|
村上春樹氏の最新刊「猫を捨てる」は氏の少年期の父との思い出を作品にしたものである。
読んでいてどこかで読んだことがあると思っていたら、巻末に「初出【文芸春秋2019年6月号】とあった。それを加筆して今回出版したものであった。
村上氏と私はそれほど年が離れているわけではなく、同じ世代に属する年代である。
それだけに、懐かしさがよみがえってくる作品であった。
同時に、私の幼いころの記憶がよみがえってきた。
これは45年前に亡くなった祖母と私の幼いころの思い出である。
明治17年生まれの祖母が還暦の年に僕は生まれた。
祖母は物心ついた時から老人であった。
◇最初の記憶は2歳頃だと思う。
大きな2階建ての家の縁側で僕は乳母車(レトロなもの)に乗っている。
傍には祖母とカズコがいる。
「イチニちゃん」。カズコが盛んに呼んでいる。
僕の名前はススムだが知恵遅れの彼女はうまく発音できなくて「イチニちゃん」と呼ぶ。カズコは近所の子で僕より3歳年上の女の子だ。僕のことを弟のように可愛がっていたようで、毎日遊びに来ていたらしい。
そんなカズコがとんでもないことをやらかした。
僕が乗った乳母車がスゥーと動いた。
そのあとの記憶はない。
祖母の怒声と共に目が覚めた。乳母車ごと縁側から下の地面に転落したのだ。
カズコが祖母にこっぴどく叱られている。
今でも記憶に残っている場面だ。
◇小さい頃はよく扁桃腺を腫らし高熱を出していた。
母はそのたびに黒岩病院の息子さんにお願いして往診に来てもらっていた。
当時はペニシリンという名前の薬をお尻から注射していた。
祖母は自分で大事にしまっていた「ゴクさん(御供さん)」というものを神棚に捧げお祈りし、それを僕に1,2粒飲ませていた。
後でわかったことだが、祖母は天理教の信者で年に一度奈良の天理までお参りに行っていた。そのときもらった「ゴクさん」を大事に持ち帰り、大事があるときに飲ませていたのである。「ゴクさん」はコメの粒であった。
治った時には多分医者の薬ではなくて、ゴクさんのお陰だと信じていたと思う。
祖母が信心するきっかけは知らないままである。
黒岩先生の父親は市会議員で黒岩満洲という名前だった(満洲という名前から中国東北部と関係があったのかもしれない)。
満洲氏の奥さんは母と親しく、よく我が家に来ていた。
僕は乳離れが遅く(一般的な意味ではなくておっぱいを飲んでいた期間)、その後母に聞いたところ、多分2歳ころまで飲んでいたらしい。
ある日、黒岩の奥さんがやってきて、三和土でおっぱいを飲んでいるのを見るや血相を変えて「いつまで飲ませている。乳に胡椒を塗り付けて飲めないようにしなさい」と怖い顔で母を叱っていた。僕はその時の恐怖がよほど骨身にしみたのか、それ以来ピタッと飲まないようになった。
◇僕は小学校に入る前幼稚園に少しだけ通った。
「新道幼稚園」という名前であった。
家からの距離はわからないが、子供の頃は結構遠かったように思う。
祖母が送り迎えをしてくれた。
祖母は気が強い人で、ブランコを一人で漕いでいる子(決まって同じ子)がいると、「変わって頂戴」といって、僕に変わらせた。
僕は一人では何にもできない子で、お昼(弁当だったのか給食だったのか分からない)はみんなと一緒ではなくて、園長先生の部屋で食べていた。お箸がつかえなくてスプーンで食べていた。
ある日、全員が旗をもらって園庭に出た。そのあとの記憶がなく、気が付いた時には泥だらけになっていた。溝に落ちたのだ。
幼稚園はお遊戯などもあったが失敗の連続だった。そして、ある日行くのを辞めてしまった。
祖母が奈良の天理に1週間ほど行くことになり、一人では通えないという頼りない理由であった。
格好悪い話ばかりであるが、初めて語る幼い日の祖母との思い出である。
|
|