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   ビルマの少数民族の村にて                   
                           
                                  イマジン




(3)村の夜
   
 夕食が済むと直ちに夜が来ました。
電気がないので、部屋は薄暗く、たき火のほのかな明かりと酋長さんの心尽くしの蝋燭だけです。蝋燭がこんなに明るいのか、
と少し驚きました。これなら、本も読めるし、必ずしも電気はいらないですねえ、というような話をしていたら、勿論、
そんなことを言ったのは、あまりに酋長さんが済まなさそうにしているので、大したことじゃありません、
という意味だったのです。
ところが酋長さんがおっしゃるには、近く電気が来るというのです。
えっと驚くと、自分たちでダムを造り、水力発電をする、という説明でした。よくよく聞くと谷川にコンクリートで小さな
堰を作り、そこから10メートルほど水を落として、発電機を回す、のだそうです。
電気で何をするかというと、テレビを買って子供たちに世界を見せてやりたい、ということでした。
山の中なので学校がない、だから子供たちはこの村と山のことしか知らない、子供たちには山を出て新しい生活をしてほしい、
そのためには、外にはもっと違った世界があることを知らせてやらないといけない、学校を作り先生に来てもらうのは無理な
ことだが、テレビなら何とかなる、ということでした。
費用を聞くと、テレビ以外に、発電機が中国製で3万円、コンクリート、電線等を加えても2、3万円で済む、こうして観光客の
相手をしているのも、その費用のためだというのです。
たったそれだけの費用で子供たちがテレビを見られるのか、と思いましたが、しかしそれはもちろん外国通貨の為替の魔法で、
ビルマの小学校の先生の給料は月額3千円、大臣が2万円、首都ヤンゴンのホテルの1泊が2千円、お茶摘みの学生アルバイトの
日給が50円、というような水準でした。当時私は、ヤンゴンで商船大学の機関科の学生に奨学金を出していましたが、
学費と生活費で年額200ドルでした。それで、十分大学に行けるというのです。そのような世界での数万円の出費です。
その酋長さんの長い苦労がようやく実るときが近づいていたのでした。
その方は、割り引いてみても、40歳台の壮年の方のようでしたが、少数民族の方はかなり老けて見えるので、もっと若い方
だったかもしれません。
通訳でもあるヤンさんの方を見ながら私に返す言葉を述べている酋長さんの横顔は、少数民族特有の深い彫と色黒の皮膚に
刻まれた皺が、山奥の厳しい生活をしている人々の指導者としての苦労が、滲み出ているようでもありました。
言葉少なくなった私を気遣ってか、ヤンさんが、酋長さんのお許しが出たので、村人の伝統的な家を見に行きませんか、
と誘ってくれた。

伝統の村人の家は、数十家族が一つの建物に住む集合住宅で、一軒の家が約6畳程度の広さ、真ん中に囲炉裏が切ってあって、
これが炊事場であり、家族のだんらんの場であり、夜の唯一の明かりの場所でもありました。
隣家との境は、腰ぐらいまでの高さの囲いはあるものの、ずっと見通せるような作りでした。家族ごとのプライバシーなど
決してないようなものでした。
また、家族ごとの生活の違いなどほとんどないでしょうから、隠すものもないのでしょう。
ヤンさんと、いちばん近い家に上り込み、囲炉裏のそばに座りました。
ヤンさんが、手提げから大きなお菓子の袋を取り出し、他の家からも子供たちを集めました。飴玉でした。子供たちが、
大喜びで行儀よくヤンさんの周りに座りました。ヤンさんが何を言っているのかさっぱりわかりませんが、子供たちは
おおいに盛り上っています。ゲームのようなことをしているようです。周りの大人たちも子供を囃したり、からかったりして
愉しんでいるようです。
ひとしきり、楽しんでお菓子がなくなると、また囲炉裏の周りに座り込みました。その家には30代後半のおかみさんと、
5、6人の子供がいるようです。乳児もいました。おかみさんの子供なのか、それともあやしている中学生のような女の子の
子供なのかはっきりしません。
この家には、壮年の男性はどうもいないようなのです。そういえばこの村であった壮年の男性は、離婚騒ぎを起こしている
大工さんと酋長だけでした。
この村の家族の形態がどうなっているのか、生活の糧はどうしているのかさっぱりわかりません。聞こうかと思ったのですが、
なんとなく憚られて聞かなかったのが,今思えば実に残念です。
そのうち、おかみさんがどこから取り出したのか、自分の花嫁衣装だといって、きらびやかな服装をしてくれました。
囲炉裏のぼうっととした明かりの中で、花嫁衣装はキラキラと輝き、その時ばかりは、少数民族のおかみさんが、天女の
ように美しく見えました。
その美しさを見ただけでも、この村への1日がかりの旅の報酬としては十分なものでした。



(私も少数民族みたいですね。)

(4)村の朝
 
 ビルマと日本は2.5時間の時差です。そこで、朝は寝坊の私でも、ビルマでは早起き鳥になります。
山にようやく朝焼けが始まったような時間帯におきだし、散歩に出ました。朝霧の中で近くの山林の小道を歩いていると、
40前後の女性と16、7歳くらいの男の子の二人連れが、山刀で盛んに地面を掘っています。母親と息子のようです。
立ち止まって見ていると、男の子が私に自分の山刀を渡して、地面を掘れというのです。指示のあったところを掘ると、
そこには、細長い茸がありました。しかも面白いほど、多量の茸が見つかります。夢中で掘りました。
暫く茸掘りを楽しみ、さあ引き上げようかと思いましたが、実は貸してくれた山刀が実に欲しくなりました。
手作りの木製の鞘を持つ、かなり使い込んだ刃渡り30センチほどの刀です。地面を掘るためにも使うような、少数民族の
ものとしても、粗末なものです。
 何とか身振りで売ってくれと言いましたが、男の子は困って首を振ります。ついに母親が出てきて、同じしぐさをします。
私は値段の問題かな、と思い、刀を地面においてその横にビルマの金を積み始めました。
私は彼らがいいというまで金を積む覚悟でした。
そこで、母親が首を振るたびにビルマの紙幣を積んで行きました。 
するとついに母親が首を縦に振りました。すっかり嬉しくなりました。大喜びで山刀を鞘に入れたり出したりして愉しんで
いると、母親は、意外なことに、私が地面に積んだ紙幣の半分ほどを私に帰そうとするのです。
そんな必要はないので、その代わりにたくさんの茸を貰い受けると、喜び勇んで酋長さんの家に帰りました。
起きだしてきたヤンさんが、これまた大喜びで茸を料理してくれました。
この日の朝食は、それまでの人生の中で、もっとも大量に、しかも最もおいしい野生のキノコ料理を楽しむ機会でありました。