朝日歌壇より。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月18日(木)15時37分49秒
  「ほんとうになかつたことはできませんなかったことは在ったが前提。」  

川柳朝刊の。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月18日(木)15時23分53秒
  「昭恵さん、昔の恋人誘ったら。」「投票勧誘首相迷言」  

川柳朝刊の。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月18日(木)15時20分10秒
  「生きているだけで筒抜け我が情報。」「セブンペイ騒動。」  

川柳朝刊の。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月18日(木)15時14分2秒
  「朗らかで行司泣かせが一人去り。」「安美錦引退」  

かたえくぼ

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月18日(木)12時05分1秒
  k点超えですーーー望月慎太郎。」  

川柳朝刊の。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月18日(木)11時43分44秒
  「見苦しいいつもかの国喧嘩腰。」「文大統領。」  

映画

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月18日(木)11時39分28秒
  今日午後は「冒険者たち」が放映されみます。アランドロン主演のこの映画も何回見るのでしょうか??丁度記憶が薄れた頃再放送があるので毎回新鮮です。記憶力の減退を嘆くべきかな?  

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月18日(木)05時32分14秒
  「今日は7月18日です。」1952年昭和27年千葉県古代遺跡で大賀一博士が古代蓮を発見。大賀蓮と命名された。」  

朝日歌壇より。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月18日(木)02時56分47秒
  「餓鬼岳の雪消しの水が音を立てて乳川に奔る安雲野の初夏。」佐佐木幸綱選。」  

朝日歌壇より。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月18日(木)02時17分7秒
  「大船山のあさかぜそよぐ早稲田に豊年えびの透けすけ泳ぐ。」佐佐木幸綱選、」  

川柳朝刊の。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月17日(水)15時43分40秒
  老衰が三位に浮上する愉悦。」「脳血菅疾患抜く」  

川柳朝刊の。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月17日(水)15時24分47秒
  「国民に出て行けと言う大統領。」「米民主女性議員に」  

川柳朝刊の。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月17日(水)15時10分33秒
  「その手法感じ悪いぞ誰の知恵事務会合。韓国側冷遇」「テレビ所見。」  

川柳朝刊の。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月17日(水)15時05分54秒
  「コマーシアルよりもどきつい選挙戦。」「口撃。」  

映画

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月17日(水)14時35分28秒
  「ワーロックを見ている。アンソニークインも好演している。その男ジルバの時と同じく存在感がある。」  

大相撲

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月17日(水)12時52分40秒
  大関の高安が今日から休場昨日勝ち越しを決めた翌日。色々都合はあろうが無責任の誹りは免れないと思います。」
 

今日の映画

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月17日(水)11時37分52秒
  ワーロックです。リチアードウイドマーク、ヘンリーホンダが出演します。楽しみです。  

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月17日(水)05時32分33秒
  「今日は7月17日です。」1945年昭和20年の今日第2次世界大戦の戦後処理を話し合うポッダム会議が始まった。  

映画

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月17日(水)03時47分51秒
  「ハリソンフオード主演の「逃亡者」を見た。以前の逃亡者のスピンアウトと紹介があぅたが大変おもしろおかった。米国の根強いレーシングに思いを馳せられた。  

朝日歌壇より。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月17日(水)03時38分31秒
  「しぶとしは命に向くる褒め言葉告げられし余命3月を超えたり、高野きみひこ、永田和宏選。」  

朝日俳壇より

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月16日(火)15時47分30秒
  「満開のばらの吐息にむせるむ苑。」稲畑汀子選。。」
 

朝日俳壇より

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月16日(火)12時31分6秒
  「遠い日の川に魚取る夏帽子。」  

沼南さんの今日は何の日

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2019年 7月16日(火)10時23分57秒
  1945年(昭和20年)7月16日、米国原爆試験に成功。

1945年(昭和20年)8月6日、サイパンを飛び立ったB29爆撃機エノラゲイは原子爆弾を搭載して同日午前8時15分広島に原爆投下!
その日の死者14万人。

この手際の良さに思わず身震いしてしまいます。
 

新聞の歌

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月16日(火)07時50分25秒
  「掛け声かけねば立てぬ膝なれども花柄杖つき老化もまた良し。」  

新聞の歌

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月16日(火)07時40分24秒
  「父が逝き呼ばれるように母も逝きわたしはひとり介護ロスの日々。」佐佐木幸綱選。」  

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月16日(火)05時33分20秒
  「今日は7月16日です。」「1945年昭和20年の今日、米国ニューメキシコ州で米国が史上はじめての原爆の試験に成功、後の広島長崎への原爆投下となった。」  

新聞の俳句

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月16日(火)03時46分51秒
  「閑居してみたき庵あり竹落ち葉。」稲畑汀子選。」  

斎藤茂吉の唄

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月16日(火)03時30分7秒
  1.あかあかと一本の道とほりたりたまきはまる我が命なりけり。」
2.かがやけるひとすじの道遥けくてかうかうと風は吹き行きにけり。」
3.野のなかに輝きて一本の道は見ゆここに命をおとしかねつも。」
   木田元編「一日一言」より引用。
 

パソコン

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月16日(火)00時39分21秒
  パソコンが謀反を起こしトラブルです。  

新聞の歌。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月16日(火)00時01分24秒
   

新聞の俳句

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月15日(月)23時50分48秒
    「カッコウの道途絶え我とかへる旅。」  

あさひ拝育

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月15日(月)17時36分6秒
  「山嵐に少し青ざめ沙羅の花。」  

あさひ俳壇

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月15日(月)17時31分42秒
  「すみ渡る宇宙枕に昼寝かな。」  

鹿の王 水底の橋

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2019年 7月15日(月)15時58分31秒
  上橋菜穂子氏の「鹿の王 水底の橋」を読みました。
上橋氏は前作「鹿の王」で本屋大賞を受賞していますが、一連の作家活動で国際アンデルセン賞を受賞しています。

「鹿の王 水底の橋」も大人の童話のような印象を受けます。
前作の「鹿の王」同様、250年前に滅びたオタワル王国の末裔で天才的医術師ホッサルとその助手で恋人のミラルが主人公です。
祭司医マナの招きで二人はマナの父が収めるツオル帝国の安房那領へと向かいます。

そこでは、思いがけぬ成り行きで、次期皇帝争いに巻き込まれていきます。
ふたつの医術の対立を軸に、人の命と医療の在り方を問う意欲作です。
 

朝日俳壇より

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月15日(月)05時36分0秒
  「梅雨深く森さんざめくものも無く」  

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月15日(月)05時32分14秒
  「今日は7月15日です」1888年明治28年の今日福島県の磐梯山が爆発し70人以上の犠牲者がでた。

 

朝日俳壇より

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月15日(月)02時56分28秒
  「木苺ひとつぶ熟れて夏来る。」  

朝日俳壇より

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月15日(月)02時52分40秒
  「好きな子に会うためだけにペタルを踏むそれでよかった高校の頃。」  

朝日俳壇より

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月14日(日)17時39分58秒
  「父の日の捨てて良い本残す本。」  

朝日歌壇より。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月14日(日)17時01分55秒
  「ヒマラヤのホテルに寝込む日本人医者を頼めば祈祷師の来る。」  

朝日俳壇より

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月14日(日)13時33分9秒
  「肉食の女らに夏き?にけり。長谷川櫂選。恐るべき君らの乳房夏来にけりは三鬼の句。」  

朝日歌壇より。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月14日(日)09時53分49秒
  「鮎料る男の貌の美しく時にせせらぎ聴き澄ます也。高野公彦選。」  

日曜に想う

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2019年 7月14日(日)09時20分1秒
  今日の朝日新聞の「日曜に想う」編集委員福島申二氏から引用します。

他人を指さす時は、残りの指が自分をさしていることを忘れるな、と言った人がいる。
まさにそのとおりで、人に向ける非難や誹りは、しばしば自分自身にもあてはまる。
私もそうだが、自省の苦い思いとともにこの警句にうなずく人は結構多いに違いない。

参院選が公示された4日、安倍晋三首相は第一声でこう訴えた。
「私のように議論する候補者、政党を選ぶのか、審議をまったくしない政党、候補者を選ぶのか・・・」。国会で憲法議論が進んでいないことを述べたくだりだが、これなどは、残りの指が自分を指している一例だろう。

政府与党こそ国会を軽んじて、議論に背を向けてこなかったか。
モリカケ疑惑など都合の悪いことや、年金など国民の関心事の質疑応答からは逃げてきた。
そうした一切を棚に上げて自分の関心事については議論か否かと迫るのだから、相当丈夫な棚をお持ちである。

公示の前日、日本記者クラブでの党首討論会では、こんな一幕があった。
質問者がテーマごとに挙手で賛意を示すよう求めた。
選択的夫婦別姓制度などを「認めるか」と問われて首相は手を挙げなかった。
そして「単純化してショーみたいにしないほうがいい。政治はイエスかノーかではない。あんまり印象操作するのはやめた方がいい」と不快感を表した。
ごもっとも。でも、それらは政権のいつもの手法ではなかったですかーーとブーメランは返ってくるだろう。

「令和」の発表や米大統領訪日などでは、政治ショーめいた場面を随分みせられたものだ。
数を恃んだイエスかノーかの採決強行には何度もため息をつかされてきた。
批判や疑問の追求に対して「印象操作だ」と言い返す印象操作は、首相周辺の常套手段といっていい。

私感を述べれば、安倍首相は他人に指先を向けることが目につく人だ。

秋には歴代最長の総理大臣になろうという人にして、いまだに相手をさげすむことで自身を誇るようなふるまいが止まぬのは不思議である。
そうした人は往々に自分への批判には敏感なものだ。
ヤジを嫌っての選挙演説日程の非公表などはその表れとも言えるだろう。

見えてくるのは、首相には、反対者をも含めて国を代表していく姿勢が乏しいことだ。
「自分の支持者、賛同者しか代表できない人間は、どれほど巨大な組織を率いても『権力を持つ私人』以上のものではない」と、思想家の内田樹さんが一般論として述べていたのを思い出す。
そうした狭量に権力全体が忖度して染まり、民主主義を傷めているのが今の政治の光景ではないのだろうか。

大正から昭和の川柳人だった前田雀郎に「磨く他ない一足の靴である」という一句がある。
くたびれた一足きりの靴しかない貧乏暮らしのボヤキのように読めるが、別の解釈もできる。

一足の靴とは作者自身であった、自分という靴を脱ぐことはできない。
磨き続けて生きていくのだという覚悟として読めば、味わいはいっそう深い。

国民にとっては、国の政治も、民意によって磨き続けるほかない一足の靴いえる。
他国の政府に履きかえるわけにはいかない。
汚れたら泥をぬぐい、痛んできたら革を張り替える。
人を選び政党を選ぶ国政選挙は民主主義の靴磨きのときだ。
良い靴を履けば、より多くの人が安心して遠くまで歩いていける。

与党だけでなく野党もだが、私たちがいま目撃しているのは、政治家と政治の小児化に思われる。
たるんだ人、うわっついた人、思い上がった人を緊張感に漬け込んで国政にふさわしい成熟をもたらすのは、民意のまなざし以外にない。

「暮らしの手帳」の伝説的な編集者、花森安治が言っていた。
「国家とか日本というものは、ぼくたちのはるか上空にひらひらしているものではないのだ。
ぼくたちみんなが、こうして毎日必死になって、まともに暮らしている。
そのより集まりが日本だ、日本の国だ」。
大勢の思いを代弁するように今も響く。
政治家が思いを遂げることが政治なのではない。
 

朝日俳壇より

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月14日(日)06時49分27秒
  「サングラス外してみたき美人かな。」  

今日は何の日

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月14日(日)05時30分16秒
  「今日は7月14日です。」「きょうはフランス革命記念日です。1789年の今日フランス国民がバスチーユ牢獄で蜂起した。」  

ドクター甲斐の生涯 3

 投稿者:ひまじん  投稿日:2019年 7月13日(土)21時40分30秒
  ④ 青年期

    就職、結婚、仕事、子育ての頃

 動燃に入ると、原子燃料試験所のセラミックグループに配属されました。高卒の方と2人でチームを組んで、
実験をやります。先ず、実験装置の組み方を教えてもらいました。「そのスパナを取ってくれ。」と言われ、
これはスパナだと言い聞かせながら、彼の指先の物を取って渡しました。次に「モンキースパナを取ってくれ。」
と言われました。猿のような恰好のものがあると思い、きょろきょろ探していると、「お前モンキースパナを知らないな。」
と言われました。スパナを知らなかったことは、ばれませんでした。金属の板でホールダーを作ると言います。
「板をどうやって切るのですか?」と聞くと、「鋸で切る。」と言うので、「へー鋸で切れるのですか?」と言うと
「バカ!金切鋸ってのが有るんだ。」と言われました。実験をやったことが無い私には、何もかも知らないことだらけでした。

 しかし、この様なことは3か月もすれば覚えます。彼等は自分の経験で知識を増やします。私は経験と共に論文を読んで
知識を増やします。半年もすれば、実験データをどう評価するか、実験のパラメーターをどう選ぶか等イニシアティブを
取れるようになりました。入社1,2年目の若手研究員で、輪講のゼミをやることとなり、教科書にグラストンエドランドの
「原子炉の理論」と寺澤寛一の「数学概論」を選びました。原子力を勉強してきた連中は「原子炉の理論」は難しいと
言いましたが、量子力学や相対論に比べれば、大したことは有りません。「数学概論」には、各章末に問題集が
付いています。普通の本では、問題集があれば答も載っているのですが、この本には載っていません。私は、
答えが分からないと言う事はあっても、分かった答えの解き方が間違っている事は無いと言う自信を持っていました。

 「数学概論」の問題で解けない問題は無く、ゼミでは先生役をしました。国立大卒に対するコンプレックスも
霧消しました。

 1年経った時、同じ部屋の先輩が炉部門に転出しました。彼は原研との共同研究で、照射試験をやっていました。
この研究は原子燃料試験所の中で最も重要な花形研究と見なされていましたが、この研究とやっていた高卒の研究員を
そっくり頂き、後を引き継ぐこととなりました。2人の高卒研究員を貰う破格の厚遇でした。当時は、9月と3月に
原子力学会があり、社内でその発表の予行演習をやっていました。そこで、発表者が先輩だろうと、係長、課長だろうと、
おかしい点は厳しく指摘しました。

 3年目の初夏の頃です。突然、試験所の全員が集められ、所長が「国の方針で、遠心分離法によるウラン濃縮を
動燃が大々的にやることになった。試験所を改組して新たに濃縮技術開発部を作り、本社に濃縮開発本部を作る。」
と発表しました。そしてその場で、私は濃縮技術開発部へ行けと言われました。これまでの研究がやれなくなるので
ふさぎ込んでいると、私のグループの主任研究員が来て、「中村康治氏(東大の生産研究所出身、燃料部門の
技術トップと言われていた)が濃縮開発本部長になる。彼が貴方をどうしても濃縮へ連れて来いと言う。私は反対したが、
抗しきれなかった。一年間濃縮でやってみて、どうしても濃縮が肌に合わなければ、私に言え。何とかするから。」
とのことでした。また、濃縮グループ担当の主任研究員が来て、「濃縮は理論が難しいので、数学に強い人が要る。
あなたを京都大学原子核の東先生の研究室に国内留学させてやる。通常、国内留学すれば海外留学の権利を失うが、
貴方の場合、海外留学の権利は残す。」とやたら美味しい話でした。私は中村氏とは特に面識も無かったのですが、
学会発表予行演習の時の議論を聞いていて、私をどうしても使いたくなったのだと思います。

それ迄の研究成果を
8月迄に全部まとめて、留学に備えました。ところが、私の京大留学は、産学協同路線だとして学生が反対する
と言う理由で京大から断られ、実現しませんでした。そこで、「来年システム試験と称して、9台の遠心機で、
カスケード試験をやるので、カスケードの設計をやれ。」と言われました。カスケードとは、1台の遠心機では
少ししか濃縮出来ないので、段を重ねて所定の濃縮度にしようと言うものです。当時、3号機と称する遠心機で
分離試験が行われていましたが、実態を見ると、分離効率が2~3%、寿命が1週間程度でした。「どう言う条件で設計するのだ?」
と聞くと、「効率50%、寿命10年で設計しろ。」とのことです。ウラン濃縮の開発は、遠心分離法は動燃担当でしたが、
ガス拡散法を原子力研究所と理化学研究所が合同でやっており、対抗するためのあせりから、この様な滅茶苦茶な
計画を作っていたのでしょう。また、3号機はヘリウムをウランガスのシールに使っていました。カスケードで次の段に
送る時にこのヘリウムとウランをコールドトラップで分離する必要があるハズです。1段毎にこのコールドトラップを
設けていたら、経済性など出る訳が有りません。カスケードを考える前に、まともな遠心機の開発が必要だと主張しました。

 すると、ヘリウムが入っていた方がウランの分離が良くなるという文献が有ると言って、渡されました。その文献を
読んで間違いが有ることに気付きました。正しい計算をし、分離は必ず悪くなることを証明し、定量的にもどの程度
悪くなるかを示し?、周りに説明しました。しかし、誰も計算の中身を理解できないため、本社に行って、
直接中村本部長に説明しました。40分ぐらいの説明を終えて、本部長の顔を見ると、本部長は、「俺は数学が弱いからな。」
と言いました。私は糠に釘を打つような話だったのかと思って、がっかりして帰りました。

しかし、本部長は私の計算の中身は分からなくても、私を信用しました。
「カスケード試験を止め、遠心機単機の開発に集中する。また、これまで遠心機の製作は東芝のみであったが、オールジャパン体制を採る。」
と宣言しました。

参加を募ると、東芝以外に日立製作所、三菱重工、川崎重工がプロジェクト参加を表明しました。
本部長は各メーカーに自分の得意な技術を活かした遠心機を作るよう要請しました。
そして、遠心機がどの様なものか分からない新規参入メーカーには、動燃から講師を1人ずつ派遣することとし、私は川崎重工に派遣されました。

川崎重工と話していると、彼等は「ガス軸受けが得意なので、これで回転体を回す。」と言う事でした。
ガス軸受けは非接触タイプなので、相当の寿命が期待できます。
分離方式としては、3号機の方式はドイツのグロートが採用している熱向流タイプですが、何故分離しないのか分からなかったので、
マンハッタン計画時にアメリカが採用した外部向流方式を試みたいと思いました。
しかしこの方式は、中心軸からガスを抜き出すので、遠心機の回転速度が速くなると、中心部のガスが希薄化し、必要な量のガスが抜けなくなります。
このため、熱向流のメリットを取り入れた内部循環型の外部向流を考え、この方式で遠心機を
作って貰いました。この遠心機で分離試験をやると、いきなり40%を超える分離効率が得られました。
これに対し、他のメーカーの遠心機では、ほとんどまともな成果は得られませんでした。

各社のデータが出揃った頃、本部長は主要メンバーを集めて、「無駄な遠心機を回していてもしょうがない。
得られたデータを評価して、最適な遠心機となる標準機を作る。この設計を、甲斐、お前やれ。」と言いました。
「ではメーカーとも相談して。」と言いますと、「メーカーとは相談するな。相談すると皆勝手なことを言う。
それでは標準機にならない。お前一人の考えでやれ。期間は3か月だ。」とのことでした。「よし、やってやる。」
という気持ちでした。先ず、経済解析コードを作り、経済性達成が目的であるとしました。分離性能や圧力分布の計算、
風損の計算、分子ポンプの性能計算、応力計算、振動計算、熱温度分布計算等工学ハンドブックは勿論、当時知られていた
文献から計算式を集めて可能な限り定量的にパラメーターサーベイを行い、目指すべき遠心機の具体像を描き出しました。

 全部1人でやらなければならないため、睡眠時間は7時間→6時間→5時間となり、最後は徹夜で仕上げました?。
朝、やっと必要部数のコピーを終わって、本社に持って行きました。動燃とメーカーのお歴々が並んでいる中で、
内容の説明をしました。当然、この内容は、発表まで私以外は誰も知らない完全ノーチェックでした。濃縮はこの2~3年後には、
年間100億円を使い、高速増殖炉と並んで日本最大のプロジェクトとなります。私は未だ28歳でした。空前にして
絶後の進め方でした。

 この発表内容にすぐ反応したのが川崎重工です。「うちが作った遠心機は、分離性能でも寿命でも断トツだった。
何故うちの遠心機ではダメなのか?」これに対し、「ガス軸受けでは、消費動力が大きすぎ、経済性が出ない。」
と答えました。川重は本部長の所にも行きましたが、本部長の「これ以外はやらない。」と言う答えを受けて、
遠心法からの撤退を決めました。最後に川重の担当者が来て、「もっと甲斐さんとやりたかったのですけどねえ。」
と言って、肩を落として帰って行きました。東芝、日立、三菱重工はこの概念設計に従って、詳細設計、製造、
回転試験を行いました。私は、技術判断の全権限を握っていました。海外の軸受けや回転胴製造に関する情報が
得られたと言う幸運も有り、遠心機開発は短時間で長足の進歩を示しました?。

 この頃、年平均でも月200時間残業していました。帰宅は、今日は風呂に入るから11時半、入らないから12時半
といった具合でした。残業として扱ってくれるのは月20時間迄でしたから、後はサービス残業とも言えますが、
残業していると言う気は全く有りませんでした。いくら仕事が忙しくても、土曜の夜と日曜日は暇です。友達も次第に結婚し、
独身寮では長老の域に近づきます。しかし、初恋の痛手が大きかったので、自分から女性に声をかけることは無く、
女性から声をかけてくれるのを待ちました。女性をふるのも悪いので、女性が私で良いと言うのであれば、誰とでも
結婚する積りでした。会社は、地元に原子力の理解を得るためには、社員が地元の女性と結婚するのが最も有効と
思っていました。独身寮主催のクリスマスパーティーや観桜会を催すのに、人事課の職員がポスターを持参して
近隣のデパート、銀行等を回っていました。

 4月の観桜会の時、隣にいた女性が私に話しかけてきました。名前は「ふみこ」と言い、私の母と同じ名前です。
生まれてから死ぬまで、「ふみこ」に面倒を見て貰えるのも良いかなと思いました。前は山一證券に勤めていましたが、
止めて、わが社へアルバイトに来ているそうです。「アルバイトは2年が限度なので、今年の9月で辞めなければならない。」
と寂しそうに言いました。証券会社を辞めて我が社のアルバイトになれば、給料は半額でしょう。我が社へ来た目的は
見え見えです。我が社は、当時大卒だけでも20~30人採っており、高卒はそれ以上です。独身寮は東海駅から6キロぐらい
離れており、交通の便が悪く、又、水戸、日立は歓楽街が少なく、遊ぶのは大変なので、アルバイトが来れば、
入れ食いの状態でした。それなのに、彼女には誰も手を出さなかったようです。私より背が高いと言う欠点もありましたが、
例え慈善事業としても、私が相手をしてやらざるを得ないのではないかと思いました。
最初のデートは、当時流行りのボーリングに行きました。私の投げたボールはコロコロと転がって行き、ピンが
パタンパタンと倒れるだけで、100アップするのがやっとと言う状態です。文ちゃんはボールを後ろへ高く振り上げ、
ぐっと身を沈めて床すれすれから投げます。まるでプロボーラーのようなフォームです。ボールはすっ飛んで行って
ピンをぶっ飛ばします。コントロールも良く、第一投のヘッドピンと1本残ったピンは必ず当てます。フックボールを
投げないので、スプリットが多くそれ程点数は上がらないのですが、それでも130ぐらいは行きます。後ろから投げるのを
見ていると、身を沈める時は大きく足を開きます。この日はミニスカートを履いて来ました。ギリギリまで見えるのですが、
この上を見るためには結婚するしかないと思いました。

 夏が来ました。デートで、海水浴に行きました。海水浴と言っても、私は全く泳げませんので、砂浜で幅跳びをしました。
走り幅跳びは辛うじて勝てたのですが、立ち幅跳びは10㎝ぐらいの差をつけられて、負けました。私も中学の時は
リレーの選手だったので、その跳躍力にびっくりしました。文ちゃんは、データで表すと165H、85、58、85のサイズで、
胴に比べて足が長く、両脚を揃えて立つと、脚の間に隙間がほとんどできません。前から見ると足は細く見えますが、
横から見ると、太腿の後ろ側にアスリート的な筋肉がついていて、日本人離れしたスタイルでした。聞くと、小学生の頃は、
100m走は日立市で一番早かったそうです。あの筋肉でぎゅう~と締めて貰えれば、幸せになれるだろうと思いました。

 9月になり、本社転勤の内示を貰いました。文ちゃんに言うと、「私の取り得は、丈夫で長持ちすることです。」
と言いました。事務棟に本社の社宅の状況を聞きに行くと、人事課長が出てきて、「俺が話をしてきてやる。」と言って、
文ちゃんの実家へ行き、私のことを目一杯宣伝して来てくれました。本社に転勤になって、直ぐ式場を探しました。
長く休めるのは冬休みしかなく、当時日本で一番高いビルの霞が関ビルの最上階にある東京會舘の結婚式場が
12月24日に空いていましたので、クリスマスイブに、そこで結婚式をあげました。式の時、文ちゃんの友達が文ちゃんを
「100万ドルの笑顔とカモシカの足を持つ。」と形容しましたが、私はなるほどと思いました。

 結婚して約1年後、父が60歳で亡くなりました。肝臓癌で、酒の飲み過ぎでした。亡くなる前に会いに行った時、
父に「松瀬君(中学の時以来の朋友)が博士号を取った。」と言うと、父はしばらく沈黙した後、絞り出すような声で
「俺は男じゃ無かった。」と言いました。進学相談に行った時の言葉は、父にとっても重く重くのしかかっていたのでしょう。
5年後に私も博士号を貰い、アメリカに留学しました。あと5年生きていてくれたら、
喜んで貰えたのにと残念でした。

            (つづく)
 

ドクター甲斐の生涯 2

 投稿者:ひまじん  投稿日:2019年 7月13日(土)18時08分17秒
  ③ 思春期、学生時代

   高校、大学の頃

 中学の時は、予習復習をするだけで、学校で一番良い成績をとれ、勉強以外にも色々の本を読み、部活もやり、
世間の一般常識もあったと思います。その中で一つ強く思ったのが、ナチュラルサイエンスには真実がありますが、
ヒューマンサイエンスには、真実が無いと言うことです。例えば、豊臣秀吉の伝記を読むと、秀吉はすごく良い人
と書いてあるのに、徳川家康の伝記を読むと、秀吉は悪い人と書いてあります。これに対し、数学の公式や物理の
法則は、誰がどう説明しても変わりません。そこで高校に入った時、理科系を志望しました。

 高校に入って一番感じたのは、私は頭が悪いということでした。最初の模擬テストでは4番でしたが、1年の
終わりの頃は10番以内にも入れませんでした。早熟で、高校に入って、記憶力が伸びていない事を痛感しました。
負けず嫌いでしたので、勉強時間を増やしたため、睡眠時間がどんどん少なくなり、やがて5時間睡眠になりました。
その頃習った漢文「余もまた駑馬(どば)なり。これを鞭打ち、これを鞭打ち、これを鞭打って、しこうして
又鞭打ち、行き行いて止まず。」の心境でした。印象に残るのは小崎氏でした。私は歴史年表を覚えるのに、
数字ではとても覚えられず、文を作って覚えました。「火縄くすぶるバスチーユ。」1789年フランス革命と
いった具合です。こうして、200,300の項目を覚えることが出来ました。しかし、彼は年表を全部数字で
丸暗記していました。数学の問題を解くとき、通常4問出題されますが、私は時間内にせいぜい3問しか
取り組めません。彼は未だ時間が有るのに、さっさと試験場を出て行きました。彼の記憶力は私の2倍、
頭の回転速度も2倍です。彼は、友達付き合いはよくして貰いましたが、同じ人種とは思えませんでした。

 私の高校時代は、勉強以外は、何もしませんでした。クラブ活動もせず、勉強と関係の無い本は読みませんでした。
クラスに女性はいず、同年齢の女性とは話すことも無く、思春期などありませんでした。成人の日に街へ出ました。
大勢の女性が着物を着て、しゃなりしゃなりと歩いていました。顔を見るとぺたぺたとおしろいを塗っています。
「女性は20歳になると老けるなあ。」と思いました。

 勉強以外で一つ思い出があります。ある時、学校から帰るとお客さんが来ており、母が玄関で対応していました
その客は私を見ると、「じゃーよろしくお願いします。」と言って、封筒を置いて出て行きました。私はその封筒が
現金で、選挙の投票依頼であることが直ぐ分かりました。母に「そんな金返せ。返さなきゃ警察に言いに行くぞ。」
と言いました。父は、私が言ったからだけではないのでしょうが、社宅を回り、各戸に配られた金を全部集めて、
依頼者に返したそうです。選挙が終わって、警察の摘発が始まり、近隣では多くの検挙者が出ました。もし、
あの金を返してなかったら、父は保線所の所長でしたので、懲戒免職は免れなかったでしょう。そして、
私が大学に行くことも無かったでしょう。母は「あれは良かった。お前のお蔭じゃ。」とつくづく言っていました。

 3年になると成績が少し持ち直し、10番以内には入って来、最後は4番でした。そこで、京都大学を受けましたが、
見事落ちました。すぐ東京に行きました。予備校に通って5時間睡眠の浪人生活で一年間過ごし、東大を受けました。
模擬テストの結果からは受かってもおかしくは無かったのですが、また落ち、泣く泣く早稲田大学の理工学部
用物理科に行きました。

 もう勉強する気はありませんでした。早稲田学院から来た連中は高校で微分方程式の解き方を習っていました。
物理や数学で出てくる微分方程式を彼等はさらさらと解きます。私は微分とは何かも分からず、ますますやる気を
失いました。先ず、遊ぶ金が必要なので、アルバイトをやりました。近所で家庭教師をやりましたが、よくこれだけの
金を貰えるものだと感心しました。夏休みと冬休みには、銀座の三越本店に行き、ハンドバッグ売りをやりました。
直ぐ、売るコツを覚えました。年寄りの2人連れは相手にしないことです。あれこれケチをつけて、「学生さんには
分からないでしょう。」等と言ってからかって、買わないで帰ります。狙い目は、若い1人だけの女性です。
先ず来た時、一言声をかけておきます。そして地味なハンドバックを見ている時に「それは少し地味だと思いますよ。
これは如何でしょうか。」と言って若向きを出すと、ドキッとして、あわてて買って行きます。この方法で、
三越には大分貢献しました。

 遊びでは、先ず麻雀を覚えました。賭けレートが高く、1晩で1月分の小遣いが無くなることもありました。
必然的に弱い者を相手にし、そこから取ろうと考えます。しかし、これでは人間関係が損なわれてしまうと考え、
半年位経つと、ほとんどやらなくなりました。次にニューオールリンズジャズクラブに入りました。中学の時、
ブラバンでクラリネットを吹いていたからです。ジャズには楽譜が有りませんでした。「耳で覚えろ。」
と言われましたが、「とても覚えられない。」と言うと、「では曲を聞いて、自分で楽譜を採れ。」と言われました。
レコードに針を載せて、ほんの少し走らせて針を上げると、ジャズは進行が早いため、歌謡曲1曲分ぐらい
進んでしまっています。楽譜を採るどころでは有りません。私にはジャズをやるのは、絶対に不可能だと言うことが
分かり、直ぐ退部しました。

 体育の授業で「山岳」がありました。上高地で1週間合宿すると、体育の単位が貰えます。受験勉強ですっかり
体力が落ち、スポーツが出来なくなった私でも、山登りであれば、右足を前に出し、次に左足を前に出し、又、
右足を前に出していれば良いのだから出来るのではないかと思い、山岳の授業に参加しました。20キロの荷物を背負い、
槍ヶ岳の肩まで登りました。当時私は50キロに満たない体重でした。参加者は皆、屈強な体の持ち主で、
私が付いて行けるはずがありません。途中で足が動かなくなり、立ってもいられなく、座り込んでしまいました。
山登りなどおこがましく、ハイキング程度しか行けないと言う事が分かりました。冬になり、スキーに行きました。
2泊3日でスキーをやると、皆そこそこ滑れるようになります。しかし、私は高校の時、授業で柔道をやっていたので、
転びそうになると腰を引くと言う習性があります。スキーが前へ行った時、腰を引けば、転ぶのが当たり前です。
3日目になっても、私だけは全く進歩しませんでした。

 新宿に、社交ダンスの講習所がありました。友達が誘ってくれましたが、「私にはパートナーがいないので、
行けない。」と言って断ったところ、「私のを貸してやるから行こう。」との誘いでした。講習所へ行って、
ブルース、ジルバ、マンボ、ワルツ等を教わりました。この時は講習を受けに来ている女性は大抵誰でも相手を
してくれるので良いのですが、最後にチークタイムがあります。当然、皆自分が連れてきたパートナーと踊ります。
私は、壁にもたれて、見ているだけです。女性は香水を付けて来るので、香水と汗の匂いが混じって、刺激的です。
終わると、友達とパートナーは「じゃーねー」と言って、一緒に仲良くどこかへ消えていきます。私は1人寂しく
下宿へ帰ります。「世の中、こんな不公平があっていいのか。」と思いました。そこで自前のパートナーを探しました。
唯一の女性の知り合いは、同じ学科の紅一点で、吉永小百合クラスの清楚な美人でした。意を決して誘って見ましたら、
「私は個人的な付き合いはしません。」とぴしゃりと断られました。「あんな素晴らしい人が私のような無能な
男を相手にしてくれる訳が無い。」と納得して、私の初恋は終わりました。

 3月末となり、期末試験が終わり、成績表が配られました。優はほとんど無く、良と可で、物理科で一番重要な
科目である理論物理学通論は赤字の不可でした。成績表を見ながら考えました。何をやっても人より下手だ。
勉強をやった方が未だましではないか。第一、この成績では卒業も出来ない。これでは高い授業料を出して
くれてる親に申し訳ない。やはり、勉強しようと心に決めました。
2年の時は、とにかく分からない数学を理解するようにしました。授業を聞いていても分からないので、
数学の教科書を何回も何回も読んで、先ず微分とは何かをイプシロンデルタ論法から理解していきました。
数学が理解できるようになると、読めない本が無くなりました。3年からは量子力学と相対論が出てきます。
シュレディンガーの方程式の導入過程を理解し得た時、物理学の醍醐味を味わえたような気分になりました。
そこで、4年の卒論を書く研究室は核研としました。

 3年の12月、世に言う早稲田闘争が始まりました。学生会館の管理運営権を主張し、大学本部に座り込んだ学生を
大学側は機動隊により排除し、同時に授業料の大幅値上げを決定したのです。1月になり、会館の運営権や
授業料値上げだけでなく、産業界に役に立つ人材育成、学の独立に対する侵害等の大学側の政策が一般学生からも
反発を受け、授業放棄のスト権の確立が始まりました。私もそれまでは、ヒューマンサイエンスに興味が無く、
政治に関心が有りませんでしたが、スト権となると他人事では有りません。「お前らは手に技術、心に日の丸か。」
と言われ、政治心に火がつきました。当時、早稲田の文系各学部は民生(日本民主青年同盟)、社青同(日本社会主義青年同盟)、
革マル(日本共産主義者同盟革命的マルクス主義派)等学生運動各派の根城と言えるものでした。しかし、
「政治とは何ぞや。」と、基本から議論し合えば、所謂プロの学生運動家と議論し合っても、一歩も引きませんでした。
「そんならお前やれ。」と言われて、理工学部の3年連絡協議会議長になりました。3月になり、大濱総長が
機動隊導入を謝罪して、退任を表明しました。ところが、プロの学生運動家は「十分ではない。」として、
4月以降のスト権確立に動きました。これに対し、私は「政治運動をやるのは良いが、これを授業放棄のストという
やり方でやるべきでは無い。授業を受けて学問を学ぶことはどのような主義主張をしようとも必要な事である。」
と言って、断固反対しました。理工学部が先ず、4月闘争から離脱し、他の学部も次第に止めていき、早稲田闘争は
終わりました。その後、東大、京大、横浜国大、日大等多くの大学で、学園闘争が起き、東大安田講堂事件、
連合赤軍による浅間山荘事件等と闘争がエスカレートしていきました。これ等の学生運動は、長く続き、活動家と
一般学生との乖離が大きかったと思います。これに対し、早稲田闘争は、期間的に短く、活動家と一般学生との
乖離が少なかったと言えるでしょう。私自身に対しても、ある部分だけを見た人は、プロの学生運動家だと思ったで
しょうし、又、ある部分だけを見た人は早稲田闘争を潰した立役者だと思ったでしょう。私自身は一般常識を
示しただけだと思っています。

 4年になり、就職ガイダンスが始まりました。「優の数にプラス1、良の数にマイナス1、可の数にマイナス2を
かけて全部合計し、プラスであれば、大学院に進学できる。就職希望者は、成績順に学科に来ている求人の中から推薦する。」
と言うことでした。私は3年の時は良が1つで、後は全部優でしたが、1年の時の酷い成績がたたって、トータルでは
ほんの少しマイナスでした。そこで、核研の担任の並木教授の所へ行き、「この大学院進学基準は、3年の時迄の基準か、
卒業の時迄の基準か?」と聞きました。すると並木教授は「君、何を言ってるのかね。うちの研究室は成績が
1番か2番じゃなきゃ、来ないのだよ。」と言いました。私はすぐ就職することとし、ソニーを受けました。
就職担当の木名瀬教授は「他の会社は学科の推薦があればまず落とさないが、ソニーは落とす可能性があるけどいいか?」
と言いました。私は深くも考えず、ソニーを受けました。筆記試験と重役面接は受かりましたが、最後の
盛田社長の面接で落とされました。もう7月になっており、東証1部上場企業の求人は有りません。木名瀬教授は、
「うちの研究室(物性研究室)でよければ来て良い。」とのことでした。九州の実家へ帰り、親と進学の相談をしました。
父は「お前だけに、全ての金を集中する訳にはいかない。」と言いました。兄は工業高校出で、上の妹は短大に
行っていました。高2になる下の妹が傍で聞いていて「私は別に大学なんか行かなくていいから、常兄ちゃんを
大学院にやってくれ。」と言いました。結論は求めず、東京へ戻りました。

 大学へ行くと、原子燃料公社からの求人が来ていました。私は、京大入試は原子核工学科を受けたほどで、
原子力に強い関心を持っていたので、直ぐ入社試験を受けることにしました。「国は、原子力の開発をより本格化させ、
原子力研究所が基礎研究を担い、原子燃料公社が改組され、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)となって、開発研究を担う。」
と報道されていました。試験を受けに行くと、受験者の一覧表が貼ってありました。理系を8名採用するのに、
56名受験者がいました。部門別に採用し、物理、応用物理部門では、1名採用するのに10名の受験者がいました。
理系の入社試験でこれだけ倍率が高いのは、他にほとんど例が無いでしょう。また、所属大学名が書いてあり、
物理、応用物理部門では、東大以下旧帝大から7名、私大が2名、地方大が1名でした。国立大生に強いコンプレックスを
持っていたので、これでは受かる訳が無いと思い、私の人生観の甘さを悔やみました。試験が終わると、試験会場の
近くの皇居のお堀の前へ歩いて行きました。お堀を眺めながら、来し方行く末考えました。父と妹のあの時の
言葉が重く重くのしかかってきました。しかし、その数日後、全く予想に反し、合格の知らせが届きました。

   (つづく)
 

≪・・・夢は岬を、駆け巡り・・・≫

 投稿者:旅人ーM  投稿日:2019年 7月13日(土)17時09分2秒
  関ヒマ さま・・・

積丹半島の写真を追加・掲載して頂き、お心遣い有難うございます。

(写真・1)遠く海岸線に、道路が走っているようですね・・・
     ≪・・・あそこまで、何時間かかるだろうか・・・?≫
(写真・2)島武意海岸・ニセコ積丹海岸公園・・・
     ≪・・・キャンプができるような場所はあるだろうか・・・?≫
(写真・3)灯台のある高台から、はるか下方に入江と半島が見えるようです・・・
     ≪・・・あの半島のどの辺りを歩いてきたか・・・?≫・・・あるいは、
     ≪・・・あの半島のどの辺りを歩いてゆくのか・・・?』

≪何度も、贅沢な旅をやらせて貰ったなあ・・・≫と感じています。
振り返って、何時までも、≪思い出を大切にしていこう≫、と思う昨今です。
(今日は、いい夢が見れそうです)
 

川柳朝刊の。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月13日(土)17時01分4秒
  「尻叩くだけのかんぽ社長業。」「ノルマ至上主義」  

川柳朝刊の。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2019年 7月13日(土)16時37分6秒
  「マッチ擦りポンプの役はお前たち。」「ホルムズ海峡キナ臭し。」