勇吉の冒険 イマジン 1 勇吉・ゆう吉・優吉 我が家の猫は「勇吉」という名前である。 実を言うと、「勇吉」と表示するのは、私だけである。 女房は、「ゆう吉」と書く。娘は「優吉」である。 「ゆうきち」と命名したのは娘である。娘のペットとして我が家に来たからだ。 最初「ゆうきち」と名付けたと聞いたとき、オスなので当然「勇吉」であろうと思い込んだ。爾来私の頭の中では 「勇吉」なのであるが、娘と女房は、決して自説を曲げない。女房がゆう吉であるのは、どうも私と娘の中間を とった結果であるらしい。 勇吉は、アメリカンショートヘヤーの堂々たる体格のオス猫である。尻尾を高く掲げて、大またでワザとややガニ股 気味に威張って歩くさまは、まさに「勇吉」と称するにふさわしい。決して「優吉」や「ゆう吉」などという字では 表現できないのである。 勇吉の名誉のために、私としては数度「勇吉」と表記すべきであると申し渡したが、相変わらず病院の診察券の 表示は「ゆう吉」であるし、娘が猫の誕生日に買ってくる勇吉への贈り物は「優さんへ」と書いてある。娘が 「さん」付けであるのは、もはや「さん」付けすべき年頃になっている、敬意を払うべきだ、ということであるらしい。 「さん」付けはいいが、「優さん」なんて、下手な高校生演劇の主役みたいで実に嘆かわしい。これがもし「勇さん」 であるなら、ヤクザ映画の高倉健の様で、まさに勇吉への尊称にふさわしい。 「勇吉」だという私の数度にわたる宣言は、二人とも何の反論もせずフンフンと聞いていたが、その後も全く変化がない。 平然として「優吉」もしくは「ゆう吉」としている。反論もしないところを見ると、もともと私の意見を聞いて 決めようとは端から思っていないので、反論する意欲も湧かなければ、その必要もないのだろう。 かくのごとく、猫の名前の漢字表記すら思い通りにならないのが、我が家での私の立場なのである。 私は祖父母を知らない。祖父母の無限の愛情を知らない。 両親は、子供に責任を持つ者として厳しい態度をとることがあるが、祖父母というものは、ただひたすら精一杯の愛情を 注ぐものであるらしい。 現役時代に峻厳・苛烈ともいうべき厳しい上司であった人が、退職して後、食事の機会などに孫の写真を懐から取り出し、 目を細めてその可愛さを物語る光景に何度も出会った。 彼らは、孫が成長したときは、すでにこの世から去っている筈であり、その愛情はまさに何の見返りもない、無償そのもの である。生きていたとしても、功なり名遂げて生活に余裕のある老人として、そもそも物質的な見返りは必要ない。 にもかかわらず、孫たちには、愛情に限らず、あらゆる物をあてがっているらしい。しかも、これは、多かれ少なかれ 孫と祖父母との一般的な関係と聞く。 私は家族というのは、三世代・四世代同居であるべきだ、と思っている。 大昔から日本では当たり前のことだった。核家族が普通になったのは昭和40年代からであるが、それは、戦後社会の 極めて特殊な生産体制・経済情勢により生じたもので、長い日本の歴史の中では始めての、ほんの一時期の特殊現象に過ぎない。 しかも、親と子が同居するのは人倫のしからしむるところである上、子が子を生んでもその関係が続く支障にはならないし、 子が子を産んだからといって、それが親と同居できない理由には決してならないからである。 むしろ、子供たちにとっては、祖父母の存在は必要不可欠であると思う。 社会の第一線を退いた祖父母は、日々に、十分な余裕をもつ。彼らは、親に代わって無償の愛情を無限に注いでくれるうえに、 その愛情の与え方は、経験不足の親の能力不足を補って余りある。 しかも、子供たちが成長していくのと反比例して衰えていく。子供たちは、かつては十分に力強く、頼りがいのあった 祖父母が日々弱々しくなり、ついには自分よりも弱くなり、愛情を与えてもらうよりは、与えなければならない存在に 変わっていくことを実体験する。 それはまことに辛い事であるが、その過程をしっかりと経験し、その上で大人にはなることは、真に他人に愛情を注ぐことが できるようになる必然のものであるだろう。 自らが弱っていく、弱ってついには死にいたる、その過程を孫に示すことは、祖父母が孫に与える最高の贈り物であり、 最大の恩恵であるように思う。 人はいつか衰え死んでいく。しかし生きているときは、精一杯の愛情を他人や弱いものに注ぐ、それが生きていることの 意味であると、私は確信する。 ところが私には、愛情を注いでくれる祖父母がいなかったし、その祖父母が衰えていく過程も経験していない。そのことが、 私の性格に基本的な問題をもたらしているように思える。というのは、私の同年代の者たちに比べると、心のどこかに非常に 冷たい部分があって、この冷たい部分は、主として、祖父母を知らないという、私の年代では特殊な状況に属する私の 特異性から生じているのではないかと思うのである。 10年前、小さいながらも我が家として、二階建ての古い木造住宅を手に入れた。 すると、どういうわけか、小学4年生だった娘が、突如、猫を飼いたいと言いだした。私は、直ちに賛成した。我が家は 夫婦と娘一人という典型的な核家族であったからである。 家長として、本来なら祖父母の同居を実現するべきであろうが、それは不可能であった。しかし、猫なら何とかなる。 猫と祖父母を同一視することは、あまりにも不敬との非難を免れないかと思うが、祖父母ほどではないにしても、 猫はある程度、祖父母の代わりを務めることができるように思う。 可愛い子猫はいずれ成長し元気いっぱいの壮年の猫となる、しかし程なくすると老い始め、ついには老猫となって死にいたる。 つまり、愛するものを精一杯可愛がり、成長させ、病気になれば心配し、全力を尽くして世話をしても、いずれは歳をとって 永遠の別れの時を迎える。 猫であれ、人間であれ、定められた長さの命しか持たない者たちが、共に生活するということはどういうことなのか、 愛するものと共に生活するという平凡なことが、どれほどかけがえのない素晴らしいことであるのか、しかもそれは ほとんど一瞬しか続かない、このようなことを、人間がその成長過程の中で否応なしに体験することが、成人になったときに、 他人の痛みをわかり、他人を十分に愛することが出来るようになるための、必要不可欠な営みであると、私は確信する。 猫は特に短い命しか持たない。今飼い始めれば、猫の一生は娘の成長と重なり、核家族であることから生じる弊害のいくらかは、 猫が取り除いてくれるにちがいない。 加えて、猫は、私にとっては孫のような存在になり、孫のように私になつき、孫のように甘えてくれるに違いない。 此れが猫を飼うことを直ちに許可した私の目論見であった。 確かに、猫を飼いだしたことは、娘には良い影響を与えてきたように思う。 今年、103歳で故郷の母がなくなったが、その3日ほど前に母の不調を知らせる連絡が届いた。すると大学生の娘は、 決して休むことのなかった学業を放棄し、直ぐに一人で帰省した。故郷の者たちが言うには、母に添い寝をして優しく看病し、 最後を看取り、しかも臨終の後では、母の湯灌をし、死化粧も施してくれたという。娘にとってはわずか19歳の、 春のことだった。 こんなことができる優しい娘に育ててくれた勇吉には、その点では大いに感謝している。娘に対して私が当初考えたことの 大半は実現したと断言してよいだろう。しかし、私に対しては、目論見は全く外れてしまった。勇吉が孫のように私に甘え、 なつくということは決してないからである。 例えば、疲れて家に帰ったとき、当然のことながら、勇吉が玄関まで迎えにでて、甘い調子でニャ〜ンと鳴いてくれるだろう、 と期待する。しかし、この期待は、決して実現しない。何しろ私を全く無視しているのである。しょうがないから 私のほうから近寄っていくと、気配を察し大急ぎで二階にあがっていく。やむを得ず追いかけて二階に上り抱き上げると、 ウーと唸る。そんなに唸らないでいいではないか、などと説得しつつ抱いたまま一階に下りると、さらに激しく鳴き、 身をよじる。離してやると一目散に女房のところに行き、ニャ〜ニャ〜と鳴いて、あんな奴に抱かれて本当に嫌だったよ・・ と訴えるのである。 何かして欲しい時、例えば腹が空いたときは、まず女房に擦り寄っていき、これ以上可愛い声はない、というような 甘い声でおねだりをする。娘には少しトーンが落ちるがほぼ同様である。この二人がいないとどうするか、仕方なく、 私に寄ってくる。そして嫌々ながらも鳴きかけるのであるが、その鳴き方が女房や娘のときと比べると1オクターブも 低い声音となり、脅すがごとき鳴き方となる。脅していなくても、少なくともおねだりでは到底ない。明らかに、 俺様が要求しているのだから早く何とかしろ、というが如き鳴き方なのである。 どうも、勇吉の頭の中では、我が家の順位は女房が最高位、娘は次席、自分が三席で、主人たる私は最下位にあり、 しかも私だけが、上の二人よりも一段と離れて、遥かに劣る地位にあるらしい。 2勇吉の寝室 地下鉄神楽坂駅のすぐ傍に昔からのお米屋さんがある。 そのお米屋さんの店頭に、数匹の子猫の写真が張り出された。夫婦で飼っている猫の子供たちで、無料で分けてくれるという。 どの子も目が丸々としてとても可愛らしい。娘に言うと直ぐに見に行って来て、どれでもいいから貰って欲しいという。 そのお米屋さんでは、親元である程度育て、乳離れをさせないと養子にやれないという。もとより承知した。 それから3ヵ月後の12月、勇吉が我が家にやってきた。 猫を貰うにあたって、実は女房と娘に一つの約束をさせていた。その約束は、いかに可愛いくとも決して一緒に寝てはいかん、 寝室に入れてはならぬ、ということだった。猫は病気があったり、アレルギーが出たりするので、過度に接してはならぬ、 しかも本来ペットはペットであるので、人間との違いのけじめをつけるべきだ、少なくとも寝るところは別々に しなければならん、というのが理由だった。 我が家では、二階には3部屋ある。ひとつを居間とし、残りの2部屋を娘と夫婦の寝室にしている。 すると必然的に居間が勇吉の寝室となった。時は12月である。夜はしんしんと冷える。それまで、勇吉は生みの両親の 傍でぬくぬくと寝ていたに違いない。それが急に一人で寝ることになった。寒くて、且つ淋しいのであろう。我々の寝室の 前でいつまでもニャ〜ニャ〜と鳴き、入れてくれと訴える。放っとくといつまでも鳴き続けるので、居間に置いている 籐椅子に毛布で祠状の猫の寝室を作り、そこに勇吉をおいて、勇吉が寝付くまでその傍で声をかけたり、さすってやるのが 我々夫婦や娘の日課となった。 毎晩のことであり、女房や娘が、次第にとても強い抗議のまなざしを向けるようになり、ついにはあからさまに、 私を非難するようになった。しかし私は断固として約束を守り通させた。家族の健康を守るために必要不可欠のことであり、 かつ、勇吉にとっても、人間とは違う猫としての自覚を持たせることが、長い目で見れば勇吉の幸福につながると 確信していたからである。 とはいうものの、物心ついて以来私の実家では常に猫が身近にいて、当時の私は、猫と共に寝るのを日課としていた のである。特に寂しい夜や、冬の寒い夜などは、暖かい猫の存在がどんなに心の慰めになったかは、忘れられない 思い出でもある。私とて前言を撤回し、猫と共に寝ることを許そうかと何度も思った。しかし父親が権威を持って 言い出したことは、守り通さなければならぬ、と自分自身に言い聞かせ、くじけそうになる決意を奮い立たせていた のである。そのうち勇吉もあきらめ、自分だけで大人しく寝るようになるだろうと期待していたが、実は、 いつまでたっても、そうはならなかった。 むしろ、勇吉の我々家族と共に寝たいという意思は、次第に強くなってきているようだった。そのせいか、 女房や娘の私に対する非難と抗議は益々強くなっていった。私としては、禁止している理由が家族のためであり、 且つ勇吉のためでもあるので、そのことが間違いであると立証されない限り、安易にルールの変更を行うことは 不可能でもあったのである。 この問題に関して、わが家族は、解決の仕様のない袋小路に追い込まれつつあるようであった。 程なくして、勇吉がこの問題のこう着状態を解決した。 我々夫婦の寝室の出入り口となっている襖戸を、自分で開けることが出来るようになったのである。 その冬の特に寒い夜、柱と襖の間に爪を入れて少し開け、さらに前足を無理やり差し入れて、襖戸を 引きあけたのである。 子猫の弱い力で襖戸を必死に開けるのである。どうして此れを禁止できようか。 爾来勇吉は、自由自在に寝室を出入りするようになり、夜は女房や娘の布団の中で安らかに眠るようになった。 猫と共に寝るのは、私の幸福だった幼いときの、貴重な懐かしい思い出のひとつである。共に寝たい、と思うのは 人情として当然のことであると思うが、勇吉は決して私の布団には入らない。無理やり入れるとギャーと 死ぬような悲鳴を上げ、全力で逃げ出す。女房や娘に酷いではないか、と訴えても、「当然でしょう」と 冷たい目で見返すだけである。 今ではもう、私としても諦めている。 3勇吉と南米からきた奥さん 女房が勇吉を病院に連れて行こうとしている。 見たところ、元気いっぱいで何の病気もなさそうである。 何しにいくのかと聞いたところ、去勢すると平然として言う。大いに吃驚して何のために、と聞きただすと、 区の広報で雌猫は卵管を縛り、雄猫は金玉を取って去勢すべしと書いてある、区民としての義務のようだ、 しかも去勢すれば長生きとなって勇吉のためにもなる、と答える。 私は唖然とした。区役所が何の権利があって猫の性生活にまで介入するのか、しかも去勢したら長生きに なって猫のためにもなるというのはどういうことか、雄として生まれて、一度もセックスが出来なくて 何の人生か、何のための長生きか、メスならいい、メスなら卵管を縛ってもメスはメスだ、しかしオスは 金玉を取ったらオスでなくなる、とんでもない、決して去勢してはならぬ、と私は大声で主張した。 「メスならいい、というのはどういうことよ」 「卵管を縛ったってメスには影響ないではないか」 「子供を生めなくなるじゃあないの!メスならいい、て酷い言い方ッ」 いや、メスのことは別のときに議論しよう、勇吉はオスなんだから、と私は慌てて議論を勇吉だけの問題に 限定することにした。 「でも勇吉が近所のメスに子供を何匹も生ませたら大変じゃないの」 「しかし、近所のメスは、この新宿区の指示に従って卵管を縛ってあるのじゃないか、子供が生まれる ことはないだろう」 「近所の雄が全部去勢してあるとすると、勇吉は唯一の雄猫ということで、天国にいるみたいなことになるわね」 勇吉は、春になると思春期に到達した。頻りに外に出たがる。最初は犬のように綱を付けて、家の前の路地に だしてみた。知らないところに出かけていって、迷い子になっては困るからだ。だが、大いに不満がる。 それはそうだろう、家の中では自由自在に動いていたのだから。 我が家はかつて300坪ほどのお屋敷であった土地を、昭和50年代にミニ開発したものだ。そのせいで、 敷地の中央に袋小路状のT字型道路があり、その両側に10軒の小さな家が並ぶ。 住人は多彩で、神田で大きな老舗の古書店を構える社長さんから、サラリーマン、デザイナー、歯医者さん、 何がなにやらわからない人まで多くの人が住んでいる。 外国人もいる。歯医者さんの奥さんが南米人で、亭主が南米のどこかの国の大学の教授をしているときに 知り合い、結婚したものらしい。おそらく結婚当時はほっそりしていたに違いないが、10歳ぐらいの息子が いるので、いまや、実に豊満な体格に変貌している。 気のいい人で、地元の夏祭りとして行われているカーニバルに踊り子として参加したりする。 一生懸命日本の生活に溶け込もうとしていることは傍目にも明らかであったが、どうも空回りしている 状況もあるようだった。 外国人との結婚生活は若いときは、若さに任せてそれなりの幸せな結婚生活を送れるが、、歳をとると、 夫婦それぞれの生まれ故郷の文化の違いが際立ってきて、中々うまくいかないようになると聞く。 この夫婦もそのようで、時々大喧嘩をして、奥さんが飛び出してきたりする。あるとき飛び出してきて、 我が家の前で大きな声で泣き出した。びっくりして声をかけると、殺されそうだ、警察を呼んでほしい、 という。 泣き声で様子を見に来た70歳代のご婦人、この人は我が家の路地の住人ではなく、路地の外の奥さんで あるが、この人は夫婦して、歯医者さん一家と親しく付き合っているようであった。 このご婦人が、私が歯医者さんを説得するから、と言いつつ南米人の奥さんを慰め、連れ立って、 歯医者さんの家に入っていった。 成り行きやいかに、と様子を伺っていると、程なくして、このご近所の奥さんが歯医者さんを 頻りに説教しながら、家から連れ出し、自分の家に連れて行った。 南米人の奥さんは30歳前後のようであるが、歯医者さんはどう見ても60歳をこえている。 若い奥さんでしかも南米人、中々苦労しているのだろうと、同年輩の私としては、実に身につまされたが、 しかし、自分が好きで一緒になった若い奥さんを、地球の裏側の日本に迄連れてきたのだから、 頑張って何とか家庭を円満にして欲しい、とりわけいつも悲しそうな顔をしている混血の息子を見ると、 切にそのように思った。 このときの夫婦喧嘩の結末は知らないが、その後も何とか夫婦仲は続いていたようである。しかし、 数年するとその家は売りに出された。 その後、この夫婦と息子の消息は杳として判明しない。 しかし、この南米人の奥さんは、彼女一家が路地に住んでいる間中、勇吉を本当によく可愛がって くれていたようだ。 実は、この奥さんと最初に会話を交わしたのは、勇吉のことだった。猫なのに可哀想だ、首から綱を はずして欲しい、とたどたどしい日本語でいう。外国から来たお嫁さんに頼まれては止むを得ない、 と綱を解いたのである。 この歯医者さんの家は、袋小路の最奥にあり、我が家からは最も遠いところに位置するが、 勇吉はよく遊びに行っていた。 ひょっとしたら勇吉も綱をはずしてもらったのが、この奥さんのお陰ということを知っていたのかも、 と女房は言う。 というのは、勇吉は10代の女の子にしか近づいていかないのである。触られるのを我慢するのも 20代前半までの女性に限られる。この勇吉の嗜好には、近所の奥さん方もびっくりしていて、 「勇ちゃんは女性の歳が判るようで、10代の女の子が来たら甘い声を出して近づいていくくせに、 私らにはプイと横を向いて、おばさんは嫌だと、さっさと向こうに行っちゃうのよ、本当に悔しいんだから」 というようなことを何回も聞かされた。 ところが30歳前後の南米人の奥さんの家には、自分から平気で入っていく。私自身もその奥さんに 親しそうにまとわりついているのを何度も見かけた。 しかし私は、南米人の奥さんが特別に可愛がってくれるから、まとわりついていたのではないのだろう、 と密かに思っている。 勇吉は、さびしい人間、悲しがっている人のことが直ぐにわかるようなのである。たとえば、 私と女房が喧嘩をするとする。女房が涙ぐんだりすると途端に勇吉がニャアニャアアと鳴きながら 女房の顔に自分の顔をすりつけたりして慰める。これが娘だったりすると、娘を慰めるだけでなく、 私の顔を睨みつけて、いつもより一オクターブ低い声で鳴いて、私を非難し、たしなめるのである。 だから勇吉は、南米から来た奥さんの場合も、その心情を理解して、慰めに行っていたに違いない。 時々戯れに、勇吉に、そうだったのだろう、と聞いてみる。すると、なんという馬鹿な奴め、 という顔をしていつも離れていく。