にも
いかないので、座っている席からマイクの所へ歩いて行くまでの30秒間ぐらいで、話の筋書きを纏め、無事、差しさわりなく話し終えました。この頃は頭が柔軟だったのでしょう。
 
 同じような経験がもう1度あります。モスクワのワークショップでは、それまで組織委員は表に出ることが無かったのに、開会式で壇上に座らせられました。ヴァージニア大学の
ウッド教授(組織委員長)が挨拶を終えた後、次、ドクターカイと指名され、びっくりしました。司会のボリシェビッチ教授からすれば、特別の計らいかも知れませんが、それなら
そうと前もって言って頂ければ良かったのです。別に公的責任がある立場でも無いので、気楽に喋れば良いのかも知れませんが、英語で気の利いた話をするのは、私にとっては大変です。
この時も、座っている席からマイクの所へ歩いて行くまでの30秒間ぐらいで、話の筋書きを纏め、無事、差しさわりなく話し終えました。
この頃、我が家には、子供が出来ないので、病院に行きました。しばらく病院に通っても出来ませんでした。医者に「お宅は自然に出来るのを待ちましょう。」と言われました。
次第にこの意味の深刻さが分かるようになり、すっかり落ち込んでいました。すると、子供ができました。神様が可哀そうに思って、コウノトリを遣わせてくれたのでしょう。名前を
「博章」とつけました。1歳になるぐらいまではママにくっ付いていて、私にはあまり懐かなかったのですが、動きが次第に活発になると、一緒にはしゃいで遊ぶようになりました。
お馬さんごっこや飛行機ブンブンが大好きでした。「ひろ君は誰が一番好き?」と聞きますと、「パパ―」と言います。ママは信じ難いという顔をしています。そこでもう一度
「ひろ君は誰が一番好き?」と聞きますと、又、「パパ―」と言います。カッとしたママは「私は躾をしなければいけません。あなたは可愛がるだけですからね。」と言って、
えらくご不満でした。
留学から帰ってきて、仕事面で最も力を入れて取り組んだのがセット化の研究です。遠心機を設置するのに、夫々独立基礎にすれば、設置面積が広がり、現地工事費が増えます。そこで1つの
架台の上に多数台の遠心機を設置して、セット化して据え付ければ、設置面積が減り、現地工事費が減ります。しかし、同一架台の上に多数の遠心機が載っていれば、1台の遠心機が破損した時、
架台全体を揺すって、他の遠心機を破損させます。そこで、遠心機が破損した時の衝撃を和らげる方法を考え、東芝社に図面化してもらい、実験を行いました。この方法は、地震に対する
耐震性を向上させ、分離性能を安定化させ、配管組立を簡略化する等極めてメリットの大きなものでした。その形状からCセット(コンパウンドセット)と名付けました。遠心機性能も
ワンランク上げ、実験データでも問題ないと判断して、原型プラントにはCセットを採用することを推薦しました。ところが、本社は保守的で、心配だから旧タイプとCセットの両方を並列で
進めるとしました。ある時、濃縮本部長が東海に来て、皆を集め、「原型プラント計画が進み始めた。遠心機の仕様は旧タイプで行く。」と言いました。私は直ぐ「おかしい。それは
決まってないはずだ。」といいました。すると本部長は、「先ず、旧タイプで進めていて、Cセットが上手くいくことが確認できれば、Cセットに切り替えれば良いではないか。」と言いました。
これに対し「原型プラントは量産効果を確認するものだ。遠心機の仕様を大きく変えれるようなものは量産設備ではない。」と言いました。本部長は「そうか」と言って、帰って行きました。
これを聞いていたメーカーからの出向者が「甲斐さんよく言うね。うちでは、本社の本部長が皆を集めてこうすると言ったのを現場の係長がおかしいと言えば、良くて子会社行き、悪ければ
首ですよ。」と言いました。

 38歳の時、本社に行き、原型プラント建設準備室の計画グループ担当主幹になりました。部下が3人いましたが、彼らは濃縮のことは殆ど知らず、文章を書くことや、人に説明することが
出来ないので、文書を作り、人に説明するのは専ら私一人でやりました。先ず予算額を決めなければなりません。岡山県の人形峠に立地し、規模を200トンSWUと決め、メーカーに詳細設計を
発注しました。メーカーから出てきたその建設費は1,000億円を少し超える額でした。科技庁に説明に行くと、「本来はもう民間(電力)がやるべきだけども、お前等がやりたいと言うのであれば、
民間から金を取って来い。民間が出す額と同じ額を国が出す。」ということでした。そこで、電力に行くと、「200トンで1,000億円とは何事だ。ウレンコ(ウラン濃縮のために英、独、蘭が
作った国策会社)が1,000トンプラントを1,000億円で作ると言って、受注に来ている。」と言われました。メーカーに値下げの要請に行くと、「パイロットプラントは50トンで500億円だ。
200トンでは1,000億円でも苦しい値だ。」と言われました。原型プラント建設は不可能とも思えましたが、先ず、調整設計を行い、システムだけでなく、工事方法まで全部見直し、少しでも安く
なる方法を検討しました。電力に対しては、協力会議を開いて、濃縮技術を知ってもらい、国産化の意義を説明しました。動燃も建設費の一部を借金とし、濃縮役務代で借金を返すこととしました。
電力が670億円で合意する感触を得、メーカーに合意を要請しに行きました。メーカー担当者は「670億円であれば、工事が順調に進めば、赤字にはならないだろう。しかし、儲けは0だ。原子力の
他の部門は儲けている。儲けている部門の人間が出世する。我々は出世を諦めるしかない。」と言いました。私はただただお願いするしかありませんでした。最終的にはこの金額で電力、科技庁、
メーカーの合意を取り付けました。

 次に安全審査が難関でした。私は安全審査の経験が全く無かったので、適用法規の原子炉等規制法と加工事業規則を勉強して、部下を1人連れて、ヒアリングに臨みました。核燃料規制課の審査官が
3人いました。「濃縮は初めての加工事業許可申請なので、3人で審査することになった。説明する方が審査する方より少ないと言うことがあるか。バカにするな。」と言われました。しかし、
そのままヒアリングを進め、要求に従って膨大な資料を1人で作って説明しました。安全性の検討の時、課題になったのが配管の圧力です。ウレンコでは大気圧以上にしており、配管が細くてすむため、
経済性の点では極めて有利になります。しかし、事故の時、大量のウランガスが放出されるので、大気圧以下としました。全停電(バッテリーも含めてすべての電源が喪失する。)は、当然有りうると
して対策をとりました。後の中部電力浜岡の原子炉の運転差止裁判の時、原子力安全委員長が原子炉では全停電を考える必要が無いと証言しているのを知りました。同じ炉規制法で、放射能がまるで
少ないウランガスの取り扱いでさえも対策を取っているのに、原子炉で考えて無いのは信じ難い話です。もし、福島の原子炉で、この対策がとられ、運転員が訓練を受けていたなら、福島の事故は、
はるかに軽微なものになっていたでしょう。何故こうなったのか経緯を調べて、責任を明確にすべきです。
この審査で、審査官と最も揉めたのが遠心機室を第2種管理区域で申請したことです。第1種管理区域にした場合、部屋を大気圧以下にして、フィルターを通じて外部に出す負圧管理とこれに伴う冷暖房が
必要になり、経済性が大幅に下がります。放射性物質を閉じ込めて取り扱う場合は、第2種管理区域でよく、負圧管理が不要です。審査官の見解では、ウランの貯蔵シリンダーのようにそれ自体で放射性
物質が閉じ込められている場合は第2種管理区域を認めるが、遠心機が配管で繋がっており、隣の部屋でウランガスの出し入れをするような場合は認められないとのことです。しかし、遠心機室では
ウランの出し入れをしないから遠心機室は第2種管理区域で良いではないかと言って、審査官の見解を受け入れませんでした。こんなに反論する申請者は他にいないのでしょう。審査官は、一時は怒り
狂っていて、1か月ぐらい審査が滞っていましたが、最終的には認めて貰い、ほぼ予定どおり審査を終えました⒃。安全審査において、経済性を考えるのはタブーですが、実質的に安全性にほとんど
影響の無いことであれば、経済性を考えるべきです。勿論、安全性の検討に抜けやごまかしが有ってはいけません。審査官は殆どが法律家で、技術の実態をよく知らずに、考え方をチェックします。
技術者が安全性と経済性の両方をよく考えて、判断し、審査官を説得する必要が有ります。
その他にも法規制では鉱山保安法、労働安全衛生法、瀬戸内法が適用され、夫々対応しました。社内外関係各所への説明、PR用のパンフレット作成、要人の現地への案内等も必要でした。670億円の
予算の執行は簡単では有りません。会計検査があり、予算が予定通り、不正なく執行されたかどうかがチェックされます。
原型プラントに直接関係のない仕事として、理論解析研究を更に進め、ほぼ2年毎に開催される高速回転流体のワークショップで発表するのは、研究者であり続けたいと言う願望から止められませんでした。
日本でも開催するよう要請され、第6回ワークショップを開催しました。約1,000万円の開催費のうち半分を動燃が出し、残りを電力、メーカーの寄付で集めました。このため、委員会方式にする必要が有り、
委員長を東工大の高島洋一教授にお願いし、大学、電力、メーカーから委員を出してもらいました。事務局は実質一人でやるしかなく、国内外に必要な書類を作って送付し、自分の発表原稿は勿論、動燃発表
件数を増やすため、他の濃縮部職員の発表資料作成を手伝い、高島委員長や理事の挨拶文を作成し、海外参加者の「終わったら観光したいが、どこがいいか?」という問い合わせにまで回答しました。
開催まであと3週間程の頃、パキスタンのカーン博士(ウレンコに勤めており、インドが核実験に成功した時、帰国し、遠心法で濃縮ウランを作り、原爆を作って、パキスタンの原爆の父と称えられた。
後に、私的にリビア、イラン等へ濃縮ウラン製造設備を売り渡し、死の商人と言われ、身柄を拘束された。)から「パキスタンからも出席したい。」と言う手紙を貰いました。彼には前に私の公開論文の
照会があり、送ったことが有りました。しかし、パキスタンは原爆を作っており、参加は認められないと思い、所属長と高島委員長にその旨を話し、断りの手紙を書こうとしていたところ、外務省から
呼び出しがありました。行ってみると、アメリカから外交ルートを通じて要請が有り、「パキスタンがワークショップに参加しようとしているが、断ってくれ。」と言っているとのことです。この情報は、
日本では私と所属長と高島委員長しか知りません。アメリカは、パキスタンの情報機関でこの情報を手に入れたのでしょう。対応を一つ誤ると外交問題に発展するという認識を改めて持ちました。
ジッペ博士(遠心機メーカーのマン所属、ドイツ出身、戦後直ぐ若きエンジニアとしてソ連に行って、遠心機の開発に取り組み、後に米国ヴァージニア大学に行き、ヴァージニアタイプと言う現在の遠心機の
プロトタイプを作り、遠心機の父とよばれる。)がワークショップに参加するため来日しました。彼はこのワークショップのシリーズに必ず参加しており、今迄貴重な意見や情報を頂きました。もし、
彼の情報が無かったならば、現在の遠心機は出来なかったのではないかと思われます。またある時、彼が論文を私にくれました。見ると、私が日本語で原子力学会に投稿した論文(1)をドイツ語に訳した
ものでした。外国もまた遠心機情報に目を光らせていることを思い知りました。外人に遠心機を見せることは無いのですが、彼だけを特別に人形峠のパイロットプラントの遠心機室に案内しました。
ここへ入ると、彼は「Oh! My Sons!(私の息子たちよ)」と言いました。日本の遠心機も彼の設計した遠心機とそっくりだったのでしょう。
金川先生から要請されて、原子力学会の査読委員や編集委員等をやりました。学会でも活躍させてやろうと言う先生の親心です。しかし、やるのは大変です。特に編集委員は遠心法以外でも、多くの分野の
論文を読まなければなりません。投稿された論文のリファレンスを多数読んで、その道の専門家になる必要が有ります。審査では、自分の考えは間違ってないか、考えて、考えて、考え抜いて結論を出します。
お蔭で、せっかくの土日がなくなります。同情したくなる投稿文もあります。膨大な他人の論文を纏めた力作です。しかし他人の論文のレビューが多くて、本人のオリジナリティが少なければ、技術報告の
蘭に回し、論文と認めません。投稿者はオーバードクターです。普通、大学は、博士課程を修了しても、論文掲載が無ければ学位を与えません。彼は学位を取るために、さらに研究をしています。
ここで、論文と認められなければ、これまでにかけた時間、学費、生活費が無駄になり、今後についても途方に暮れるしかないでしょう。しかし、ナチュラルサイエンスの判断にヒューマンサイエンスの
判断は入って来ません。

 アメリカの学会からまで、論文の査読依頼が都合2回来ました。日本では査読委員は、公表はしませんが、決まった人だけです。公表しないのは、投稿者と査読者が知り合いであった場合、人間関係に影響を
及ぼす可能性が有るからです。また、論文は学会誌の発行日と論文の提出日が重要になります。論文の提出日が発行日より1日でも遅ければ、内容が重なっていた場合、新規性を認めません。逆に、
提出日が発行日より早ければ、新規性を認めます。そこで、提出された論文と同じ論文を書いて、次の発行日より前に、他の学会誌にでも投稿すれば、新規性が認められることになります。この様な不正を
防ぐため、信頼が置ける人を査読委員とし、査読論文の内容を漏らさないことを義務づけています。アメリカの論文査読にこの様なルールが有るのか否か、私には例外で送ったのかどうかは、分かりません。
査読をやるのは、時間がかかるだけでなく、リファレンスの取り寄せ等若干の経費も掛かりますが、査読料は一切貰えません。査読委員は完全に黒子です。しかし、優秀な査読委員をそろえていなければ、
ネイチャーの小保方晴子事件のような事が起きます。私は、編集委員と査読委員を通算20年間務めました。
科技庁から頼まれて、UF6漏洩問題専門委員会の委員を引き受けました。最初、委員を頼まれた時、「では、東海から誰か出します。」と言ったのですが、「委員長を京大の東先生に頼んだ。先生は
「私はこの道の専門家でないから、やりたくないが、もし甲斐が専門委員になってくれるのなら、やってもいい。」と言われるので、どうしてもやってくれ。」と要請されて引き受けました。また、科技庁から
頼まれて、ウィーンにあるIAEA(国連の下部組織、国際原子力機関)のUF6輸送技術専門家会議に出席しました。UF6を輸送する際に用いるシリンダーの国際仕様を定めようと言うものです。この頃は、嫌になるほど
仕事が降りかかって来ました。
通勤時間が往復3時間かかるので、家を出るのは朝7時40分、帰宅は10年間ほとんど毎日、夜1時頃でした。たまに11時頃にでも帰ると、妻に「今日はどうしたの?」と訝かられるほどでした。帰宅すると、
すぐ風呂に入り、息子の寝顔を見ながら寝ます。朝は、妻が靴下を履かせながら起こしてくれます。起きるとすぐテレビと新聞を見ながら、朝食を取り、身支度を整えて家を出ます。この間、6時間40分です。
帰宅は電車だと、11時半に会社を出て、12時の新宿発最終特急に乗ると、1時頃我が家に着きます。タクシーだと12時20分に会社を出れば、東名高速を通って1時頃我が家に着きます。電車だと絶対に座ることが
出来ませんが、タクシーだと寝て帰れます。しかし、タクシーを使うと目立つので、週1ぐらいに抑える必要が有りました。今時、残業が多いのは、効率が悪いからだとか他人に任せないからだとか言って、
悪いことのように言われます。しかし、私の場合は、私しか出来ない仕事を自分の思い通りにやり、又、やらせて貰いました。やった結果として、巨大プロジェクトを成功させました。やはりその能力と任に
有る者は、月200時間ぐらいの残業はこなして欲しいと思います。

 原型プラントの建設に関し、役所の指導も有り、東芝、日立、三菱のメーカー3社に量産設備の製作を促しました。3社は、UEM(株)を設立し、仙台に量産工場を作りました。また、電力は日本原燃(株)を
設立し、青森県六ケ所村に商業濃縮工場を作ることにしました。原型プラントは第1期分のDOP-1と第2期分のDOP-2に分けて建設することとなり、DOP-1は量産設備が間に合わないため旧タイプの遠心機、DOP-2は
Cセットタイプの遠心機で製造することとしました。どちらも100tSWUで同じ性能ですが、遠心機室の面積は、DOP-2はDOP-1のおよそ半分で経済性が飛躍的に良くなることが実証されました。
原型プラントの工事が進捗していくと、東電が濃縮役務価格の再交渉をやると言い始めました。建設時に、役務料金を決めた時の海外の一般的な役務価格100$/SWUにその時のドルレート272円/$を掛けて27,200円/SWUと
決めていたのを、現在円が高騰して140円/$になっているので、これに対応して、役務価格を下げると言います。原型プラントの建設費、運転費は既に決まっており、役務価格の変更は出来ないと言いますと、
建設費、運転費に1円の無駄も無いかどうか精査すると言います。交渉の会議に行くと、電力側は全電力のウラン購買担当課長が参加していました。私は建設室長と2人で行き、「たった2人で来たのか」と言われました。
分厚い資料を1時間程かけて、1人で説明しました。説明が終わると、東電が種々の質問をしました。質問は役所の質問に比べて甘く、立て板に水のごとくすらすらと答えました。攻めあぐねた東電は他社に
「皆様も、厳しい質問をしてください。」と言いました。すると、九州電力が「もうこれでいいじゃないか。だいたい、我々の言う事が無理筋ですよ。」と言いました。電力内で調整すると言って会議はお開きと
なりました。その後は交渉も無く、役務価格は変更無しでした。一切妥協しない私は東電の担当者にとって、癪の種だったでしょう。
原型プラント運転開始1か月前に、本社の原型プラント建設室が無くなり、業務課と人形峠事業所が以降の業務をやることとなりました。建設室長が濃縮部長になり、私は原型プラントを離れて、計画課の課長になりました。
原型プラントの運開式典にも出席せず、息注ぐ間もなく次の仕事に取り組むこととなりました。ウラン濃縮に関しては、民間がその役割を増大させる中、動燃の濃縮部門はどうやって生き残りを図るかが課題です。
一つは東海事業所で独自に進めていた高性能機の開発を電力との共同研究として、大規模に進め、完成させることです。東海に行くと高性能機設計者は「もうちゃんと回っている。分離性能もそこそこ出ている。
これをプロジェクトにして何をするんだ?」と言いました。運転部門に行くと「あの遠心機はどんどん振動が増えていく。あんなのはものにならない。」とのことです。設計者の所へ戻ると「振動が増えれば、バランスを
取り直せばいいじゃないか。」と言います。これでは実用機になりません。全くの認識不足です。直ぐ、振動が増える原因究明と対策に乗り出しました。高性能機開発の電力共研は5年計画で200億円の予算で始まりました。       
もう一つのテーマとして採りあげた分子レーザー法の濃縮については、科技庁核燃料課に行くと、「理化学研究所がやっている基礎研究を実用化するためには、予算規模から考えて動燃のほうが適切である。理研に行って、
上手く貰って来い。」とのことです。理研は取られる方ですから、面白いはずが有りません。1回目に行った時は、担当主任研究員は会ってもくれません。そこで、「名刺だけでも置かしてくれ。」と言って帰りました。
ところが、2回目はにこにこと笑顔で対応してくれました。この理由は、私が当時原子力学会の編集委員だったからだと思います。理研は論文で業績を評価されます。編集委員は上司より怖かったのでしょう。
分子法の動燃移転はスムーズに行きました。
国の方針を決める専門委員会であるウラン濃縮懇談会報告書に、科技庁核燃料課は「今後の遠心分離法の開発は、民間がやる。」という文言を入れようとしていました。「これでは濃縮部門は完全に終了となる。何とか
出来ないか?」と濃縮部長に相談しましたが、濃縮部長としては何も出来ないとのことです。そこで、核燃料課長の所へ行き、次の話をしました。

 甲斐:民がやると言っても、急速に進む円高のなか、経済性の達成は容易ではない。官がある程度補助する必要がある。保障措置上も国の関与は必要だ。

 課長:上手い手があるか?

 甲斐:こういう時に一般的にやる手は、基礎的、基盤的研究は国がやると言う事だ。

 課長:基礎的、基盤的研究とは遠心機の材料や部品の研究をやると言う事だな。

 甲斐:材料、部品だけでは、動燃の仕事にならない。先導的研究と言う言葉も付け加えて貰いたい。

これで課長に了承してもらい、ウラン濃縮懇談会報告書を「今後は民が主となって開発を行い、国は基礎的、基盤的、先導的研究をやる。」と言う文言に直してもらいました。これにより、濃縮は、小規模に研究を
続けることは出来るようになりましたが、ナショナルプロジェクトとしては終了することとなりました。これ迄の間約25年で、2,000億円を超える事業費を使いました。動燃では、その後を含めても、他に例のない
唯一の成功したプロジェクトでした。私は、終了の時期を「今、電力共研の最中ではないか。せめて、電力共研が終わるまで濃縮部を存続して欲しい。」と言いましたが、聞き入れられませんでした。この理由を
ある人が次の様に語ってくれました。
 電力は今迄、国とは独立した原子力政策をとってきた。しかし、電力自由化等経営環境が厳しくなってくると、国そして動燃と仲良く共同してやらなければならないと言うことになり、動燃理事長の所へ
「今迄の態度は悪かった。今後はもっと仲良くやりたい。」と言いに行った。これに対し理事長の側近が「悪かったと思うなら、言葉だけではダメだ。理事長を原子力委員長にしろ。」と言った。すると、電力が反発し、
「向坊先生(東大教授で当時の原子力委員長)に止めろと言いに行けと言う事か。お門違いも甚だしい。」と言って怒った。そこで、理事長は「それなら、濃縮なんかさっさと止めてしまえ。」と言って、このような
結果になった。
本社の濃縮部は無くなり、濃縮課として、再処理工場やプルトニュウム燃料製造工場を管轄する施設計画部に所属することになりました。また、東海の濃縮技術開発部は無くなり、核燃料技術開発部に所属する
課レベルの遠心法設計開発室となりました。濃縮は成功裏に終了したと言う評価はそれなりに有ったのでしょう。部が無くなった時、濃縮で部長職にあった方は他部門の部長やその上の職、又、日本原燃やメーカーの
取締役になりました。濃縮出身者では日本原燃で10数人の技術者を連れて行っただけで、4人が取締りになりました。再処理では、約100人の技術者を連れていって、1名が取締りになっただけです。さらに、
濃縮部長は科学技術庁長官賞、人形の原型プラント工場長は科学技術庁安全功労賞を貰いました。科技庁長官賞を貰えば、通常、後に勲章を貰えます。科技庁長官賞は濃縮部門では中村氏についで2人目です。
動燃の約30年の歴史の中で、燃料部門では3名が科技庁長官賞を貰いましたが、その内、2名は濃縮部門からです。工場長の安全功労賞の理由は、原型プラントの安全審査と運転でした。工場長は安全審査の時は、
本社に居もしませんでした。私の役割は、賞の申請書を作って、役所に行って説明することでした。
私は濃縮課の課長となり、課長職で、濃縮部門全体を見ることになりました。分子レーザー法の開発は、濃縮部のプラント機器を開発していた課が担当することとなり、濃縮部門から離れました。課長の権限は弱く、
濃縮部解体時の評価、人事、褒賞に対するねたみと反感を一身に浴びました。上司となった施設計画部長から「濃縮は放射能が低く、一般産業とほとんど同じ下賤の仕事だ。我々の仕事は放射能が高く、大変な仕事だ。
どうしても事故が起きる。それなのに、濃縮ばかりが優遇され、我々は非難される。」と散々言われました。再処理工場やプルトニュウム燃料工場の運転は、高度の技術開発はあまり無く、人海戦術で施設を動かし、
事故を起こせば謝りに行く、言わば、ローテクと言えるでしょう。部長は、私の作る文章を読む能力などなく、説明すればするほど分からずに腹を立て、我々の価値を認めて貰うのは不可能でした。電力共研の最終決定機関を
推進委員会と称し半年に一回程度開催していました。推進委員は、東電、関電副社長、動燃理事長、日本原燃社長、UEM社長でした。電力各社の部長、電事連、科技庁、動燃の理事、企画部長、メーカー部長等が後ろに
並ぶ豪華キャストでした。事務局は動燃と日本原燃でしたが、資料は私一人で全部作りました。この委員会は、実質的には豊田東電副社長へ御進講申し上げる会議でした。豊田副社長は技術的に造形が深いため、東電の担当者も
説明しきれず、「我々には手に負えない。後は甲斐さんお願いしますよ。」と言っていました。施設計画部長が資料を読み、豊田副社長が質問しました。この質問に対し、部長がトンチンカンな答えをしました。すると副社長は
「俺は技術屋だぞ。」と言いました。部長はそれ以来、技術的な質問には全く答えず、全部私が答えました。そして、部長に嫌われました。部待遇でやっていた原型プラントの運転を「運転員を大幅に減らして課待遇にしろ」、
又、「先導的研究の予算要求をやめろ」等と言います。これ等は既定路線として撥ねつけることが出来ましたが、ますます反感を買いました。電力共研でやっている高性能機の開発は、開発要員を半分以下に減らされました。しかし、
残りの勢力で引き続き3年間開発を続け、これに成功して、人形峠にそのパイロットプラントを建設することが決まりました。ここまで私が本社課長として獲得した予算額は1,000億円超でした。
この共研の終わる少し前に、私は東海転勤となり、高性能機のパイロットプラント建設決定を最後として、担当役となり、全く仕事がなくなりました。この時の核燃料技術開発部長との会話です。

 部長:お前はウラン濃縮の担当役だが、お前がいると新しい課長がやり難いので、居室を出て個人部屋に行け。遠心分離機の先導的研究開発にも分子レーザー法の開発にも一切口を出さず、それ以外の濃縮をやれ。

 甲斐:担当役になれば、1人の部下も、1円の予算も持つことが無いだろう。これで何か成果を上げるというのは無理だ。

 部長:担当役とはそういうものだ。

 甲斐:具体的に何をやれと言うのだ。

 部長:お前はもうすぐ50歳だろう。それぐらい自分で考えろ。

私はすぐ日本原燃への移籍を申し出ました。誰も面倒を見てくれないので、直接人事に申し出、事務ベースで日本原燃と交渉してもらいました。待遇は悪くても移籍なら出来るだろうと思っていましたが、日本原燃の答えはNOでした。
理由は、先に日本原燃に行った先輩等が反対したからです。彼等は、私が来たら、自分の地位が危なくなると思ったのでしょう。私は行く先が全くなく、結局、約7年間をほとんど無為に過ごしました。その間、やった仕事は、
若手研究員を集めて日本語を使わない英語のゼミと化学法による窒素同位体分離の理論解析ぐらいでした。化学法については東工大の藤井靖彦教授に、化学法の理論解析の現状を教えて貰いました。基礎方程式が遠心機の場合に
比してはるかに簡単で、数値解析的に完全解を求めることに成功し、2件の論文を書きました⒄⒅。若手研究者を育てたいと思い、遠心室でくすぶっていたA君が計算プログラムを作れるのを知り、彼を指導して計算を
やって貰いました。そして、彼がドクターでも取れればと思い、彼を論文のトップネームにしました。計算結果を藤井先生に説明に行くと、「この解析結果は私が予想していた実験結果とピッタリだ。今迄化学法をやった中に、
こんな計算をやれる者はいなかった。」と言われました。

 54歳の時、家を建てる決心をしました。仕事も特に無く、これからは仕事よりも自分の生活を大事にしようと思ったからです。住んでいる社宅は70uぐらいの2LDKのアパートでしたが、子供1人の3人家族が単に暮らしていくだけなら、
特に問題もありません。しかし、家を建てるとなると、アメリカにいた時にホームパーティーに呼ばれて行った大邸宅が思い出され、又、友達付き合いをするのに、これからは日本でもホームパーティーが主になるのではないかと思い、
どうせ家を作るのなら、有り金全部つぎ込んで、アメリカサイズのホームパーティーが出来る家を作ろうと思いました。第2の仕事を探すのなら、東京近郊に建てた方が良いのでしょうが、妻は、自分の実家や姉も近くだし、お稽古事や
趣味をやっている仲間も近くに大勢いて、今更知らない所へは行きたくないとのことです。息子はもうすぐ高校生で、今作らないと故郷が出来ません。仕事と言っても、もう昔の能力はなく、何が出来るか分かりません。これからは、
仕事より自分の生活を大事にして、残りの人生を生きて行こうと思いました。私の全可処分所得の約1/3をかけ、ひたちなか市に100坪超の土地を買い、吹き抜けのある60坪の家を建て、枯山水付きの庭を作りました。
担当役になって、6年経過後、金川先生から電話があり、「私は再三動燃にあなたを使うように言ったが、動燃は全くその気が無い。日本原燃の副社長は私の朋友だ。日本原燃に行かないか?副社長に会って来い。」とのことでした。
副社長に会った後、又電話があり、「副社長はあなたをすっかり気に入ったようだ。もう日本原燃の社員と思って行動しろ。」とのことでした。それから暫くして、日本原燃に移籍することが出来ました。
青森の日本原燃に行ってみると、電力とメーカー3社の関係が一変していました。前は、電力はメーカーに技術を全部任してその責任も取らせる、そして、かかった経費は払うと言うやり方でしたが、この頃、電力自由化で経営環境が
苦しくなった電力は、メーカー3社の見積もりが一般に高すぎるとして、メ―カーに対する不信感を募らせていました。例えば、三菱重工が関西電力に納入した機器の半分の価格で同等の物を米国に納入したことが判明したとのことです。
電力は、動燃と共同研究で開発した高性能機の商業化を経済性が無いとして中止しており、その後マシーナリー(UEMが電力の資金を得て変わったもの) に遂行させていた更なる高性能機の開発も回転胴端板に問題があることを理由に止め、
マシーナリーを解散させてしまいました。そして、日本原燃社内に開発センターを設立し、新たにサイクル機構(動燃が変わったもの)が提案した先導機の開発を進めることとし、サイクル機構の技術者を招請しました。そして、
サイクル機構から来た技術者のトップを開発センターのセンター長代理に就任させました。彼は私とマシーナリーの優秀な技術者を徹底的に排除しました。最初、私はマシーナリーの優秀な技術者数人をリストアップし、日本原燃社内に
紹介すると共に、彼等にセンター長代理と胸襟を開いて話し合い、一緒に開発を進めるよう説得しました。彼等はセンター長代理と話をして来ましたが、「センター長代理は我々を非難するだけで、使う気が全くないので、出身メーカーに帰る。」
と言います。私は東芝社へ行って、「人材が散ってしまったら、元へ戻すのは不可能だ。今はサイクル機構の連中が幅を利かしているが、彼等は技術力が無く、彼等だけで出来る訳はない。必ず出番があるから、日本原燃に来てくれないか。」
と言いました。すると、東芝の既知の責任者は「数日前にセンター長代理が来て、私がリストアップした連中だけは要らないと言った。可哀そうで日本原燃に出す訳にはいかない。」と言いました。普通は、自分が地位を得ると、優秀な技術者を
集め、仕事を成功させようとするものですが、この方は自分より優秀だと思われる者は参加させないと言う方針でした。
また、先導機のデータを見ると、経済性を無視しており、技術的にも多くの問題点を持っていましたので、指摘しましたが、彼等は聞く耳が全くありませんでした。私(K)とセンター長代理に従って、日本原燃に来たA君との会話です。

 K:あなた等が推奨する先導機は、回転胴を成型するのに2ヶ月かかり、回転バランスをとるのにも2ヶ月かかっている。今の遠心機は回転胴を巻くのに1日、バランスをとるのに1〜2日で出来る。こんな先導機で
   経済性が出る訳がないじゃないか。

 A:甲斐さんね。日本で遠心法をやって、経済性が出る訳がないじゃないですか。

 K :そんなことを言っていいのか。あなた方は電力に、経済性が出る、出ると説明しているではないか。出なかったら酷い目に合うよ。

 A:そんなことは有りません。確かに電力が遠心法を止める言ったら、我々は酷い目に合うでしょう。しかし、電力は遠心法を引き受けてしまい、3点セット(再処理、濃縮、廃棄物処理の3点をセットで六ケ所に立地すると言う
   地元との約束)とかもあり、止められません。そうすると、もうマシーナリーは無いのです。電力は我々に頼むしかないのです。我々は、失敗しても失敗したと言わなければ良いのです。こうすれば良い、こうすれば良いと
   提案していれば良いのです。甲斐さんも、我々がこうすれば良いと言ったら、声を揃えて、「そうだ、そうだ」と言って頂けませんか。

彼等にとって、遠心法開発はただの「食い扶持」でしかないと言うことです。
 
 ある時、開発センターで試験中の遠心機が破損しました。日本原燃や電力の関係者を招いて、破損の理由説明会を開きました。センター長代理が「スクープ菅がヒートシンク(熱吸収源)となって温度が下がり、ウランガスが固化して回転胴が
破損した。」と説明しました。スクープ菅には強い回転ガスが当たり、発熱してヒートソース(熱供給源)になり、ヒートシンクになる訳が有りません。しかし、出席者はヒートシンク等と言う難しい言葉を知っているこの人は偉い人だと
思っているのでしょう。皆、本当かと思って聞いています。そこで、私が日本原燃の若手社員を捉まえてこの説明をすると、「センター長代理がこうだと言っているのだからこうです。」と言って睨みつけられました。今迄、R&Dなどやったことが
無い連中に物理現象の考察をしろと言うのが無理でした。
社長から「外で批判ばかりしているのではなく、内で開発に従事したらどうか。」と言われ、開発センター所属の辞令を貰いました。しかし、居室はセンターではなく、センター長代理から「酸化被膜形成の理論解析をやりなさい。」と言われ、
パソコンを与えられただけで、実験の評価や提言はおろか、実験データへのアクセスも出来ませんでした。この解析計算は、学問的には面白く論文としてまとめることが出来、分離現象のワークショップで発表しました(19)。しかし、実際の
開発には全く関与できず、マシーナリーから来た技術者に部分的に開発状況を聞く程度でした。ある時、回転胴下部軸の温度が上昇していることを聞きました。先導機はスクープ菅の上下抜出方式を採用しています。これも私が動燃時代に
スクープ菅を正確な位置に設定するため考えついて、特許を出したものですが、下部軸付近に軽ガスが溜まると言う欠点があります。このため、軽ガスにより下部軸が損傷し、温度が上昇したと考えられます。このことを東電から来た職員に
伝えますと、ある日突然、東電から数名が開発センターに行って、温度のデータを見せろと言って、温度上昇を確認して帰ったそうです。ところが、暫くして、マシーナリーから来た技術者がセンター長に呼ばれて、「お前らがデータを甲斐に言って、
甲斐が東電に言ったに違いない。今度こんなことをやると首だぞ。」と言われたと言いました。このことを社長に言うと、社長は「マシーナリーから来た連中は、生活が懸かっているからもう巻き込むな。」とのことです。東電本社は、国及び
サイクル機構と協力してやるという方針を決めており、又、先導機を開発した技術者はそれ迄の遠心機開発に技術的貢献はほとんどなかった事を知らず、彼等が動燃の遠心機開発を遂行したと思って信用しきっていましたので、結局彼等に任すしか
ないと決めたのでしょう。東電の上意下達は極めて強く、最早なす術がありませんでした。もし、私に7年間のブランクが無かったなら、マシーナリーの高性能機の回転胴端板の問題は早期に解決でき、先導機もあのような問題だらけの構造に
ならなかったであろうと思うと全く残念です。
 
 この頃、成果があった唯一の仕事がIAEAから舞い込んで来、ウィーンへ行きました。イランは、平和利用に限ってウラン濃縮施設の運転をするとしており、IAEAによる査察が行なわれていたのですが、建屋の排気設備から濃縮度80%のウランの
埃が検出されたそうです。核兵器用には、90%以上の濃縮ウランを作ろうとしますが、平和利用であれば、5%以下のハズです。イランに説明を求めたところ、配管の材料の一部がパキスタンからの輸入品で、それに付いていた高濃縮ウランが
検出されたとのことでした。そこで各国からカスケード解析研究者を集めて、イランの濃縮設備容量から、イラン自身で作った可能性がどの程度あるかを検討して貰うと言うことでした。私はこの状況を聞いて、カスケード計算といった間接的な
手法だけでなく、直接濃縮工場の配管を切り取ってきて、配管断面を配管に垂直にスキャンして付着物の濃縮度を測定し、配管内表面に近い所の濃縮度が80%で、内側が5%以下であれば、イランの説明は正しいので、この方法で確認すべきだと
言いました。しかし、積極的な賛成は有りませんでした。帰国してから、IAEAからメイルが来て、「この方法は非破壊検査ではないので、出来ない。」とのことです。私は「何だ、こんなこともやらないのか 。」と思ってがっかりしていました。
ところが2回目の招集があった時、各国は「なぜ、甲斐の方法でやらないのか?」と言って 、IAEA事務局を非難し、「IAEAはイランから、サンプルを採って来る。日本とフランスが濃縮度の分析を行う。」と言う方針が決まりました。
1回目の会合では、出席者は皆カスケードの解析屋なので、私の方法では自分の出番が無くなると思い特に賛成しなかったのですが、自国へ帰って報告すると、「私が提案した方法が良いのは当たり前じゃないか。」と言われ、態度を変えたのだと
思います。甲斐の方法と呼んで貰いました。日本では、やった人の名前を特定しない例が多いのですが、外国では、実際にやった人の名前を直ぐ明確にします。   

 62歳になり、年金を貰い始めて直ぐ、日本原燃の解雇を言い渡されました。社長も既に相談役に退いていました。最後の挨拶に行くと、「飯でも食おうか。」と言って、蕎麦屋に昼食を食べに行きました。セルフサービスでお茶を注げるように
なっていましたが、社長は私の分も注いでくれました。そして、「組織人として会うことはもう無いだろうが、あなたのことは深く心に刻んでおく。」と言われました。
解雇される少し前、ヴァージニア大学のウッド教授が東京に来ました。三神教授を交えて3人で会い、昔話に花が咲きました。ウッド教授は「日本に職が無いなら、ヴァージニア大学に来ないか。」と言って、誘ってくれました。私も是非行きたいと
思い、大学で講義が出来るよう今迄の私の理論解析研究を纏めて講義ノートとして作り、ウッド教授に送りました。彼は、「これは素晴らしいから、本にしないか。するのなら、私が出版社に掛け合ってみる。」とのことでした。しかし、実現は
しませんでした。私は、これだけは世に送り出したいと思いました。この年の秋に北京の清華大学でワークショップが開かれることになったので、議長のシャイ・ツアン教授に論文参加したいと言ってこの原稿を送りました。154pに及ぶ大論文で、
通常の投稿基準では10pぐらいが普通ですから、全文掲載するのは無理だと思っていましたが、全く変更無しでそのままプロシーディング(20)に掲載して頂きました。やがて、ローレンスリバモア研究所からメイルが来、「アメリカでは、もう一度、
遠心法の開発をやり直すこととなり、今までオークリッジ研究所でやっていた開発のうち、理論解析をローレンスリバモア研究所の数値解析研究所でやることとなった。我々は今まで出ている論文を全て調べたが、やはり貴方のやり方が最も良いと思った。
是非、講演にきてくれないか。」ということでした。行ってみると、送迎、食事、観光等丁重なおもてなしを受けました。10日間滞在して、数値解析の手法について説明し、私の理論知見を教えました。講演には、リバモアから数10名が聴講しただけでなく、
オークリッジからも7,8名の研究者が参加していました。講演後に彼等と会食し、この時、単に苦労話だけでなく、遠心機の構造についても話が及びました。アメリカでは遠心機構造に関する情報は最高軍事機密になっており、今迄構造の話は聞いたことが
無かったのですが、この時は別でした。「次回は、ワシントンで会おう。」と言うことでしたので、アメリカで働けるという確信を持って、サンフランシスコを飛び立ちました。しかし、やがて「我々にはもう会えるチャンスが無い。」と言う断りの
メイルが来ました。恐らく、ニューヨークテロ以降、保障措置を重要視する米国政府が米国籍の無い者を遠心機の開発に参加させることは出来ないと判断したのだと思います。
その後、タイミングを見計らったように、中国から「会いたい」というメイルを貰いました。「来ないか」という誘いではありませんでしたが、会った時、「来ないか」と言われれば、断るのがますますつらくなります。日本から見捨てられた
私の技術を何に使おうと勝手ではないかという気持ちは強く、中国の工業力と私の知験を結び付ければ、日本やアメリカより、はるかに経済性のある遠心機を作って見せられるという自信もあったのですが、現役の時は、役所に対し「保障措置上の
機微技術であるか否かは動燃が決める。」と言った私が中国に行くのはやはり倫理感に欠けると思い、中国に対しては、「私の公開論文があなた方の開発に役立つことを願っています。」と書いたメイルを送りました。そして、私自身に対し、
「お前は全て終わった。」と言い聞かせました。