女子の職業

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月29日(土)08時35分40秒
  電話交換手、エレベーターガール、タイプライター、スチュワーデスなどありましたね。
名前を変えて残ったスチュワーデス以外の職業はもうなくなったのでは?
 

今日は何の日

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月29日(土)05時31分4秒
  1890年明治23年の今日当時の逓信省が女子の電話交換手の募集を始めた。  

碇様

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月29日(土)04時59分3秒
  投稿ありがとうございました。テレビで私が見たのは「鍋島閑叟公」の事でした、私、浅学菲才にて
佐賀の偉人、先駆者については殆ど知りません。ご教示ありがとうございました。では失礼します。
 

碇民治様

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月28日(金)22時45分35秒
  こんばんわ。
俳句の碇様ですね。
明治の佐賀の偉人についてよく調べておられますね。
敬服いたしました。

碇様が投稿されました、佐賀8賢人の一人枝吉神陽の親戚の方が私の家の近所に住んでいらっしゃいました。
そこの娘さん(名前は忘れました)は私と同級生でした。
そういうことを思い出しました。
 

失礼な投稿

 投稿者:碇 民治  投稿日:2018年 9月28日(金)18時19分49秒
  関西のヒマジン 様
沼南ボーイ   様
かってながら不可解「遙かなる木霊へ」な投稿をしました。真におわびします。
不可解な投稿をしましたのは先日に「10代藩主鍋島直正」を放映しましたの
「遙かなる木霊」お聞きしました。平成22年我々佐高11回生の同窓生は
「50周年記念同窓会」を開催しました。
その時に斜光13号を発刊しました。その際に「佐賀偉人百人」を投稿致しました。
「佐賀偉人百人」は佐賀城本丸に看板を備え付きました。
その時、良いネタであると思い早速資料を集め、幸いビデオ購入したので、
10回ほど佐賀城本丸の看板を撮りました。資料はA4版で52枚で作成しました。
資料はCDにに保存しました。失礼ながら御両人に参考になるのではと淺はかな思いつき
早速CDをコピーしたので投稿しました。残念ながら要領不足となり
失礼ながら木霊の管理者東内夫人に全文メイルを依頼しました。
御両人にメイルを送信お願いしました。
突然、投稿を深くお詫びします。                        碇拝。
 

佐賀偉人百人

 投稿者:碇 民治  投稿日:2018年 9月28日(金)16時51分39秒
  10代藩主鍋島直正
関西のヒマジン 様
沼南ボーイ   様
10代藩主鍋島直正の放映され映られたそうです。10代藩主鍋島直正
先代藩主直堯の奢侈・贅沢の為、長崎警備等の負担も多い、その財政破綻寸前の状況にあり、
役人は8割も削減など出費を減らし、登記・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注いだ。
側近の意見を聞き藩財政改革を諸改革を断行しました。教育制度の改革は多くの人材を育成しまた。
教育係の古賀穀堂に基づき藩校・弘道館を充実させ、弘道館における教育の徹底は全国に拡がった
医学教育の改革に進め、漢方医学をかえ蘭方医学に取り入れ佐賀藩の「洋学」も取り入れました。
「蘭学」だけにとどまらず、イギリスの西洋の最新の学問、英語を学び「洋学」もとりいれました。
「蘭学」から洋学に研究にすすみ医学だけでなく、西洋の軍事技術や化学技術をまなんでいくことにより
佐賀藩は幕末の雄藩として大きな存在になりました。
火術力を置き、1852年洋式鉄製の大砲を日本では、はじめて製造するなど、軍備の強化につとめた。
余談ですが、小生、関東に就職しました。佐賀人である私に
「佐賀人が歩いた後はペンペンペン草も生えない」を思いガケ呼ばれました。
直正公は如何に倹約された痛感しました。
平成22年 「佐高11回生の50周年同窓会」を開催しました。
佐賀城本丸に「佐賀偉人100人」の看板を見ました。良き題材を見つけました。10回ほどビデオをとりました。
その年「佐賀偉人100人」を斜光に投稿しました、「貴重なる「遙かなる木霊」を拝借します。

BB.維新前後の活躍した人々八賢人(7賢人に枝吉神陽を加えた)
①-1.鍋島 直正(別称閑叟(かんそう)) 1815年(文化11)~1871年(明治4)
鍋島斉直の17男1830年(天保元年)佐賀藩の10代目当主となる。佐賀藩は、長崎警備等の負担も重く、さらに先代藩主の奢侈・贅沢の為、その財政は破綻寸前の状況にあり役人を8割削減するなど出費を減らし、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注いだ。
1835年佐賀城の「二の丸」の火災をきかけに側近の意見を聞き藩財政改革をはじめ強行な諸改革を断行しました。教育制度の改革は多くの人材を育成した。直正公の教育係の古賀穀堂の改革案に基づき藩校・弘道館を充実させ弘道館における教育の徹底は全国に拡がり、すぐれた人材を生みました。医学教育の改革に進め、漢方医学をかえ蘭方医学にとりいれ佐賀藩の「蘭学研究」は大きく進み「蘭学」だけにとどまらず、イギリスの西洋の最新の学問、英語を学び「洋学」もとりいれました。蘭学から洋学に研究はすすみ、医学だけでなく、西洋の軍事技術や化学技術を学んでいくことにより佐賀藩は幕末の雄藩として大きな存在になりました。火術方を置き、1852年(嘉永5)には洋式鉄製の大砲を日本ではじめて製造するなど、軍備の強化に努めた。1853年(嘉永6)直正は35才の時、マシュー・ペリーが来航し江戸幕府老中阿部正弘が各大名に意見を募った時、直正は武力外交に対し、強く攘夷論を唱え、品川台場建設(台場とは大砲を発砲する設備)に佐賀藩の技術を提供し、老中から信頼を得た。
 開国以前から蜜貿易で利益上げていたとされるほど貿易の重要性を知り、イギリスの親善外交に対し、開国論を主張する。直正公自らの質素倹約と経営手腕を商人たちに「ソロバン大名」と呼ばれ、『葉隠』に表される保守的な風土にいながら、当時は医者の学問と侮蔑されていた蘭学を「蘭癖大名」と呼ばれたが強引に推進し、日本初の鉄製の大砲を製造に成功した為佐賀藩は東洋一の軍事力を持つに至った。激動の中央政界では、幕府、朝廷、公武合体派のいずれとも均等に距離を置き政治力・軍事力ともに行使しなかったため、「肥前の妖怪」と警戒され、御所会議など中央政府で発言力を持ちました。明治4年という明治維新新政府が始まり間もなく世を去り
肥前勢力は中央で薩長閥に比べて相対的に小さくなった一因でもある。
明治政府が近代化進める上で、直正が育てた人材の活躍は大きく、直正自身も議定に入り大納言の位を与えられ、廃藩置県に知藩事(大政奉還後の藩主)として最初に賛同した。
明治2年蝦夷開拓総督を命ぜられ、旧藩士島義勇らを開拓御用掛に登用、7月に初代開拓使長官に就任したが、蝦夷地へ赴任することもなく8月大納言に転任した。幼少の頃は小作人の村、農村に育ちました。目上の方は「鍋島のとんさん」と呼び、驚くほど人気がありました。その農業の改革は商人たちは、担保として手にいれた土地をあつめ「地主」となり自然災害や不作がつづくと、農民たちは土地を質にいれて金を借りたり、商人に安易に土地を売ってしまい「小作人」になり農民は非常な負担となって苦しんだその対策は佐賀藩は「農商分離という」商人たちが農村で農民たちを相手に活動をすることを「小作料」をきびしく規制しました。幕末には全国各地で、たくさんの農民一揆がおこったが、佐賀藩は農民一揆は一切おきなかったといわれます。直正公は明治4年1月18日、藩邸にてコレラの病いに没しました。見事に藩財政改革と諸改革に達成し、佐賀藩は日本を雄藩と成し遂げました。(詳しくはおわりを参照下さい)
①-2.江藤 新平 1834年(天保5)~1874年(明治7)
司法権の独立を実現した初代司法卿、佐賀城下八戸村に生れる。16歳で弘道館に入学初等中等は成績優秀だが困窮のため上級科に進めなかった。枝吉神陽の私塾に学ぶ、尊攘派に傾倒した為暫らく蟄居した。15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い幕府は消滅した。1867年(慶応3)の12月に蟄居を解除され、郡目付として復帰する。薩摩藩、長州藩は公家の岩倉具視と結び1867年(明治元年)王政復古の大号令を行い、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し、江藤は副島種臣とともに京都に派遣される。文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると1872年(明治5)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。その間に学制の基礎固め・市民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。三権分立の導入を進める江藤に対して、保守派から激しく非難された。
『下野から佐賀戦争まで』(詳しくはおわりを参照下さい)
1873年(明治6)朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した明治6年政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野後1874年(明治7)1月に愛国党が結成され、民撰議員設立建白書に署名。副島、後藤らの帰郷を説得もかからず、離京。すぐ佐賀へ入らず、長崎の深堀に着き様子を見た後、佐賀へ向い憂国党の島義勇と会談を行い佐賀征韓党首領として擁立される。征韓党と憂国党は仲違いしており、江藤は反乱に積極的でなかったが、両者は江藤は帰郷により共同して反乱を計画する。2月16日夜、憂国党の暴発から武装蜂起。政府軍の仕掛けにより佐賀戦争は大久保利通率いる政府軍に短期間のうちに敗れ敗走。鹿児島に隠棲中の西郷隆盛、高知の林有造、片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くが、いずれも容れられず岩倉具視への直接意見陳述を企画して東京への上京を試みる。その途上の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛、佐賀へ送還される。手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年に確立したもので、皮肉にも制定者本人が被適用者弟1号ともなってしまった。江藤は急設された佐賀裁判所で、梟首(きょうしゅ:さらしくび)された写真を撮られ全国の県庁で掲示され、その写真は現在も残っている。
①-3.大木 喬任(たかとう) 1832年(天保3)~1899年(明治32)
近代教育の基礎を築いた初代文部卿。佐賀城下南堀端に生れる。弘道館に学ぶ。明治維新において岩倉具視と江藤新平連名で江戸を「東京遷都」を新政府に提出し、日本の首都が京都から東京に移されると東京府知事に任命される。1871年(明治4)には文部卿となって近代教育制度の確立に力をそそぎ、やがて参議、司法卿をつとめた。征韓論争に破れ多く
の佐賀出身者は下野したが、大木喬任と大隈重信は新政府にのこり新国家の確立に尽力した。
①-4.大隈 重信 1838年(天保9)~1922年(大正11)
佐賀城下会所小路に生れる。弘道館、蘭学寮で学んだ。1888年(明治21)に外務大臣に就任し、諸外国との条約改正にすすめたが、その交渉条件をめぐって国粋主義者にの反発をうけ、爆弾を投げられて右脚を失った。1898年(明治31)板垣退助と組んで日本初の政党内閣・第1次大隈(隈板)内閣を成 立させ、さらに1914年(大正3)に第2次大隈内閣を成立させ、日本の政党政治の大きな足跡を残した。今日の早稲田大学の前身である東京専門学校の創立者です。御存じの佐賀県出身の総理は現在までの唯一です。
①-5.島 義勇(よしたけ)  1822年(文化政5)~1874年(明治7)
佐賀城下精小路に生れる。弘道館で枝吉神陽に学んだ。  札幌の基礎を作った北海道開拓の父と呼ばれた。1869年(明治2)新政  府の藩主鍋島直正が蝦夷開拓督努になり蝦夷地に通じるということで蝦夷開拓御用掛に任命され、同年7月に開拓使首席判官に就任、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌を本府(首府)と決め、建設に着手する。ほぼ無人の原野であった札幌に「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き、京都や故郷佐賀等の城下町を念頭に置いて、碁盤の目のような整然とした町並みを目指し工事が進める。厳冬極寒の雪国での都市建設は多額の費用と労力と困難を要し、初代開拓使鍋島直正の後を受けた東久世通禧開拓使長官とも衝突し、翌年1月、志半ばで解任される。3月帰京後、大学少監に昇任。さらに明治天皇の侍従を努め1871年(明治4)秋田県の初代権令(知事)となる。翌明治5年3月秋田県庁が開庁すると同年6月に辞任1874年(明治7)江藤新平と共に佐賀戦争に敗れ、明治7年4月梟首(さらし首)に処された。
①-6.副島 種臣 1815年(文化11)~1871年(明治4)
  佐賀城下南堀端に弘道館教授枝吉南濠の次男として副島家を継ぐ、兄は枝吉神陽である。弘道館のち京都・長崎で学ぶ。新政府は外務卿として、マリア・ルイス号事件、清国皇帝謁見問題で手腕を示すが明治6年の政変で辞職したが清国の同治帝に謁見(えっけん)するにあたって、従来の中国の習慣である床にひざまづく拝跪(はいき)の礼の形式を拒み、立ったまま礼をする立礼によることを要求しました。清国側は拒否したが、種臣の説得によって結局、立ったまま三度の礼をする「三揖(さんしゅう)の礼」によって同治帝に謁見することになりました。種臣がとったこの行動は、傲慢で強権的なおこないであると非難する見方もあり、種臣が、清国に朝貢する属国の使者がとる拝跪の礼を拒み、対等な近代国家同士の外交関係であることをしめす立礼を実現させたことは、西洋諸国の外交官たちからも大きな称賛をうけた。また種臣の中国の古典や誌文にかんする深い教養と知識は、清国の高官たちに大きな驚きを与え、尊敬をうけました。翌年、同志らと民撰議院設立建白書を政府に提出した。のちに種臣は明治天皇の待講として書物を講じました。さまざまな方面に強い影響力をもっていた種臣は、政府の有力者から警戒され、身辺を監視されていたので待講をやめさせようちう動ききもありました。種臣は待講を辞職決心をしたころ明治天皇じきじきの手紙をもった使者が種臣の家をおとずれました。当時、天皇の直筆の手紙をもらうなどということは,例のないことだそうです。種臣はかしこまって、辞職を思いとどまったといわれます。種臣の貧乏ぐらしを耳にした明治天皇が、特別に大金をたまわったところ、種臣は天皇に深く礼をのべたあと大金を辞退しました。驚いた天皇が理由をたずねたところ、種臣は「名君というものは万民を平等に愛するべきであって、私ごときを特別あつかいするべきではありません。この金は災害に苦しむ人民のためにおつかいください」とこたえたそうです。一方、蒼海(そうかい)の名で、書家としても有名である。
①-7.佐野 常民 1823年(文政5)~1902年(明治35)
    下村三郎左衛門の5男として肥前国佐賀郡早津江村に生れ、唐津藩佐野常微の養子となる。佐野常民は1868年(慶応3)にパリ万国博覧会を視察したとき、アンリ・デユナンが創設した「国際赤十字社」の精神にふれ、1877年(明治10)に「西南戦争」がおきると「博愛社」(のちの日本赤十字社)の設立を提案し、政府軍と反政府軍の区別なく負傷者を救護にあたりました。また佐野常民は、1870年(明治3)兵省兵部兵部少丞に就任して日本海軍の基礎作り尽力す一方、1873年(明治6)にはウイーン万国博覧会事務副総裁に就任して日本の近代化に貢献した。大阪で伊東玄朴から医学・蘭学びました。大蔵卿、老院副議長、枢密顧問官、農商務大臣などを歴任。
①-8.枝吉 神陽(しんよう) 1822年(文政5)~1862年(文久2)
佐賀郡今津(西与賀町)に生まれる。父は弘道館教授枝吉南濠(なんごう)の長男として生れる、次男は副島家の養子となった副島種臣である。神陽の尊王論は父の影響が強かったようである。神陽はコレラの病で40才で早く亡くなりました。記憶力に優れ、見るもの聞くもの、すべてたちどころに頭に入り所謂明治の神童です。弘道館でももちろん成績優秀であったので江戸に出て昌平黌に学ぶ。帰藩後は弘道館で国学を教えたが尊王論を大いに説いたが、他の教授に嫌われたようだ、しかしこの尊王論に傾倒した若者も多数いた。1850年(嘉永3)年義祭同盟を作り、尊王論を説き、江藤新平、大木喬任、大隈重信らの人材に影響を与えた。1858年、弟種臣を京都に遣わし、公家に朝廷の権限回復を説いたが、実らなかった。『佐賀の吉田松陰』という人も言われます。
補足:サガシキ名経営者枝吉順佑会長(3年13組卒)は神陽の直孫です。
◎ 義祭同盟とは
神陽は昌平黌に学び尊王思想家の藤田東湖や尊王攘夷論者頼三樹三郎らと交わり「尊王思想」を抱くようになった。佐賀に戻り弘道館の国学と史学の教授となり、1850年後醍醐天皇に忠誠をつくした楠木正成敬い祀る(うやまいまつる)「楠公義祭同盟」を結成した。神陽は弘道館の主流である朱子学の教授から反発され、弘道館を辞めることになるがこの「楠公義祭同盟」には神陽の実弟副島種臣をはじめ、島義勇、江藤新平、大木喬任、大隈重臣、久米邦武など弘道館の優秀な学生たちが神陽をしたって参加しました。「尊王思想」とは「天皇」を日本の中心として尊ぶ(たっとぶ)という考えで天皇のもとに万民平等の国にするべきである主張する考えです。
 

9月27日の朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月28日(金)05時49分55秒
  「原発も相撲に負ける平和かな。」(新聞一面トップは伊方原発運転差し止め訴訟を退けて、貴乃花親方の引退表明の記事)  

今日は何の日

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月28日(金)05時37分52秒
  1977年昭和52年の今日ダッカで日航機が日本赤軍に乗っ取られいわゆる日本政府は「超法規的」解決ーーー人質開放ーがなされた。  

脳の活性化3

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月27日(木)18時01分47秒
  引き続き引用します。

トレーニングを実践することではじめて、前頭前野の「体積が増える」とありました(脳の活性化1参照)。
脳が頭の中で大きくなるということなのでしょうか?
ことの経緯を含め、解説していきます。

私たちは、脳の加齢現象に歯止めをかけるために、高齢者の脳が実際にどのように変化していくのかについて、MRIを使って測定をしました。

前頭前野は前頭葉の一部、と説明しましたが、より細かく見ていくと前頭葉を含む大脳全体の表面に広がっている、神経細胞が集まるタンパク質の層「大脳皮質」の一領域です。
大脳皮質は、各領域ごとに特定の機能をもっています。
そのなかで前頭前野は、記憶、注意、予測、意思決定や判断など高度な精神活動を行う領域だということは、すでにお伝えしていますが、MRIでは大脳皮質の厚みも計測することができるのです。

大脳皮質の厚みは8~10歳頃をピークに、そこから先は薄くなるばかり。
20歳ごろまでの減り方は整理統合(調整)とされていますが、以降は老化によるものと考えられています。
いずれにしても、自然なこととされていましたが、のちに「動作をトレーニングすることによって、ものの動きを感じる脳の体積が増える」という論文があらわれました。

目に見えない脳の変化が、目に見えて起こったことに対するはじめての論文が出たことから、私たちの研究も、「前頭前野の体積を増やす」方向に舵をきりました。
そして、「脳トレ」で前頭前野の体積が増えることを、ネズミを使った実験で証明することに成功したのです。

体積が増えるとは、神経細胞の活動を支える代表的な栄養分「BDNF(脳由来神経栄養因子)」の量が増えること。
神経細胞間で情報を送り合う神経線維が長くなったり枝分かれが増えたりして、前頭前野の神経回路がもっと複雑になり、より働きやすい脳に変化していくことなのです。

(まとめ)

● 脳自体の大きさが大きくなるわけではない。
● 体積が増えるとは、神経回路が複雑になること。
● より働きやすい脳になる。
 

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月27日(木)15時04分4秒
  「世渡りは習わなかった御曹司。」(貴乃花親方引退届)  

鍋島閑叟

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月27日(木)10時41分13秒
  NHKBSプレミアムの再放送番組で、鍋島閑叟の凄さ、偉大さを再認識しました。
出演者の一人、歴史学者の磯田道史氏は当時の文献を調べていくうちに、鍋島閑叟率いる肥前藩の文明が他藩に比べ突出していることがわかり、「世にいう薩長土肥ではなく肥薩長土ではないか」と言っていましたね。
氏は最近「日本史の内幕」という本を出しています(図書館に予約中)。

今放映中のNHK大河ドラマ「西郷どん」を見ていますが、戊辰戦争でどのような形で、肥前藩が出てくるのか注目しています。
 

鍋島閑叟

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月27日(木)08時56分41秒
  bsプレミアムで今再放送を見てます。鍋島閑叟です。大納言までなったのですね。先憂後楽の言葉を愛した。佐賀藩の技術力は当時抜きんでていたのですね。それよりも人間、大隈重信とか副島種臣などが衣鉢を継いだのですね。関西のヒマジン様お知らせありがとうございました。  

台風

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月27日(木)08時09分21秒
  台風24号が日本列島を横断し、近畿を直撃しそうです。
二度あることは三度ある。
もう、うんざりです。
 

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月27日(木)05時33分45秒
  1945年昭和20年の今日、昭和天皇とマックアーサとの第1回会見。  

9月21日の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月27日(木)05時29分46秒
  「何それと社会通念嗤う阿蘇。」(噴火リスク社会通念上許されると広島高裁)伊方原発の差し止め訴訟。  

初冠雪

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月27日(木)04時50分26秒
  富士山の昨日初冠雪が観測されたと報道された。例年より早いと報道されている。季節は確実に移っている。  

脳の活性化2

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月26日(水)20時30分58秒
  引用を続けます。

「活性化」という言葉自体には「機能が活発になる」という意味があります。
目には見えない頭の中の動きを、どのように計測しているのかというと、脳血流の変化を特別な装置(fMRIや光トポグラフィー)を用いて見ていきます。

例えば、3+5などの計算問題を解こうとするときには、主に前頭前野の細胞が働きます。細胞が働くためには、酸素とブドウ糖が欠かせません。
脳は、前頭前野に酸素とブドウ糖を急いで届けようとして、前頭前野内の血流を局所的に速め、盛んにします。

その変化が見て取れた場合に、活性化していると判断するのです。

つまり「活性化」とは、局所的に血流が速くなっている状態を指しているだけ。
それ以上でも以下でもありません。

活性化自体に特別な意味はないけれど、脳を鍛える目的でトレーニングをする場合、活性化した状態で行ったほうが効果が出やすいというわけです。

繰り返しになりますが、私たちの目的は前頭前野を活性化させることではなくて、鍛えることです。
活性化した状態にするだけでは、脳の機能は上がりません。
活性化は脳トレ効果を高める手段だということを、ここでしっかり把握しておきましょう。

{まとめ}

●活性化とは、脳の血流が盛んになっている状態を指す。
●活性化したからといって、脳は鍛えられるわけではない。
●活性化した状態で脳トレを行うと、効果が出やすい。
 

今朝の川柳」

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月26日(水)07時50分58秒
  「さぁどんな嘘言が聞けるか楽しみだ。」(日米首脳記者会見)
「タイガーの爪の垢でもタイガース。」(タイガーウッズ通算80勝歴代2位)
 

脳トレ

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月25日(火)10時01分34秒
  旅人ーMさま
問1、問2ともに正解です。
早々の回答有難うございました。
旅人さんの脳は活性化していますね。
 

≪脳トレ≫に・・・挑戦・・・ 

 投稿者:旅人ーM  投稿日:2018年 9月25日(火)09時06分51秒
  『しりとり』・・・『熟語』です。

問1・・・≪感情≫・・・≪情報≫・・・≪報告≫・・・≪告白≫
     答・・・『情』と『告』でつながりましたね。

問2・・・≪訓練≫・・・≪練習≫・・・≪習字≫・・・≪字幕≫
     答・・・『練』と『字』でつながりましたね。
 

脳トレ

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月25日(火)08時19分1秒
  二字熟語のしりとりです。
□に入る漢字は何でしょうか?

問1
感→□→報→□→白

問2
訓→□→習→□→幕
 

脳の活性化1

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月25日(火)07時58分53秒
  物忘れが多くなった、とか新しいことが覚えられないなどの現象は私だけなのか、と思った時期がありました。
同世代の人たちとの会話の中で、程度の差はあるかもしれないけど、加齢とともに皆が経験することだと分かりました。

以下、脳科学者で東北大学加齢医学研究所所長の川島隆太氏の「頭の体操」から引用します。

「脳科学でわかった!こうすれば、脳は鍛えられる」
数字や文字といった「記号」を処理することが、最も前頭前野を活性化させることがわかりました。
難解な数字を解いたり、難しい字を書いたりする必要はありません。
あわせて、かんたんであればあるほど効果的であることもわかりました。

勘違いを生みやすいのですが・・・活性化とは、脳を鍛える第一歩にすぎません。
運動でいえば、血流を促し、全身をあたため、ほぐす準備体操のようなものです。

準備体操だけを繰り返していても競技成績は上がらないのと同じで、計算や音読をただ繰り返し行うばかりでは、脳を鍛えることにはなりません(とはいえ、活性化なくして脳を鍛えることは不可能ですから、軽視はできません)。

長い時間、使われることなく休眠状態にあった前頭前野を、準備体操で目覚めさせたところからが、本当の頭の体操です。

活性化した状態で「回転速度」を速めて「作業領域」を大きくすること。
2つの方向から脳を鍛えていくことではじめて、脳の前頭前野の体積を増やすことが可能です。
 

今朝の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月25日(火)05時40分9秒
  「道楽のカレーが旨いラーメン屋。」(店主復権)
「変えなくて良かった駅名都立大学。」(東横線)
 

今朝の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月25日(火)05時34分26秒
  「由実薫水原弘大村崑。」(昭和の看板)  

作品集掲載

 投稿者:ひまじん  投稿日:2018年 9月24日(月)23時43分48秒
  碇 民治様の「俳句を詠みました」を作品集の俳句・短歌のジャンルに掲載させていただきました。

  謝々。
 

名月

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月24日(月)23時14分33秒
  下手ですが
 

碇様

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月24日(月)22時48分49秒
  コメントありがとうございます。昭和38年から40年にかけて「窓の梅の操業家」古賀さんの家作を借りてすんでたことがあります。ホテルオオタニから佐賀西高校を望んだ土手でした。佐賀高校のプールや体育館の歓声がよく聞こえていました。  

俳句を詠みました

 投稿者:碇 民治  投稿日:2018年 9月24日(月)13時57分12秒
  トト様のお濠端を散策を拝読しました。

沼南ボーイ様 毎日川柳投稿されよく続き詠み続き『語彙の奥深さ』尊敬します。

10年前 小生車椅子を歩き1区を詠みました。駄句ですがお詠み下さい。

楠青葉 庁舎の浦は 我が母校          以上


 

佐賀市の散策

 投稿者:トト  投稿日:2018年 9月24日(月)12時53分34秒
  一昨日、佐賀で御堀端を散策しました。御堀端の散歩道はよく整備されていて、そこかしこに、数百年は有ろうかというクスの大木が、思いでのとおりに残っています。御濠の蓮も復活していて、目を凝らしてみると、ハスの実の房が、誰も取らないのでしょう、一杯ありました。

むかしの佐賀大学の辺りは、博物館と美術館があり、懐かしの赤松小学校は歴史記念館に代わっていましたが、鯱の門はこれまた思い出通りにド~ンとそびえていました。赤松小学校は対岸の城南中学の跡地に移っています。

佐賀大学のころは、夏になると大学のプールが一般の子供にも開放され、私はそこでよく泳いでいましたが、今はどのあたりだったのか、さっぱりわかりません。

しかし、博物館の中にある喫茶店で、ジュースを飲みながら、辺りを見回していると、懐かしさがどっと押し寄せてきました。

佐賀は、地方都市としては、大いに元気になっていくようです。先日の基準地価の発表でも上昇傾向を示していました。市内は、とても美しくなって、整備されているようです。市長さんは秀島さんという方で、高校・大学とも同窓で、この方がおおいに苦労して努力されているようです。

むかしの佐高の西側の小路ををあるくと、塀のそばの小川では昔通りに清流が流れ,なんと30センチもあるような大きな鯉が悠々と泳いでいました。

佐賀ではお彼岸ということで、佐賀県庁に勤める甥と墓参りをしてきました。墓参りの後、私同年配の住職さんの奥さん、大黒さんというのでしょうか、お茶をごちそうになりました。先代の住職さんの思い出話などを少しして、最期にお礼を申し上げて辞しました。

甥は50才、食事をしながら仕事ぶりを聞くと、現役の県庁マンらしく、佐賀の状況を色々と話をしてくれました。ちょっぴり現役の公務員を羨ましく思いました。

帰りの飛行機は、シニヤということで、1万5千円強、歳を取るということは何もいいことはないのですが、交通費だけはいいことづくめです。全国どこに行ってもこの値段で行けます。またJRは3割引き、助かっています。
 

飛行機から見た虹

 投稿者:トト  投稿日:2018年 9月24日(月)12時26分24秒
  昨日、佐賀から帰る飛行機の中で眼下の雲をみていたら、その雲に飛行機の影が映っていて、更にその周りに、円環の虹が見えました。丸い虹を見たのは初めてでした。驚きました。  

ひまじん様

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月23日(日)14時27分30秒
  町内自治会のお世話ごくろうさまです。私を含めて老人にはありがたいことだと感謝してます、朝刊の俳句ではないけれど、「人生はこれからといふ敬老の日」の心境です。  

敬老の日

 投稿者:ひまじん  投稿日:2018年 9月23日(日)10時23分42秒
  先週土曜日に、南榎町自治会で70歳以上の方たちに敬老の品を配りました。

いつもはわが家の家の前にブルーシートを敷いて、それぞれの部ごとに仕分けするのですが、その日は
雨だったので、我が家の駐車場で行ないました。

南榎町には、70歳以上の方は202名おられます。自治会に入ってない方もおられますので、もう少し
多いと思います。敬老の品はカステラで、ご夫婦のところはカステラと羊羹です。

部は21部あり、その部の理事の方が取りに来られ配布していただきます。ところが、今年新しく理事に
なった方は忘れておられたり、配布することを認識されていなかったりで、1部だけ次の日まで待っても
取に来られず、私がキャリーカートに段ボールを積んで配りました。

また同時に、赤城神社の秋祭りで小学生以下の子供たちにお菓子の詰め合わせも配ります。
小学生以下の子供たちは90名です。
昨年までは、近くのローソンのお店に頼んで、お菓子の詰め合わせを作っていただいてたのですが、
今年の2月にお店を閉められたので、自治会の会計監査をしている方のお世話で、今年はハロウィンの
お菓子の詰め合わせにしました。神社でハロウィン(?)という方もおられましたが、今年はそれでいこう
ということになりました。
カステラと羊羹とお菓子の詰め合わせを配るので、理事は結構大変です。
 

朝日俳壇より

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月23日(日)09時34分54秒
  「人生はこれからといふ敬老日」 (高齢を祝う敬老の日言われながら人生はこれからと胸を張る元気な作者)  

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月22日(土)08時11分27秒
  「進次郎祭りの後に笛を吹く」(遅かりし)  

今日は何の日

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月22日(土)05時32分11秒
  1862年の今日リンカン大統領が奴隷解放宣言をだした。翌年1月1日から実施された。  

朝日新聞の社説より。

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月22日(土)05時09分34秒
  9月21日n社説より抜粋。公文書を改竄してまで事実を隠蔽する官僚、このような政治を正さねば悪しき忖度モモラルの低下も歯止めが利かなくなる。その悪影響は社会の「規範意識」をむしばみかねない。問題の棚ざらしは許されない。  

葛飾柴又

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月21日(金)08時54分11秒
  北海道旅行は北海道の震度7の地震のため取りやめたことは既に投稿しました。
旅行は行きは羽田から東京の仲間と一緒に乗ることにしていました。
新幹線の東京行きはキャンセルをせずに、仲間と一緒に葛飾柴又へ行きました。
柴又では人工透析のため、3年前から一緒に旅行ができない、千葉の仲間も参加しました。

写真
寅さん おう、雨の中よく来たね 元気!
私   今日はあなたに会いに神戸から来ました。
寅さん ご一緒したいけど、この姿だからねぇ、どうにもならねぇえや。

 

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月21日(金)06時17分43秒
  「チコちゃんよ何故三選か教えてよ。」(地方党員票大幅な伸び健闘)  

今日は何の日

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月21日(金)05時42分45秒
  1934年昭和9年の今日室戸台風が上陸した、912hp(ヘクトパスカル)の超大型台風であった。  

今朝の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月21日(金)05時38分0秒
  「三選は終りの始まり次はない。」(厳粛なる事実)  

ベルリンマラソン

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月20日(木)18時27分16秒
  ベルリンマラソンで驚異的な世界新記録(2時間1分39秒)が出ましたね。
過去、ベルリンマラソンで新記録が続出しています。
よほど走りやすいコースなんでしょう。

時速約21キローー驚異的な速さです!

マラソン1時間台の時代がやってくるかも。
 

総裁選の結果

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月20日(木)16時58分23秒
  現職の安部さんが」勝った。しかし楽勝ではなく石波さんもかなり健闘したと思う。これからの政局がどうなるか、注目していきたい。  

今朝の諧謔

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月20日(木)15時56分48秒
  「世界最高記録更新」(ベルリンに壁は無い、---マラソン)  

銀河鉄道の父

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年 9月20日(木)06時43分51秒
  私は宮澤賢治の「雨ニモマケズ」という詩が好きです。
昨年発行された門井慶喜氏の直木賞受賞作「銀河鉄道の父」を興味深く読みました。

岩手が生んだ天才宮澤賢治と父政次郎親子の愛情あふれる物語です。
父と子は時には対立するが根底には深い愛情がある。
親子愛そして家族愛。
花巻の質屋の家に生まれ金銭的に恵まれた賢治は多くの詩や童話を作るが、世の中に認められない。若くして結核を患い父母を残してこの世を去る。
賢治の詩や童話は死後にわかに注目を浴びる。

平易な文章で読みやすく、一気に読める小説です。
心温まる小説でした。
 

今朝の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月20日(木)06時11分28秒
  「本日は無記名白紙委任状。」(自民党総裁選)  

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月20日(木)05時32分1秒
  今日は彼岸の入りです。又バスの日だそうです。1903年明治36年の今日京都で日本で初めてバスが走行し後にバスの日と定めたそうです。  

大相撲

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月20日(木)04時57分45秒
  稀勢の里が昨夜敗れてガッカリしている。角竜が負けてこれか面白くなってきたのに。当地の現在の気温は20度ぎりぎり少し肌寒い。季節はもう秋です。  

自民党総裁選

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月20日(木)04時27分53秒
  今日14時頃結果が判明するという。現職の圧勝というのが今報道されている。石波氏が善戦すれば、その後の政局大きな影響があるかも知れないと言われている。ゆっくりテレビ観戦しようと思う。  

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月19日(水)17時24分31秒
  「丁寧にかわし真摯にすりかえる。」(安倍、石波両候補テレビ出演。)  

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年 9月19日(水)06時28分17秒
  「消極的平和であって何故悪い。」(陸自シナイ半島多国籍軍派遣検討)