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       ビルマの少数民族の村にて                   
                          
                                                      イマジン



(1)旅の始まり
 
首都ヤンゴンの旅行社の若い専務が、すごくいいという。日本人は誰も行かないが、西欧人にはとても人気だ、そのうち、
こんなツアーも無理になるだろう、いまの内に行ったらどうかと、しきりに勧める。
しかし、すぐには、その気にはならなかった。
なにしろ、その村に行くためには、2名のガイドの引率の下、2頭の水牛が引く牛車に乗って急峻な山道を登ること1日、
宿や食堂は一切なく、泊まるところはその村の酋長の家で、食事はガイドの手作り、寝袋、食糧など総て持参、
というのであるから。
費用を聞くと意外に安い、この程度なら、まあいいか、厭だったらすぐに帰ればいいし、と承諾した。

ビルマの北西部、大戦中日本軍のインパール作戦の拠点となったカローの街、ここで首都ヤンゴンから私を案内してきた
ガイド、名前は確かリンといったが、このツアーを運営している地元のガイド、ヤンさんを紹介した。日本にもいた
ことがあるということで、実に流麗な日本語を話す。ビルマ人らしく小柄であるが、何よりも若くかつ美人の女性である。
30歳前後であろうか。

大いに嬉しくなり、じゃあ壮行会をやろう、と街に繰り出したが、この人は決してアルコールを飲まない。ビルマでは、
若い女性がアルコールを口にするのは、その筋の女性だけ、と頑なである。

リンさんは、ヤンゴンのような都会ではそうでもないが、それでも、良家の子女は今でもそうです、このようなところ
では、特にそうなんでしょうね、という。やむを得ず、リンさんと二人で、地元のシャン料理を肴に、これまた地元の
米で造られたシャンパンの如く泡の出る、少し甘口の酒を楽しんだ。
料理は、豆腐、発酵させた豚肉、魚醤をベースにして煮込んだ川魚、土地のものらしい様々な野菜の煮物、炒め物など等、
とても美味しかった。何といっても生の豚肉をご飯の中で発酵させたものは、琵琶湖のフナずしの如く、臭く、酸っぱく、
天下の珍味ではありました。
加えて、地元のガイドはアルコールこそ口にしなかったものの、あれやこれやと冗舌に会話し、3人の宴を盛りたてて
くれた。そのおかげで、久しぶりに大いに幸福な気持ちになって、戦争中は日本軍の病院だったというホテルにほろ酔い
加減で帰還した。
このホテルは、病院時代は、ゴキブリ・ダニの横行する不衛生なところであったらしいが、今はそんなこともなく、
むしろカローでは高級ホテルに位置づけられるらしく、泊まった部屋は、清潔な白いシーツの大きなベッドとレースの
カーテンがかかった広い窓を持ち、実に快適だった。
翌朝、薄暗いうちに起きてホテルの前にでると、既に、2頭の水牛が白く息を吐きながら私を待っていてくれた。
ビルマは熱帯地にあるが、北部は高原で、早朝は相当に温度が下がる。時として、セーターが必要なのである。
挨拶を交わして、江戸時代なら日本にもありそうな木製の荷車に荷物を積み込み、徒歩で出発した。
牛車に乗るように勧められたが断ったのである。牛車がいかにも重そうな木製で、すでに3人分の寝具や食糧、旅行鞄
等が積まれている。更にこれに乗ることは、小柄なビルマ人ばかりの中では、異様に巨大に見える男が、可哀想な水牛
を苛めているように見えるのではないか、という気がして臆したのである。
水牛は本当にゆっくりと歩いているが、これは荷が重いからではなく、単なる水牛の習性のようなもので、これが実に
強力な力で楽々と車を引いていることは直ちに分かった。
町を出ると、すぐに舗装が途絶え、でこぼこの自然のままの泥土の道に変わり、かつ、不思議に思うほどの急峻な山道
となったが、悠々と同じペースで登っていく。

ガイドは、荷車の動きは水牛たちに任せっぱなしで、御者的な行動は誰もしない。
任せられた水牛は、道の凸凹やカーブでは、安全な行き方を自ら判断し、危険を上手に避けながら車を引く。本当に
利口である。所々の別れ道は、自分たちが先頭の時は、私たち人間が追いつくまでゆったりと待ち、私たちの行く
方向を確認してからついてくる。利口で頼もしい水牛は、いかにも今日は楽しいハイキングという気分で、山道を
ゆっくりと楽しんでいる。
それに引き換え、私は大いに疲れてきた。
高原の薄く漂う冷涼な朝霧に包まれているうちはよかったが、程失くして太陽が熱帯の青い空にギラギラと輝くように
なると、私は汗まみれになって、山道を行くこの旅を後悔し出したのである。
何しろ、駅の階段ですら、近くにエレベーターやエスカレーターがあるときには、迷わずそれを選択するような
情けない体力なのである。
牛車の荷台は大いに空いている。私が身を横たえるに充分の広さである。
しかし私は既に、昨晩の宴の中で、俺は、日本の皇太子さまも一会員にすぎないような、最も古い伝統を持つ山岳会の
メンバーで、幾多の経験を持つ熟練の山男なんだ、と大口をたたいた手前、疲れ果てて牛車に乗るなどということは
決してできない環境にあった。あまつさえ、朝には乗車を断っている。しかも、山登りなどという不思議な趣味道楽は
ビルマには無いと断言していたガイド達は、若さもあるのか、何やらわからないビルマ語でチャットしながら、平気な
顔をして、生き生きと歩いている。
私は空いている荷台を横目で見つつ、息絶え絶えになりながら、よろよろとついて行った。無慈悲なことに、水牛ども
は相変わらず着実な足取りで、変わらぬスピードで黙々と急峻な山道を登っていく。ガイド達は、主人たる私の世話を
全くせず、判らぬ言葉でしきりに会話しながら、時々はじけるような笑い声を挙げ、これまた、休日のハイキングを
楽しんでいる。
何という事態になったのか、このような状況でよろよろと峠の先まで、少数民族の村を訪ねるのか、少数民族の
汚らしい村で、汚らしいダニやゴキブリの蠢く汚らしい現地人の家に泊まる、そこには風呂もなく、トイレには
紙もなく、肛門を不潔な水で自分の左手で洗わなくてはならないという、もう厭だ、これで十分だ、とほとほと後悔し、
「何もかもうんざりだ、カローの街に帰る」、とガイドたちに宣言しよう、と思った瞬間、眼を挙げた先に黒々とした
クロマツの山がみえた。
後ろから現地のガイドが走ってきた。
息を切らしながら、「あの山は日本兵の山とよばれているのです」という。

それがどうした、だから何なのだ。ここが、インパール撤退時の地獄の戦場だったことは昨晩聞いた。
私が驚いたのは、山に木が生えていることだった。しかも鬱蒼としているのである。
ビルマに行ったことがない人は、ビルマの山奥と聞けば、名の知らぬ大木や草が繁茂し、昼なお暗い熱帯の密林で
あると思うだろう。
しかし、そうではないのである。
一帯は少数民族の焼き畑農耕地で、しかも最近は人口激増の結果、苛酷なまでに密林が切りはらわれて禿げ山となり、
雨で山肌は崩れ、実に惨憺たる有様なのである。
ガイドが汗を拭きながら、続けた。
「この一帯の山道は、インパールから撤退してくる日本兵の死体で一杯だったそうです。これから尋ねる少数民族の
人達が峠から下りてきて、日本兵の死体をあの山に一体ずつ埋葬し、その死体一体毎に、クロマツを1本ずつ
植えたのだそうです。そうして全山が、クロマツの森に変わったのです。」
ここが森林なのは、全山が日本兵のお墓なので、決して焼き畑の対象にしないからなのです、あそこは涼しいので、
あの森で、お昼にしましょう、と続けた。
私は黙して歩き続けた。
私たちの父の世代の男達が、何もわからずに、この辺境の地まで連れてこられ、無謀な戦闘に引きずり込まれ、
ただ死んでいった。
その無念さのただ一つの証が、たった一本のクロマツの木なのである。

私にとって、第二次世界大戦は、歴史の彼方にある。
戦争らしい思い出は、戦後の食糧難だけで、それも長じるとすっかり消え、いまや飽食とその結果の肥満をかかえ、
短時間の山登りで息絶え絶えになっている。
贅沢にも2人ものガイドを従え、荷物は総て牛車に積み込み、楽しみだけを求めてきた気楽な観光旅行の最中である。
しかも、わずかな暑さと疲れで、不満タラタラである。
私は何と言う傲岸不遜であるのか。
ここで戦後60年、営々として営みを続けてきた少数民族の人たちは、日本兵たちの無念さを十分に分かり、
その死体を埋葬し、その証にクロマツを植え、しかも乏しい土地の中で、そこだけは日本兵の聖地として決して
焼き畑の対象としないのである。
私が忘れていた戦争が、ここではまだ現実なのである。
日本兵の聖地として、そこに手をつけないという社会的な規制が、未だに脈々として、生き続けている。

森に着くと、旅行中は万一のためにといつも身につけているアーミーナイフを取り出して草を払い、近くにあった
石ころで祭壇を作った。昨晩買ったカローの地酒と缶ビールを供えると、立ちあがって、身を正した。
どのような形式の礼拝をすればよいか迷ったが、2礼2拍手1礼の神道式にした。

終わって振り返ると、若い二人のガイドもまた、直立していた。

昼食はヤンさんが用意してくれていた。
昼食の容器は、ブリキ缶の二段重で、下にご飯を入れ、上に何ほどかのおかずが入っているのだった。それに、
バナナが一本配給された。見た時は量が少ないな、とがっくりしたが、食べてみると、意外と大量ですっかり
満腹した。
腹がくちくなると、元気が出て、又歩き出した。暫くすると、朝方から見えていた稜線が近くなり、何だ、
もうすぐ村じゃあないか、これでは、行くだけで一日を要するというのは大袈裟だったな、とすっかり安心した。
しかし稜線についてみると、何もない。ガイドはここではなく、あと一つ向こうの峠です、という。
目を凝らして見ると、なるほど稜線に豆粒のような黒いものが点在している。
少し急ぎましょう、暗くなるかもしれない、とヤンさんが焦って言う。
私たちは少し足を速めた。
そうすると驚いたことに、水牛たちも足を速めて、何の苦労もなくついてくる。つまり彼らは私の速度に
合わせていたのである。
そればかりか、私のあまりにも遅い歩調に合わせていたので、その分余計に疲れ、むしろ歩調を速めて元気に
なったようなのである。

暫くして、10歳前後の少年僧の一団に出会った。ヤンさんに、この国は信仰が厚いですね、自分の子供を
生涯に少なくとも一度だけは寺に入れて僧侶の修行をさせるそうじゃないですか、と物知り顔で話しかけると、
ヤンさんは、眉を顰めて憂い顔になった。
「この子たちは、多分戦争孤児たちです。」
「戦争?」
「政府軍と少数民族との戦争ですよ、そうでなければ、エイズで親が死んだのでしょう。ビルマはエイズが多い
のです。公立の孤児院がないので、キリスト教の篤志家や寺が孤児院の役割をしています。いまは托鉢の帰りで
しょう。」
私はポケットからビルマの金やらドル紙幣を取り出すとヤンさんに差し出した。「お布施に」というと、
ヤンさんは断り、自分自身でするようにと、少年たちの鉢を指差した。
少年達は、無言で鉢を開き、私からの幾許かの金を受け入れると、合掌をして次々に去って行った。去る姿を
じっと眺めていると、列の最後のひときわ小柄な少年僧の頭が白くなっていることに気付いた。
私が少年のころ罹患した、皮膚病の「シラクモ」だった。

懐かしい思い出が蘇ってきた。
私はシラクモを根絶するために県立病院に通っていたが、そこの係の白河さんという看護婦さんは、私にとても
優しく、いつもにこにこと応対してくれていた。ひょっとしたら私の初恋だったかもしれない。
そうだ、ガイドのヤンさんはあの時の看護婦さんに何処か似ている。私は、そっと、ヤンさんの横顔を盗み見た。