ビルマの少数民族の村にて イマジン (2)昔懐かし佐賀の豆腐 酋長の家は高床式で、二階が一間きりの間仕切りのない大広間になっている。居間、食堂、寝室、作業所、 倉庫その他全ての用途に使用されるとのこと。したがって、我々の寝室でもあるということで、隅に荷物 を置かせてもらった。 一隅には、仏様が祭ってある。 お邪魔しているのだから、とヤンさんが言うので、礼拝の真似事をする。真似事の最中に仏壇を観察 すると、いろいろなものが飾ってある。花や仏画、仏像等など、佐賀の実家の仏壇と同じで、仏壇のない 東京の自宅と比べるとむしろ実家に近く、懐かしい光景である。 中央に大きな囲炉裏があり炭が燃えている。五徳のごときものの上にヤカンがあり、湯を沸かしてある。 リンさんがお茶を入れましょうと、酋長から、お茶の葉をもらってきた。 真っ黒の茶の葉でなにやら薄汚い。リンさんが、それを碗に入れ、お湯を注いでくれた。飲んでみると、 とにかく実に渋い。しかも、碗の中に葉が浮いているので、甚だ飲みにくい。しかし、暫く我慢して 飲んでいると、その渋みの中に、ほのかな甘さがあることがわかった。しかも次第に強くなっていく。 そこで、白湯で口を洗い、改めてお茶を飲んでみた。まず、上唇で茶の葉を遮りつつ、ほんの少し口に含み、 舌の上で転がしてみる。するとまず渋さが舌を刺激したが、しばらくすると、微妙な甘さが口中に広がり、 それとともに、山茶の素朴な香りがのどの奥をくすぐる。しかも香りと甘さが、いつまでも口の中に残り、 とても気持ちが良い。 しかし、碗の中に茶の葉が入っているのはなんとも飲みづらい。実は、ビルマでは茶漉しを使わないと いうのを知っていたので、日本から急須を持参していた。そこで、持参の急須で漉してみると、実に 微妙な渋さと甘さがストレートに出てくる。ただ若干お茶の葉を多くしなければならないようだ。 何度も加減しながら、試していると、酋長が出てきて、急須を珍しそうに見ている。差し出すと 手にとって自分でもお湯を入れて試す。飲んでみて気に入ったのか、にっこりと笑ってくれた。 これ幸いと、リンさんに頼んで、茶の作り方を聞いてもらった。 それによると、葉っぱを摘んできたらなるべく早く、火にかけた大きな鉄の鍋のなかで、茶の葉を 若い女性が素手で揉みながら乾煎りをする、その後天日で乾燥させる、ということらしい。 実に簡便、素朴である。何よりも若い女性が素手で揉むというのが素敵である。日本でも、田植えは 女性に決まっているが同じ意味合いだろうか。 それにしても、こんなに黒いところを見ると、日本茶のように、熱で完全に茶の葉の発酵を止める のではなく、ある程度では止めるのが特徴であるらしい。ある程度というのが、この茶の秘訣なのだ。 中国茶にも、この加熱の程度に応じて様々な種類の茶がある。ひょっとしたら、この茶以外にも、 別の味のものがあるかもしれない。 酋長は、ここではこの茶だけであるが、別の村では樽に詰めて地中に1年間ほど埋めて発酵させ、 乾燥させるという特別の製法もある、という。酸っぱくて甘い独特の味だそうだ。場所を聞くと、 東の山の中だとの答え。リンさんに正確な場所を聞いてもらっても、ただ東の山の中、東のほうだ、 という単純な答えしか返ってこない。地図を取り出して位置を聞いても、ただ方角を示すだけ。 真に頼りない。ひょっとしたら、地図を見たことはないのかもしれない。我々も地図を見たことが ないとしたら、方角しかいえないだろうし、これも止むを得ない。 リンさんが大きな袋状の荷物入れから、飯盒のようなものを取り出した。私は吃驚した。 高校時代にハイキングや登山に使っていた飯盒そのものである。なんというのか、と聞いてみると 『ハンゴー』と答える。ビルマ語では何か、と更に聞いてみる。ビルマ語で『ハンゴー』なんだ という。それは日本語だ、というと、今度はリンさんがびっくりして、日本にもこれがあるのか、 という。私は、もっと驚いた。若いリンさんにとって、これは、大昔からある自分たちの炊事用品 の一つ、なのであろう。それほどにまで、この地方に溶け込んでいる。 恐らく、インパール作戦で敗走中に戦死した兵士の持ち物に端を発するのに違いない。しかし、 それを言うことはあまりにもこの場にそぐわないし、非礼とも取られる怖れがある。私は、 囲炉裏の火を見つめたまま小さく頷くだけに止めた。 リンさんが調理するというのでついていった。 村の真ん中ほどに、谷水を引いている洗い場があった。中央に水槽があり、水槽からは常時水が 流れ出ていて、洗濯、洗身、調理等など、およそ、ありとあらゆることに、使うもののようだ。 40前後の男性がしきりに洗身していた。ビルマ人には風呂という習慣はなく、都会ではシャワー である。田舎では少数民族ならずとも、家にシャワー施設は無い。だから、小川やこのような 水場で、老若男女が盛んに水浴びをする。 礼儀正しいビルマ人は、男女とも決して腰巻をはずさない。男性も、道端で立ちションベンなんて 決してしない。腰巻を引き上げで下半身を人目に曝すなんてことは野蛮きわまると思っていて、 優雅に木陰に座り込み、踝までの長さがある腰巻を利用して、他人には判らないようにする。 ビルマを最初に訪問したときに、私はそれを知らず、道端で立ったままおしっこをしてしまって、 通りがかりの老人からなんと言う無作法な奴め、という凄い目つきで睨まれ、大いに恥をかいた。 それくらいであるので、水浴びも決して丸裸にはならない。男女とも腰巻のままである。男性は 流石に上半身は裸になるが、女性は腰巻を引き上げて胸を隠す。しかし、単なる木綿の薄布なので、 水に濡れると体にしっとりとまとわりつき、若い女性の場合は体の線がすっかり見えて とりわけ美しい。 特に、その姿で長い黒髪を洗っている風情などは、まさに一幅の名画である。ビルマの女性は 年齢を問わず、腰まである長髪を自慢としている。 その髪を、頭をかしげながら実に丁寧に洗い、そして巻き上げる。その巻き上げた髪に、優雅に 季節の生花を挿して飾るのである。生花だから髪に挿しておけるのは短時間であろうが、 その短時間の美しさを誰もが楽しんでいる。 だからだろう。ビルマでは実に花屋さんが多い。いたるところで花を売っている。信号待ち しているタクシーにも花売りが近寄ってくるのも珍しくない。また、運転手も気軽に買って、 バックミラーに吊るしたりする。 その様な国であるので、時として通りすぎる女性が、洗い髪の匂いと南国の甘い花の香りを 振りまいて去っていくことがある。 初老を過ぎた外国からの男性訪問者が、その残り香を楽しむ機会が持てれば、それは、 当地での最も幸せな瞬間といっていいだろう。しかもその瞬間は、かなりある。初老の男性に とっては、幸せな国である。 男性は、水浴びをすぐに終えて場所を譲ってくれたが、暇な人らしく、我々の行動を興味津々と 言う風情で眺めている。 リンさんが、調理をしながら通訳をしてくれる。 本職は大工さんらしい。指差したほうを見ると、木造の家が建築中で、自分の家だという。 あんな素晴らしい家を家族のためになんて、奥さん孝行だなア、と言うと首を振る。 実は奥さんとは離婚したいのだが、酋長が許してくれない、離婚するなら村を出ろ、 といわれている、出たっていいじゃあないか、大工なら何処でも生きていけるだろう、 というと首を振って、とんでもない、とても駄目だ、と額に深刻そうに皺を作る。 家を建てているのも、せめて家だけでも自分の好みにしたいので、念入りに作っている、 家が出来たら、ここに住むのだけを楽しみに、余生を送りたい、のだそうだ。 余生なんてその歳で、いいかけると、リンさんが、少数民族は早死になんですよ、 と口を差し挟んだ。それに、酋長は単なる村長さんではなく、裁判官、警察官、父親、和尚さん などが一緒になったようなもので絶対なんです、反抗できないし、それに酋長の指示に 従っていると、たとえ大工が出来なくなっても村の相互扶助制度の仕組みで生きていける という大きな利点もあって、誰も決して反抗しないのです、という。 税金もない、嫌味な上司もいない、スモッグもない、払うべき介護保険もない、 嫌なものはナイナイ尽くしで美しい風景ときれいな空気、自然そのままの有機農法で出来た 食料だけを食べるのだから長生きするだろうと思っていたが、どうもそうではないようだ。 会った途端に奥さんとの確執を語る大工さんがいるし、酋長は独裁者のようだし、少数民族も 大変だなあ、とリンさんに言ったら、ほくそ笑みながら、何処の世界にもそれ相応の苦労や 悩みがあるものです、この世に天国なんて何処にもありゃしませんよ、と自分の倍もの 年長者である私をからかう。 調理済みの鍋を抱えながら、坂道を登っていくと、小学生ぐらいの少女が家の前で 米を搗いていた。 石臼の中に籾殻つきの米が入れてあり、シーソー状の長い丸太の先につき棒が取り付けられて いて、その反対側を片足で踏んで上下させるのである。江戸時代以前の精米装置そのままである。 イヤ、珍しい、それになんという親孝行な子供であるか、と顔を見て驚いた。唇に可愛らしく 紅をつけ、うっすらとお化粧をしている。此処では、こんな子供でもお化粧をしている、 年頃になったらどうするのだろうね、とリンさんに言ったら、まあなんてことを、年頃の 娘さんではないですか、とあきれられた。 びっくりして、顔をじっと見つめたが、1メートル30ないし40センチ程度しか背丈がなく、 胸もそう発達しているようでもない。どう見ても単なる子供だ。ただ、見つめられて恥ずかし そうにしている風情だけは、確かに年頃のお嬢さんらしい。 ビルマ人は一般に小柄だが、少数民族の人は更に小柄の人が多い。聞くところによると、 ビルマには、今でもピグミー族の一派が生きているという。ピグミー族はアフリカが有名で あるが、ビルマのピグミーは、モンゴロイドに属していて、アフリカとは異なる人種らしい。 ピグミーや少数民族の人を別にしても、ビルマ人は小さい人が本当に多い。私の娘が 中学校2年生のとき現地の中学校を訪問させてもらったことがあるが、同じ学年の子供は、 まるで小学生のように小さく、同じ歳とは到底見えなかった。 両者には、多分、一昔前の日本人とアメリカ人のような違いがあるのだろう。当時の アメリカ人も、日本人を見てそう思ったに違いない。 特に、明治時代の古い写真を見ると、日本人は男女を問わず、誇らしく和服を着ており、 また、それが良く似合っている。まるで現在のビルマ人のようである。古い日本人が 小さくても堂々としているところは、現在のビルマ人が、いつも民族服を着て闊歩している のと、そっくりである。 当時の日本人は、大きな外国人を見て、「大男総身に知恵が回りかね」などと内心思って いたに違いない。それも現在のビルマ人に当てはまるだろう。 夕食は豆腐の入ったスープまであった。まさか豆腐まで持参したとは思えないので、 聞いてみると、果たしてこの村で作ったものという。この村はニガリまで自給自足なのか、 と聞くと、カローという一応の都会でインテリに属し、日本滞在の経験もあるリンさんすら ニガリを知らない。説明すると、半信半疑である。豆腐というものは自然に固まる、それが 本当の豆腐だ、薬品を入れて固めるなんて、邪道だと譲らない。論争しても仕様がないので、 恐る恐る食べてみる。ニガリを使用しないのにやや固めである。しかも甘い。幼いとき 故郷の佐賀でいつも食べていた、あの豆腐の味である。イヤあの豆腐の味よりももっと 丸やかな味だ。東京でいつも食している豆腐とは、まるで違う。 私は急に生が欲しくなった。生の豆腐に醤油をかけ、ご飯の上に乗せてかき混ぜ、 卵ご飯のようにして食べるのである。幼いころの私の好物だった。この豆腐であれば、 ひょっとしたら再現できるかもしれない。 そこで、リンさんにねだってみた。醤油は持参していると。しかし、首を横に振る。 二つの理由がある、という。 一つは、私たちの豆腐はもう全て調理した。余分なものは、ひとかけらもない。たしかに、 私たちが費用を払った豆腐の残りが、それなりにあるのも知っている。頼むと、多分、 提供してくれる。しかしね、これを作るために村人は昨日から準備している。 彼らにとっては、昨日から待ち望んだ、久し振りのご馳走で、あなたが余計に食べれば、 村人の誰かが、その分を我慢しなければならない。そんなことは、させたくないでしょう? 私は粛然とした。 そうだった。私の子供時代もそうだった。私が余計に食べれば、誰かがその分食べるのを 我慢しなければならなかった。それはいつも母親だった。私は十分に納得した。 もう一つの理由は、と言い掛けてリンさんが、優しく微笑んだ。生で食べて、明日、 お腹を壊したくないでしょう、と語尾を上げていう。 私は微笑を返した。