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 雄猫勇吉の冒険 (2)                   
                           
                                   イマジン



* 勇吉の戦い
 
我が家は、昔のお屋敷跡地にある。中央にT字型の道路を設け、10軒に区分けしてミニ開発・分譲したものの一軒である。
300坪程度の敷地に道路を設け、残りを10軒に小分けしたものなので、この10軒の家の敷地ははなはだ狭い。
だから、立派な塀を作る余地はなく、夫々が軒を接し、肩を寄せ合って建設されている。
しかし一方、元は一軒のお屋敷だったことから、今なお、周囲の住宅との間には高い塀が設けられている。
しかも、中央のT字型道路は袋小路になっているので、この道路を利用するのは、10軒の家の住人か、あるいはその
関係者に限られている。こんな事情からだろうか、周囲の住宅地と比べると、この地域だけが、独立した独特の空間を
構成しているようだ。だからなのだろう、神楽坂を登っていった高台という東京の最中心地にあるのに、一種独特の雰囲気を
保っていて、住民相互の助け合い精神というか、一体感は結構強い。だから、下町のように、貰い物や、郊外に設けている
家庭菜園の野菜などをお裾分けしたりする習慣もあり、思わぬときに思わぬ珍味にありつけることも稀ではない。
このような独特の雰囲気は、周囲の住民や行政もそう見ているようで、この10件の家だけで町内会の班となっているのは、
多分そういうことなのだろう、と思う。
猫の世界も人間の世界を真似ているのかどうかわからないが、この10軒の家の敷地が一つの王国を形成していて、一匹の
雄猫が代々統御してきているらしい。 
我々が引っ越してきたときは、この路地に、堂々たる一匹の雄猫が住んでいた。堂々としているが既にかなりの老境に達し、
歩く姿もゆったりとしていて、いかにもご隠居さん、という風情であった。
彼は、路地の一番奥、突き当りの家に住んでいて、そこには彼だけでなく、70年配の夫婦と40歳代らしい二人のお嬢さんが
一緒に住んでいるようだった。ようだった、というのは、そこのご主人には一度もお会いしたことがなく、お嬢さん方も
住んでいるのか、あるいは時々一時的に帰宅しているだけなのか、判然としないからである。
ご主人がどんな人であるかだけでなく、この一家の生計維持のための手段とか、お嬢さん方も勤めているのか、結婚している
のかどうか、などにかかわる家族の状況は今に至るも全く不明であるが、しかし、気のいい一家であることだけは間違いなく、
奥さんやお嬢さんも、顔をあわせれば実ににっこりと笑顔を見せて、挨拶をしてくれる。この家族と住む雄猫も、この家族の
雰囲気を身につけているようで、子猫の勇吉を追い払ったり、苛めたりすることは決してなかった。
勇吉が外に出るようになって、時々この老猫と遭遇していたが、その際は、勇吉は腰を下ろしてじっと待機し、この雄猫が
通り過ぎてから再び歩き始めるというのが常だった。これは多分、年配の猫に対する、猫同士の礼儀作法なのだろう。
後年、勇吉が子猫の域を脱して大型の猫に成長し、青年猫として気力充実したときを迎え、この雄猫を精神的・肉体的に
遥かに凌駕するようになっても、この双方の態度は決して変わることがなかった。特に、この雄猫が益々歳をとって弱々しく
なり、歩く姿が危なっかしいほどになっても、勇吉の態度は変わらず、また、この老いた雄猫も勇吉を恐れるような雰囲気は
決して見せず、足元はおぼつかなくても相変わらずゆったりと、悠然と歩いていた。それはまさに、王者の風格というべき
ものであった。
このような王者ぶりも、一年一年、弱々しくなっていった。老化が実に速やかに進んでいき、ゆったりとした動きが、
よろよろした覚束無い足取りに、威風辺りを払う王者振りが、端的に老衰した弱々しい雰囲気を示すものに変わっていった。
そして、ついには、その家の奥さんに抱かれて路地を往復するようになり、程なくして全く外に出ないようになった。
たまたま出会い、様子をきいてみると、その奥さんは言葉少なに、認知症の症状が出てきたんです、というのみであった。
そして勇吉三歳のとき、ある早春の寒い夕方、火葬に付したという訃報が我が家に届いた。享年18歳であったと聞く。
振り返ってみると、この雄猫がここの支配者であった時期は、勇吉にとっては子猫時代から壮年に達する期間であったが、
実に平和で、楽しみに満ちた黄金の時代を過ごしていたように思う。当時は、このような状況は、特別のことでも何でもなく、
普通のことだと思っていたが、実はそうではなかったのである。
われわれ人間は、幼年期や青春期に享受した幸福がどんなに貴重なものであったのか、その幸福が両親や周囲の年配者たちの
周到な配慮の下で始めて実現していたのだ、ということを、それが失われて、あるいはその年配者たちが他界して、初めて
気づかされる。
これは、勇吉にとっても、同様であったのである。
猫が死んで数日は何の変化もなかった。しかし、雄猫が亡くなった後数日を経ずして、周囲の雄猫たちが、入れ替わり立ち
代りこの地域に侵入してきた。周囲に、こんなにも多くの、屈強な雄猫がいたのかと、正直びっくりした。
王たる猫が死んだことを知らせる、なんか特別の回覧板みたいなものがあるに違いない。
そうでも考えないと、死んだ直後に、かくも沢山の雄猫が入れ替わり、繰り返し現れる理由が説明できない。
いずれにしろこの状況は、勇吉にとっては、それまでの権威ある王の保護下の平和な時代から、この地域の支配権を争う
雄猫同士の乱世に、突如放り込まれたことを意味していた。
なにしろ、闖入してくる雄猫たちは、亡くなった先王の猫みたいに勇吉を無視してくれない。彼らは一様に一直線に勇吉を
めざし、逃げる勇吉を追い廻し、挑戦する。つまり、彼らは全面的な、この王国の引渡しを要求しているのである。
勇吉は、それまでは先王の庇護の下、平和で穏やかな生活を享受し、家庭では私の娘や女房という女性達に囲まれて優しく
扱われ、ぬくぬくした青春時代を過ごしていたのである。だから、カラスにちょっかいを出し、怒ったカラスから追い掛け
回されただけで、爾来カラスを見るとぶるぶると震えるくらい、気弱な雄猫に育ってしまったのである。そんな勇吉に
とって、雄同士の激烈な闘争が渦巻く世界など、想像も出来ないほどの異世界であったのだと思う。
実は私の子供時代がそうだった
実家は、筑紫平野の中央にある城下町佐賀市の南の外れにあって、家の縁側から先は、遥かに遠くの有明海まで水田が連なり、
春や夏は水稲の緑の絨毯、秋には波打つ黄金の稲穂がどこまでも続いた。水田の間には、灌漑用のクリークが網の目のように
設けられており、そこには清らかな水がゆったりと流れていた。
クリークは、いたるところに岸を保護するための猫柳や竹林があり、その緑陰は、小鮒を狙う子供たちにとって、格好の
釣り場となっていた。
家は祖父の代まで大きな農家だった。
当時は既に切り売りされてしまっていたが、元々は千坪にもなろうかというお屋敷でその西側と北側には、城下町の上水道
設備とも言うべき小川が流れていた。
この小川は、江戸時代初期に、鍋島藩が、筑紫平野の北方、背振山脈の麓から、その山脈から湧き出る清水を、疎水を開鑿
して延々佐賀市まで導き、市内を幾流にもわけて通水し、上水道として城下町の各家庭に提供したものであるという。
この疎水は、数百年にわたりその役目を果たしていたものの、昭和にいたって水道設備の完備と共に、その役目から開放され、
私の幼年時代は、水草の中で小鮒やハヤが泳ぎ、水面をトンボが優雅に飛び、夏の日中は子供たちが水浴びをし、夕方からは
蛍を追うことの出来る、格好の遊び場とかわっていた。
このような小川と田んぼに囲まれた敷地に、藁屋根の母屋と隠居屋だけが残っていた。母屋は父の妹夫婦とその子供10人と
いう大家族が戦前から住んでいて、戦後台湾から引き上げてきた我が家族は、叔母夫婦に隠居屋を空けてもらって、
住んでいたのである。
つまり、私は、物心ついて以来、小川と田んぼに囲まれた敷地の中で、家族以外では、叔母夫婦と従兄弟にのみ囲まれていた
のである。しかも、その従兄弟たちとは、血のつながる一族として、それこそ兄弟姉妹同様に仲良く過ごしていたので、
私の生活範囲に荒々しい他人が姿を現すことは決してなかったのである。
それに、私は3人姉妹の弟として生まれていた。男の子が欲しかった両親の待望の子供であったらしく、それは姉たちにとって
も同様であったようだ。
一番上は8歳、すぐ上の姉も3歳離れている。つまり私は、実の母親のほかに母親同様の年上の姉たちが3人もいて、4人の女性
から『坊や、坊や』と呼ばれ、優しく保護されていたのである。しかも、私は従兄弟たちからも『坊や』と呼ばれていて、
どうも周囲にいるあらゆる人間から『坊や』として、保護されていたようなのである。
かくのごとく、私は、家族と親戚に囲まれ、世間の荒波から遠く離れて、至福の時代をすごしていたのであるらしい。
しかし、これは小学校に入学するまでの間だった。小学校に入学すると私は猛獣の彷徨するジャングルに放り込まれた様な
気分になった。
なにしろ私は3月28日生まれで、クラスの中で誕生日が最も遅く、しかも、やや発育不全という理由も加わり、クラスの中で、
特に小さい者の一人だった。しかも私は、それまでは、優しい姉たちと仲のいい従兄弟たちに囲まれていて、喧嘩した事がない。
喧嘩どころか、周囲の人間は全て善意の人たちであると信じ込んでいたのである。苛めっ子達にとって、私はなんと素晴らし
餌食であったことだろう。直ぐに騙され、しかも喧嘩の方法も知らない、相手を殴ることすら出来ないのである。
私は、苛めっ子たちが何故私を殴るのか、どういう理由があるときに撲られるのか、全くわからなかった。わからない以上は
対処の方法がない。あるとき突然理由もなく攻撃されるのであって、実に不可解な異常な世界としか思えなかった。
しかもこの世界は決して小学校の中だけではなかった。下校途中には、他の小学校に通う男の子が待っていて、私に何の理由も
なく喧嘩を売るのである。
今振り返ってみて、私の全生涯の中で、これほど危機的な時代は他にはなかった。長じて後の職場での権力闘争など、
子供時代の波乱万丈と比べると、むしろ子供騙しのようなものだった。
勇吉は当初、他の猫が来ると先王の猫に対したように腰を下ろし頭を下げて通り過ぎるのを待っていた。しかし、相手は決して
通り過ぎない。猛然と向かってくる。唸って威嚇する。しかし、勇吉はわけがわからず、黙っている。そして、ついには
引っかかれ、噛み付かれる。やむを得ず、勇吉は家に逃げ帰ってくる。しばらく様子を覗って、ほかの猫がいないことを確かめ、
慎重に外に出て行く。しかし、暫らくすると何処からか屈強な雄猫が現れ、追い掛け回す。慌てて逃げ帰る。追う猫はついには
家にまで入ろうとする。さすがに女房が駄目ダメと追い払う。勇吉の世界はついに狭苦しい家に限られることになってしまった
のである。それも女房の助力があって始めて何とか維持されているのである。勇吉にとって、これは大変な屈辱的な状況で
あったろう、と思う。
しかし、これは私にはどうしようもない、手助けできない事がらであった。これを打ち破るのは勇吉にしか出来ないことなので
ある。そのことは十分に良くわかっていた。
小学校に入学して以来の私の窮状は、誰にも頼らず自分自身で解決した。虐めというものは、子供時代も成長してからも、
誰にも頼ることが出来ず、自分自身で解決するほかはない問題なのだ。何故なら虐めは、相手よりも、むしろ自分自身の問題だ
からだ。あるとき、私は、周囲にいる私と同様の体格の小さい、弱々しい子供が虐められず、何故私にだけ虐めが集中するのか、
その理由に気付いたのである。虐められない子供の共通点は、体力は弱くても精神力が強く、虐められ始めたら直ちにそれに
反抗する気の強さを持っている。虐められないようにするためには、喧嘩に勝つことではなく、負けるとわかっていても反抗し、
殴り返す気の強さを持っているということが必要だった。私には、それが全く欠けていたのである。
そこで、私は、同じ事をすることにした。
まず最初に、クラスの中で特に喧嘩の強い子に反抗したのである。その子の言葉による虐めに、私は言葉でなく、拳で殴った
のである。勿論殴り返され、押さえつけられた。大変痛い思いをしたが、このようなことを、他の者にも何度か繰り返すうちに、
あれほど私の悩みの元であった虐めは、激減し、ついには、なくなったのである。
虐めは一度我慢すると、さらにエスカレートする。不当な要求に譲歩すると、それよりも程度の悪い、さらに不当な要求が押し
付けられる。つまり、際限がないのである。だから、攻撃から自分を守るためには、戦わざるを得ないのである。
一つの戦いを忌避すれば、さらに苛烈な戦いが待っているし、戦いを避け続ければ、ついには生きていけなくなる。
勇吉はどうするだろうか。
戦いを忌避して家に閉じこもり、女房や娘の優しい庇護を受けて、一生をペットとして過ごすのか。
それとも、勇吉の幼年期に私が願ったように、去勢されていない雄猫として戦いに赴き、雄猫としてのテリトリーを築き、
雄々しく生きていくか。
私は大いに心配した。
しかし程なくして、勇吉は外に出ることを選んだ。
そして、挑戦されれば挑戦し返し、唸り返し、引っかき返し、噛み返し始めたのである。私は大いに喜んだ。それでこそ
男の子である。
とはいえ、どうしても勇吉が適わない相手もいた。茶色のトラ猫で、私が見ても、勇吉より遥かに大きく獰猛なのである。
勇吉は逃げ腰になりながらも、必死で唸り返えす。そのような時は、私は箒を持って飛びだし、その猫を追い払うのを
常としていた。
それをみて、女房や娘が、子供の喧嘩に親が出て行くことほどみっともないことはないのに、我が家では、飼い猫の喧嘩に
父親が出て行く、と愚痴る。
構う事はない。
子供の喧嘩だって、弟が負けてくると兄貴が出て行って仕返しをしていた。私には兄がいなかったので、何度か悔しい
思いをした。勇吉の加勢に出ていくのは、その時の思いが残っているからである。
人間界だってそうなんだから、猫の世界だってそれでいい。
苦しいときに家族が応援しなくて何のための家族か、とその都度女房や娘には反論した。
ともあれ、茶色の猫と勇吉の主導権争いは、ある日ぱったりとなくなった。私が加勢して、その猫が来なくなったからでは
ない。近所に住んでいる黒白の巨大な雄猫が、茶色のトラ猫を追っ払ったのである。
追っ払った黒白の雄猫がここの支配権を握ったのかというとそうではなく、追っ払った後は、二度と姿をあらわさず、
勇吉の自由に任せている。一体全体これはどういうことだろうか、私には全く理解できなかった。が、程なくしてその理由
が判明した。
我が家の東隣は、当時、上智大学の女子寮になっていた。この女子寮は広大な敷地に建てられており、しかも様々な草花が
植えられた大きな庭があり、ここには二匹の去勢された雄猫が飼われていて、この猫たちが女子寮全体をテリトリーと
していた。
勇吉は自分の区域の支配権を確立すると、次は女子寮をその支配下におさめようと、塀を乗り越えて侵入していくように
なった。勇吉としては、当然だったろう、何せ私から見ても、支配下におさめたくなるような魅惑的な地域なのだから。
そうさせてなるものかと、この二匹の雄猫も必死で抵抗していた。が、二匹とも老境に入りつつある年齢であったし、
何よりも去勢されていて支配意欲が乏しいのか、暫らくすると勇吉の天下になってしまい、その猫たちは姿を見せなく
なってしまったのである。
しかし、ここでの勇吉の天下は、ほんの束の間だった。数日後、隣の女子寮から猫同士の凄まじい唸り声が聞こえてきた。
慌てて二階の窓から覗いてみると、勇吉と黒白の猫が睨み合っている。しかし、黒白の猫の迫力に比べて、勇吉に分がない
ことは明らかだった。暫らくして、勇吉の隙を見つけた黒白の猫の一噛みによって勇吉は降参し、すごすごと引き上げてきた。
その引き上げ方は、頭を下げ、腹を地面に擦り付けるようにしつつ、斜めにゆっくりと引き下がってくるというものであった。
その様は、私はあなたに負けました、私はここから引き上げます、という意味であることは、猫語を解しない私にとっても
明らかだった。このようにして、女子寮の支配権を黒白の猫に引き渡したのである。
ところが、ここでも不思議なことが起こった。
この女子寮にも、黒白の猫は、その後、姿を現さなかった。そして暫らくすると、前にいた二匹の去勢された猫が戻ってきて、
彼らの支配地に戻ったのである。
私はようやく気付いた。この黒白の猫は、この界隈の大ボスなのである。この猫が、それぞれの地域の区割りをして、
そこのボスとなるべき雄猫を指名している。その指名に反し、そこを乗っ取ろうとする猫は追い出し、猫世界の秩序を
維持しているのである。
彼は、ご近所の公認会計士の家に住んでいて、その家の前で、じっと座っていることが多い。自信たっぷりに座っていて、
目があったら悠然と見返し、決して恐れるような風情を見せない。それはそうだろう。彼は猫共和国の大統領なんだから。
爾来私は、彼の前を通るたびに深々と敬意を払うことにしている。

* 勇吉の恋
 
かつて我が家界隈を支配していた老猫の家が、猫の死後暫らくすると、雌猫を飼いだした。
私は大いに喜んだ。
成長の暁には勇吉の格好のガールフレンドになるだろう。
そのためにはまず、私自身が、その奥さんに好感を持たれる必要があった。そこで、奥さんに出会う度に深々とお辞儀をし、
しんどい世間話の相手を務め、またその家の花壇の美しさを褒め称えた。
ところがその家では、その雌猫を深窓の令嬢として育てる決意らしく、決して外に出そうとしない
一方、その家に雌猫がいることに気付いた勇吉は、毎日毎日その家に行くようになった。
勿論家の中には入れない。
だが、その雌猫は出窓のところにじっと座って外を見るのが好きらしい。
そこで、毎日毎日、勇吉はその出窓のすぐ傍の塀の上に座って、ガラス越しに秋波を送るのである。
なんといじらしいことか。
私は女房に言って、もらい物のお裾分けは向う三軒両隣が原則であるが、例外的に数軒先のその家まで届けるようにした。
私や女房の努力が認められたのか、ある日、奥さんが「避妊手術をしたので」といいながら、雌猫を抱いてやってきた。
そこで、私も勇吉を連れて外に出たのである。勇吉はその猫を見ると、仰向けになったり、ごろごろと転がったりして、
盛んに媚を売る。
奥さんが雌猫を、ほらほら、といいつつ、勇吉の鼻の先におく。すると、なんと途端にその雌猫が鼻の頭にクシャクシャと
皺を寄せて、猫がもっとも嫌いなものに対する表現である「ハーッ、フーッ」と歯を剥いて唸ったのである。
勇吉は呆然としていた。
私も、これはあんまりではないか、と思ったが、何しろ猫の世界のことであるので、如何ともし難い。やむを得ず
「ウ〜ム」と呟く他なかった。
奥さんは、「まだ娘ですからねえ、もっと大人になれば変わるかも」と気の毒そうに言う。
しかし、私は決してそういうことは起こり得ないと知っていた。
私とて、若いころ数多くのお見合いをした。
お見合いでは、そのときの第一印象が頗る大事であって、その第一印象が良くないと、その後試みに何度か会ったりしても、
決して女性の態度が変わることはなかった。
どうも女性というものは、第一印象らしいのである。それが、良くないと決して駄目らしい。勿論、第一印象が良ければ
それで全てが旨くいく、ということではないが、避けることの出来ない第一の関門である、というのは確かなのである。
勇吉と私は、意気消沈してすごすごと家に引っ込んだ。
女房もがっかりして、「何が悪いのかねえ、勇吉はハンサムなのに」と愚痴を言うしか方法がなかった。
ピンポ〜ンと音がして、女房が玄関に出て行った。近所の夫婦のようだ。その会話の端々に勇吉や猫といった単語が
聞こえる。しかも、その調子はどうも勇吉を非難しているものであるらしい。
私も慌てて出て行った。
来ているご夫婦は、近所の家に住んでいて、家族の誰かが、鯨の保護や緑の保全などに関するNPOに属しているらしく、
その筋のポスターなどが時々塀に張り出されたりする。
彼らの来訪の趣は、要するに、勇吉が朝早くその家を訪れて、その家の雌猫を誘う、その鳴き声がうるさくて眠れない、
何とかして欲しい、というものであった。女房が、では朝は勇吉を外に出さないようにしましょう、などと答えている。
私はフムフムと黙って聞いていたが、亭主が自分の女房を指差して、この人は繊細で神経質なんです、可哀想なので
何とかして欲しい、というのを聞いて、なんという連中か、と憤慨し始めた。
この人は繊細なんです、というのは何処を見たらそんなことがいえるのか、無骨・無神経そのものの風貌で、口の利き方も
無作法そのものではないか、そもそも今は猫の恋の季節である、動物たちが恋の季節に鳴くのは自然の摂理ではないか、
遠くに住む鯨の生存権には興味があっても、近くに住む可愛い猫の恋には同情を持たないのか、矛盾きわまる行動をしても
そのことに全く気がつかない、こんな連中がやるから多くの国民が鯨の保護運動に支援を与えないのだ、そもそも君たちの
雌猫はかなり老いている、うちのハンサムな若い勇吉が相手なら光栄に思うべきではないか、なんという奴らだ、と次第に
怒りが高まっていく。
そこで腹立ち紛れに、「分かりました。それでは勇吉に、お宅の猫なんかには決して近づかないように、よく言い聞かせて
おきましょう」と言ってやった。
その夫婦も呆れたのか、どうもありがとうございます、などと呟いて、連れ立って帰っていった。
しかしこの夫婦のお陰で、爾来勇吉は、恋の季節が終わるまで、朝には外に出られなくなった。
勇吉は、外に出たがってミャアミャア鳴くが、私は、それはそれでよかった、と思う。
あんな分からず屋の夫婦の下で育った猫なら、相当頑固な嫌味な性格だろう、そんなものと仲良くならなくても、将来、
もっと若くて美しく、勇吉にふさわしい素晴らしいパートナーが、きっと見つかるに違いない。
最近勇吉は、一旦外に出て行くと4〜5時間は帰って来ないようになった。一晩中帰ってこないときもあり、迷い猫になった
のではないかと、深夜まで探し回るのも稀ではない。家族としては、大いに心配して、翌朝も早起きして探し回る。
そんなときに帰ってきたら、普通だったら申し訳ないような顔をするかと思うが、決してそんなことはない。堂々として、
平気な顔をしている。
しかし、女房によると、ある時、二・三百メートルはなれた家の庭先で、そこの猫と仲良くしているのを見かけた。
「勇吉」と声をかけたらシマッタというような顔をして、そそくさと姿を隠した、という。現場を押さえないと、白を切る
つもりであるらしい。
先日、台風関連の土砂降りとでも言うべき強い雨が降り続いた。四・五時間もたっているのに、帰ってこない。
こんな雨の中雨宿りしているとしても随分濡れているだろう、と家族中が心配した。
その心配の中で、雨が小降りになったときに、随分平気な顔して帰ってきた。拭いてやろうとしたが、ほとんど
濡れていない。
そうか、勇吉は別宅を持っている、そこでぬくぬくとしていたのだ、と私は納得し、かつ喜んだ。
いつの日か、勇吉が子猫を連れて帰宅してくれるのではないか、と密かに期待している。それもなるべく早いほうがいい。
何故なら、今年勇吉は9歳になる。猫の年齢では、既に老境に達しつつあり、そう長く、勇吉に子供を期待することは
出来ないからだ。
勇吉の子なら喜んで可愛がり、面倒を見てやりたい。