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◇自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり
(「歎異抄」第3章)
本願を疑う自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得すれば、真実の浄土へ往生できるのである。
◇他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり (「歎異抄」第3章)
他力の信心を獲た悪人こそが、往生の正因を獲た人だ。
同じ表現を、聖人の自作の聖教(仏教の書物)からも挙げておこう。
◇本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯心」という (唯心しょう文意(聖覚法印の著作「唯信しょう」を親鸞聖人が解釈されたもの)
他力の信心を獲て、自力の心のすたったことを、唯信心で救われるという。
親鸞聖人は、「他力をたのみて」と言われ、「歎異抄」では「他力をたのみたてまつれば」という。
「御文章」(蓮如上人が書かれた手紙)では「弥陀をたのみまいらせて」とあるが、総てみな「信心一つで救われる」他力信心のことにほかならない。
すでに「歎異抄」1章には「弥陀の救いには、善人も悪人も差別はない」と説き、「ただ信心を要とすと知るべし」と明言されている。
これによっても、善人悪人、一応、分けてはあるが、弥陀の救いの焦点は、他力信心一つに絞られていることが、明々白々である。
「歎異抄」では、特に指摘し喚起しておかなければならない要点だろう。(終わり)
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