定年後の日々 イマジン (2)晩秋の光の中で ベッドに寝たまま窓の外を見る。 ここに住むようになって一ヶ月が過ぎた。 最初の朝に見た木々の緑が、次第に紅葉してきて美しくなってきている。 とりわけ、銀杏が黄金の如く華やかな黄色に色づき、空気までが黄色くなったと 思わせるような鮮烈な色を示している。 この銀杏の黄色が楓の緋色や樺の木の薄い紅色とマッチして、美しい晩秋の風景を 見せるようになってきた。 しかも、少しの風でハラハラと舞い、思春期のように切ない思いをかきたてる。 巴は10時になると、いつも喫茶店に出かける。11時には店を開け、昼ごはんの客を待つのである。 食事とコーヒーで700円、巴は、サラリーマンにとってはそれが昼食代の限度よねえ、 と云っているが、儲けまで出そうとするとなかなか難しいらしい。しかし、昼ごはんの客は 日中の空いた時間にコーヒーだけでも来てくれるそうで、だから昼ご飯では儲けなくてもいいのよ、 といっている。 一番大事なことは、昼食が毎日食べれるということなの、食べようと思って来て休みだったら 嫌になるでしょう?といってウイークデイは決して休もうとしない。反面、土、日曜日は、 ビジネス街なので殆ど客がいない、ということで休みにしている。 休みの日は、普通は朝も遅く起きてゆっくりしている。大体昼食と朝ごはんが兼用である。 しかし今日は不思議なことに早く起きて、一回のロビーを掃除したり、念入りに昼食を作っている。 一階に下りていくと、ロビーがきちんと掃除され、庭のテーブルに食事の準備がしてあった。 テーブルの周囲には黄金色の銀杏の葉が絨毯のように敷き詰められていた。 少し風が吹くと、更に銀杏の葉が舞い降りて来る。東京のど真ん中なのに、まるで森の中にいるようだ。 呆然として眺めていると、「今日は山岡さんがお出でになるのよ、一緒に昼食を食べましょう」と 台所から巴が声をかけた。 山岡さんは私に不老不死について説明をしてくれた翌日から、姿を見せなくなっていた。巴によると、 ロンドンで仲間の国際会議が開かれており、山岡さんは日本代表として出席されておられたが、 数日前に帰国され、その土産話が聞けるという事だった。 ロビーにもカレーライスの匂いが充満していた。私は少し嬉しくなった。巴はカレーライスが好きで、 よく作っていたが大変美味しいのである。鶏がらを大量に買ってきて屑野菜とともに大きなスープ鍋で 煮込み、それをベースにしてルーを作り、カレー粉も材料をインド料理の食材店に行ってあれこれ 買い込み自分で調合して作るのである。インド風や欧州風とも違い、また和風ともいえない独特の味が 出ており、仲間内では美味しいという事で評判だった。時々喫茶店でも出していたが、一度味わった客は、 次はいつか、と催促する者も少なくなかった。 サラダも上手に作り、特に葉物のサラダは風味のあるドレッシングが絶品で、大量に食べても 決して飽きなかった。 そのサラダがボールに大量に盛ってテーブルに据えてあった。 山岡さんが賑やかにやってきて、昼食が始まった。 ロンドンの議題は、パスポートの取得方法という事だった。 かつては、パスポートは容易に偽造できていたらしいが、最近はコンピューターの整備によって、 なかなか難しくなってきたという。 普通の外国旅行の不自由さは我慢しても、国際会議でも、パスポートを持っているものだけが代表者に ならざるを得ないう事で、困っているという事だった。 そういう中で、日本在住者だけが容易に取得するノウハウを持っており、その説明をしつこく求められたらしい。 確かに不思議だった。戸籍制度がこんなに発展している日本で、全員がパスポートを持ち、しかも、 神社に住んでいない多数の不老不死者が家や土地を所有し、あるいはアパートに住んでいる。 二人の話はなかなか理解できなかったが、日本では、どうも戸籍制度が発達しているから 取得が容易なのであるらしい。 日本の状況は世界でも特殊なので参考にはあまりならず、国際会議では、ワーキンググループを作って、 この問題を更に研究するという事になった、ということだった。 実は私は、ここ一ヶ月、大変困惑していた。 どういうことかというと、私には一円も金が無かったのである。小遣いどころか、下着を買う金すら無い。 巴が下着や替え着は買ってくれたが、小遣いが無いというのは、バスや電車にも乗れないし、何処にも行けない。 まるで、この神社の建物の中に押し込められているような気分なのである。勿論、巴に言えば、幾かの 小遣いはくれるだろう。しかし、三食を食べさせてもらい、着る物も用意してもらい、更に小遣いなんて とても言い出せなかった。 働こうと思ったが、これが不可能なのである。 私には戸籍が無い、学歴が無い、職歴が無い、まるで無い無い尽くしなのだ。 とても雇ってもらえそうなところが無いのである。 パスポートがそんなに簡単に入手出来るなら、戸籍や学歴も何とかならないかと思って、 山岡さんに聞いてみた。 山岡さんは、サラリーマンになるのは難しい、戸籍は何とかなっても、学歴は無理だ、 必ずどこかで同じ学歴の人に出会いばれてしまう、職歴なんてそれこそ不可能です、それよりも自分で何か 事業を起こすことを考えたらどうですか、という。 事業だったら、事業仲間は信用さえ付けば学歴や職歴などは誰も気にしません、起業するのがいい、 資金は仲間の頼母子講で何とかなる、というのである。 私はビックリした。自分で事業を起こすなんてこれまで考えもしたことが無いのである。 それは無理ですよ、私にはそんな才能はありません、としり込みをした。 しかし山岡さんは、しつこく私を説得しだしたのである。 貴方は、自分で事業を始めたら、たちまち失敗し、一家離散し、悲惨な事になる、と思っていませんか。 貴方は、会社が自分を守ってくれたから生きて来れた、と思っていませんか。 貴方は、自分の子供をサラリーマンにしたい、子供がサラリーマンになることが、一番素晴らしい、 堅実な人生なると思っていませんか。 もし貴方が以上三つの質問に一つでも該当するものがあれば、貴方は、現在奴隷なのです。 貴方の奴隷のイメージは、どんなものでしょうか。 足首に鎖をつけて鉄球を引きずっている姿ですか? もしそうなら、それは間違っています。 リンカーンが開放したアメリカ南部の農業奴隷はどうだったでしょうか? 彼らは決して鎖につながれたり、高い塀に囲まれて逃げないようにされていたのではありません。 彼らは、農業主が与える穢い小屋に住んでいたのですが、決して塀には囲まれていませんでした。 如何して逃げなかったのでしょうか。 勿論、逃げても農業主が追いかけてきて捕まえ、鞭で打たれることを怖がっていたという理由もあります。 しかし、それはアフリカからつれてこられた初代の奴隷に限られています。 二代目からは、喜んで逃げなかったのです。 二代目からは、農場で奴隷として働く事がもっとも堅実で、安全で、賢明な生き方であると信じていたのです。 農場で働けば住むところもある、時々農場主が古着をくれる、時々農場主が美味しい牛の内臓やあばら骨を くれる、そして子供達を安全に育てられる、しかも将来について何も心配する必要がない、白人達は 特殊の能力を持っているから農場主で、我々には自分で自分のリスクで生きていく能力はないのだ、 今こうして奴隷を続ける事が、最も素晴らしい人生なのだ、と思い込んでいたのです。 だから、子供達にもそのように教えたのです。奴隷になるように必死に教育したのです。 食べるものも節約して子供達に食べさせ、自分達の余裕の時間を使って農場での奴隷労働が効果的に 実行できるように自分たちの子供を訓練したのです。そして、より優秀な奴隷に育て上げたのです。 初代の奴隷をアフリカで捕らえ、大西洋を船に載せてアメリカにつれてくる事は莫大な費用がかかりました。 初代の奴隷を鞭で打ち、農場で働かせる事は大変な労力と費用を必要としました。だから初代の奴隷だけを 働かせる事は決してペイしなかったのです。大変なコスト倒れになったのです。 しかし、二代目以降の奴隷のコストは殆どゼロでした。彼らは、白人が捨てた牛の内臓や骨を感謝して 喜んで食べ、着なくなった古着を喜んで着て、乏しい食料の中から子供達を次の時代の奴隷として育て、 喜んで奴隷になるように訓練してくれたのです。そこで三代目以降は、奴隷を天職だと思っている 優秀な忠実な奴隷になったのです。 だから奴隷制度は、全体として極めて安価な生産システムになったのです。 どうです? サラリーマンもそうではありませんか? ウサギ小屋といわれてきた小さい部屋で、乏しい給料の中から、子供達を育て、莫大な教育費用を使って サラリーマンになるように訓練していませんか? 自分で事業を起こすなんてとんでもない、そんな事をしたら、今の平和で堅実な生活は雲散霧消してしまう、 自分で事業が出来る人は特殊な人だ、と思い込んでいませんか、子供にもそう言っていませんか。 そうです、貴方はアメリカ南部の奴隷と同じなんです。 南北戦争の結果、奴隷は解放されました。しかし多くの奴隷は、農場にそのまま止まり、以前と殆ど 同じ条件で働き続けたのです。最低生活しか出来ない安い賃金を貰うだけの賃金奴隷となったのです。 何故でしょうか? 彼らはそのような生活が安全で堅実な生活だと信じていたからです。 自分達には、新たな世界で新たな生活をすることは不可能だと思わされていたのです。そこには悲惨な 生活がまっているだけだと信じこまされていたのです。現状が悲惨そのままの生活なのに! そうです、貴方はアメリカ南部の奴隷達がそうだったように、貴方の両親から、家族から、 周囲の総ての人たちから、サラリーマンこそ貴方の天職と思わされているのです。だから怖いのです。 ラーメン屋の親父、喫茶店のママ、自動車修理工場の経営者、新聞配達店の店主、これらの人たちは 貴方よりも優秀で、何か貴方が持っていない特殊な能力を持っていると思いますか? しかもこれらの人たちは、店では貧しい格好をしているかもしれませんが、家は貴方が住むような ウサギ小屋ではありません。食事に行くレストランは、はラーメン屋なんかではありません。 もっと豪華なところに日常的に行っているのです。つまり、貴方よりも圧倒的に多い収入があるのです。 定年もありません。自由にいつでも休めます。嫌な客には、もう来るな、と宣言する自由を持っています。 どうです、この人たちは貴方とは違う別世界の人ですか? 違います。 貴方と同じ能力の人たちなんです。 ただ違うことは、自分で事業を始める事が怖くなかった、というただそれだけのことなのです。 ためしに、彼らに彼らの両親の職業を聞いてみてください。殆どの両親がサラリーマンでないことに ビックリされるでしょう。 そうなんです。彼らは、サラリーマンが天職だ、なんて教えられていないのです。 両親から自分で事業を始める事は怖い事なんだ、と教えられていないのです。 だから,起業することは、なんら怖くなかったのです。 貴方も見たことがあるでしょう?ハリウッド映画で、大西部開拓史という西部劇がありました。 その中で南北戦争の終結時に、農場から黒人少年が出発するシーンがありましたね。 彼は、どこまでも続く道を眺めながら、近くに住んでいて親しかった白人の主婦に尋ねます。 本当にこの道をどこまでも行っていいのだろうかと。 主婦が答えます。 「いいのよ、貴方は自由なのよ」 それを聞いて、少年はきらきら光る目に不安を宿しながらも、勇気を奮って一歩を踏み出します。 最初は恐る恐るでした。しかし、次第に足取りは確かになっていきます。大きく手を振って、 昂然と前方を注視しながら、胸を張って進んでいきました。 事業を起こしなさい。決して心配する事はありません。 貴方は、あんなに悲惨な状況の中で、我慢しながら何十年と働き、会社を大きく してきたではありませんか。 必ず出来ます。必ずやれます。 そのために、まず最初にやることは、一歩踏み出すことです。 一歩踏み出せば必然的に反対の足が動いて更に又一歩前進します。そして、 歩調は確かになっていきます。 さあ、勇気を持って、始めてください。貴方に必要なものはただ一つ、勇気だけです。