朝の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月13日(火)19時30分52秒
  「千歳飴似合いそうだねトランプ氏。」(でかいコドモ。)  

(無題)

 投稿者:やまとなでしこ  投稿日:2018年11月13日(火)18時28分1秒
  家の庭には ハイビスカスの花が寒そうに咲いていますが 玄関横のヒイラギは今を盛りと白い小さいよく香る
花を咲かせています。とてもいいかおりです。
 

今朝の川柳」

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月13日(火)07時01分29秒
  「リンゴ泥農家悔しや悔しやリンゴ。」(青森で盗人横行)。  

今朝の川柳」

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月13日(火)06時31分0秒
  「棒読みで国が成り立つ馬鹿らしさ。」(そのうえ早口)
 

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月13日(火)05時33分20秒
  1966年昭和41年の今日松山沖で全日航機が墜落、戦後初めての民間航空機事故である  

「今日の会話」

 投稿者:トト  投稿日:2018年11月12日(月)07時16分6秒
  今日は週に2回行っている企業への出勤日です。

私・・・「○○さん(家内も知っている友人です)は毎日7時半には会社に出勤しているそうだ、すごいねえ!」

家内・・「あなたは毎日8時ごろ家を出るから、いつも遅刻しているのじゃあない?」

私・・・「いや、8時半始まりだから、時々しか遅刻していないよ」

家内・・「ときどきだって、時々しか行っていないのだから、毎日遅刻しているのね!」

私・・・「時々行っているうちの時々だよ、毎日じゃあない」

家内・・「本当~お?」
 

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月12日(月)05時34分37秒
  1972年明治5年の今日政府は高官は洋服を着用すべきとの太政官布告を制定し、後に今日を洋服記念日とした。  

喜界が島

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年11月11日(日)17時14分20秒
  昨日テレビで喜界が島が出ていました。
食材で栄養豊富な胡麻は99%が輸入品だそうです。
残りのわずかな国産の胡麻の産地が喜界が島だそうです。
 

ビート

 投稿者:トト  投稿日:2018年11月11日(日)14時10分0秒
  ビート一個は直径約15センチの円錐形というか球というか、何かそんな形で、約1キログラム弱だそうです。このぐらいの大きさから、平均150gの砂糖が取れるそうです。

そうすると、サトウダイコン一個で、我が家の砂糖は、何か月分取れるのでしょうか。我が家では砂糖はほとんど使っていないので、1年1個で足りるのかもしれません。

私は、特に黒砂糖が大好きで、沖縄に行ったら必ず買ってきます。

砂糖会社の技術者の方から聞いたことですが、サトウキビから最初にできる砂糖は、何と緑色で、
とても微妙な味わいがあり、大変おいしいのだそうです。

しかし、すぐに空気と結合して、黒く変色するということですが、この最初の味わいを保存して市場に出すのは今の技術では不可能だそうです。

その砂糖が喜界が島では味わえるそうで、本当に胸がわくわくします。
 

ビート

 投稿者:トト  投稿日:2018年11月11日(日)13時49分53秒
  色は白でした。

苦味があるというのですが、じつはこれを聞いたときも、何とかなるのではないかと思いました。山菜は一口初めから苦味がありますが、食べたビートは全くそんなことがなかったのです。

苦味があるにしても、かき揚げにしたらどうかとか、茹でたらどうかとか、あるいはミョウバンに曝したらどうかなどなど、内心では考えていました。

ヨーロッパでは食べるのですねえ。そもそも、ドイツではほとんど砂糖はビートから作るようですし、食べ方があるのでしょう。

こんど行ったときに、ビートを貰ってきて、うちで料理してみましょう。次に行くときは、来年かもしれませんが・・・・!

所で、絞った後のビートはどうするのか聞いたら、ペレットにして、家畜の餌にするそうです。このペレットには、ビートの砂糖を抽出した残りの糖蜜をかけて甘くしてやると、家畜は大喜びで食べるそうです。

つまり、ビートから砂糖を抜き出し、残りを家畜が食べる、ということですが、ビートにはおそらく多くの微量栄養素の宝庫であるでしょうし、何よりも腸をきれいにする繊維は、家畜が食べるのです。

つまり、砂糖分を除いたビートのさまざまな栄養素や繊維は何と家畜が食べているのですねえ。
 

(無題)

 投稿者:やまとなでしこ  投稿日:2018年11月11日(日)13時24分39秒
  トト様ビートは何色でしたか?イギリスにお住んでいるときにビートルートという蕪に似たのがスーパーで売られて板です真っ赤というより血の色でボルシチに使うみたいですが。甘酸っぱく煮たのはサラダに入れるとおいしく、砂糖大根とイギリスにあるのとは違うのかしら。ボルシチに入れるビートは成城のスーパーで売っています。  

「北海道旅行」

 投稿者:トト  投稿日:2018年11月11日(日)08時54分20秒
  先週は、帯広、北見、女満別と回りました。当地の砂糖工場を見せていただいたのです。

北海道の砂糖は、ビート(サトウダイコン)から生成するもので、南方の砂糖キビとは全く違います。

このビートを食べてみると、とてもおいしくサラダに最適ではないか、と工場の方に聞いたら、一口ぐらいは美味しいが、食べ続けると、苦みやあくがあっておいしくないとのこと、多数いるシカも若いシカはほんの少しかじるが、それでやめるとのこと、シカですら食べないんですよ、とのことでした。

1個欲しいと、のどから出かかったのですが、飲み込みました。

最後は、女満別のロッジに泊まり、夜は有名な星空をみようと思ったのですが、あいにくと曇り空でした。

来年の2月頃には、南方の喜界が島に、砂糖工場を見に、連れて行ってもらえるようです。楽しみです。
 

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月11日(日)05時33分13秒
  「1918年大正7年の今日第1次世界大戦が終結全世界で約1、000万人、の死者が出たとされている  

熊本城サグラダ・ファミリア計画

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年11月10日(土)07時08分24秒
  Kobushiさんが住んでおられる熊本のお城と地震のことが「日本史の内幕」に書いてあったので、一部引用します。

熊本で大地震が起きた。
一報を聞いた時、私は「やられた!」と思った。悔しかった。
悔しく思ったのには理由がある。
約400年前にも慶長三陸地震といって東北に大津波がきたことがあった。
この400年前の東日本大震災のあと最初に大地震が襲ったのが「熊本」であった。
1611年に慶長三陸地震がきたあと、8年後に肥後八代地震(1619年)、14年後に肥後熊本地震(1625年)がきた。
前回は8年後、今回は5年後であったが、まさかこんなに忠実に東北震災のあとに熊本を地震が襲うとは思ってもみなかった。

これは詳しく古文書を調べねばと思った。
京大図書館に行けば「新収日本地震史料」という地震史料全集がある。(途中省略)
本を読んでみて驚いた。
今回の熊本地震は「揺れの顔つき」が400年前のそれに酷似していたのだ。
肥後八代地震は朝の卯刻から揺れがきて旧八代城(麦島城)が正午頃の午刻に倒壊している(「肥後国志」)。朝に前震、昼に本震がきて城が耐え切れず全壊した。しかもこのとき揺れは東北方向に拡大。「岡(大分県竹田市)大地震。お城中、所々破損」と、竹田城が破損した。現在と全く同じ展開である。

今回の熊本地震もそうだが、どうも中央構造線の地震は連動連発しやすいらしい。
1596年には、わずか五日の間に、伊予(愛媛)・豊後(大分)・伏見(京都)と、三か所ほぼ同時にマグニチュード7クラスの地震が襲った。
1625年には、三か月おきに、広島・愛媛・熊本が地震に襲われ、広島城と熊本城の石垣が崩れ、櫓が崩壊している。
これも今とそっくり。
地震に遭うと城というものは、まず長塀が倒れ、石垣が上から崩れて、多聞櫓といって細長い形の櫓が真っ先に落ちて崩壊する。

今回の地震で熊本城が痛々しい。(途中省略)
熊本城は巨城である。
加藤清正・細川忠利時代の姿に完全復元すると、国宝姫路城など問題ではない規模の城になる。
なにせ天守・小天守のほかに国宝松江城天守に近い規模の五階建ての櫓が6つもあった。天守級の塔がいくつも聳える日本一の城だった。

落ち着けば、この名城の復旧工事がはじまり、それ自体を見学する観光もできよう。
私は「熊本城サグラダ・ファミリア計画」を夢想する。
スペインのサグラダ・ファミリアのように清正の「塔」の復元を続行。
町の誇りとして世界の人に来てもらう。
さしあたっては、一刻も早く、元の姿に。熊本城を救わねばならない。
 

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月10日(土)05時35分4秒
  「1968年昭和43年の今日東京日比谷公会堂で開催されたGS,OXのコンサートで30人の女子が失神した。」  

朝の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 9日(金)17時17分42秒
  「定年に鞭打つ延長20年。」(東海第2延長認可)  

朝の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 9日(金)17時14分36秒
  「議会より大統領がねじれてる。」(衆目一致)  

関西のヒマジン様へ

 投稿者:ひまじん  投稿日:2018年11月 9日(金)11時44分17秒
  榎町となっていますが、宗参寺の住所は弁天町です。
この地区の方と顔を合わせていますが、一度も隕石の話が出てきたことはありません。
今回初めて隕石のことを知りました。
 

ひまじんさま

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年11月 9日(金)07時14分1秒
  江戸時代隕石が落下したとされる地点は、神楽坂榎町のご自宅から12,3分のところですか。
当時は大騒動だったでしょうね。
いまから、195年前の出来事ですが、大事件なので榎町の町内会で言い伝えられているということはないのでしょうか?
 

今朝の川柳」

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 9日(金)06時51分16秒
  「人は七十原発は六十。」(働き方改革)  

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 9日(金)05時33分5秒
  「今日119番の日です、1963年昭和38年の今日三井三池炭鉱で戦後再悪の炭鉱事故が起き約458人の死亡者と839人の一酸化中毒患者が出た。  

パウロ様へ

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 9日(金)05時07分49秒
  誰でもやる変換ミスを指摘したことで不愉快な思いをされたようなのでお詫びいたします。私としては小さな、小さな窓の気持ちでしたが、パウロ様の気持ちが不愉快に思はれたようなので不本意です。自分を戒める意味と自分の注意を喚起するためにもこれからも指摘は続けます。  

隕石

 投稿者:ひまじん  投稿日:2018年11月 8日(木)22時56分23秒
  宗参寺を地図で見てみると、我が家から徒歩で12~3分のところです。近くには山鹿素行のお墓があり、
通り一つ離れたところには漱石公園があります。
 

免許更新による認知症試験

 投稿者:パウロ  投稿日:2018年11月 8日(木)19時42分27秒
  愛車を手放した今、免許返納も考えましたが、公的認知症の試験を受けるのも一興かと思い受験しました。一応公安委員会の認証はパスしましたが、一概に喜べない気分です。試験の主題は記憶力と目と脳の瞬発力のテストでした。パスしたとは言え確かに記憶力は衰えていました。人生100年時代の第4楽章の今、人の名も思い出せない有り様です。木霊に投稿し変換ミスで間違いを指摘された事もありました。この歳になると、小さなミスはあります。木霊はボケを修正してくれる小さな窓かと思います。とはいえ誰にでも来る老いの変換ミスに穏便に対処してもらえればと思い投稿したボケ老人です。  

今朝の川柳」

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 8日(木)13時28分17秒
  「いっその事九パセントにしたらどう。」(ごちゃごちゃ言うなら。)  

江戸の隕石(神楽坂)

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年11月 8日(木)08時17分35秒
  管理人さんの自宅の近くに江戸時代隕石が落ちたようなので、「日本史の内幕」から一部引用します。

江戸時代に東京の都心に隕石が落ちたことがある。
はて、どこに落ちたものか。

まず自宅の書庫で埃をかぶった隕石関係の古文書コピーを出してきて読んだ。
隕石が落ちてきたのは文政6年10月8日(1823年11月10日)であったらしい。長崎平戸藩主の松浦静山という学者大名が随筆「甲子夜話」に書いている。
松浦は人からこんな話を聞いている。
「戌刻下り(夜8時ごろ)に西の空から大砲のような音が響き、北のほうにいった。
急いで北の戸を開いてみると、北の空にまだ残響がとどろいていた。
あとで人に聞くと、路上にいた者はそのとき「大きな光物」が飛行するのをみたという。また数日して聞いた。
早稲田に微禄の御家人の住居があり、その玄関のような所に石が落ちて、屋根を打ち破り、破片が散乱したが、その夜その時のことだという」

なるほど早稲田のあたりに落ちたのか、と思った。
しかしこれだけでは落下地点が特定できない。
もう一つ古文書があるので読んでみた。
鈴木桃野という江戸在住の学者の「反古のうらがき」という随筆である。
「一、二日あって聞くと、早稲田と榎木町との間の「とどめき」という所に町医者がいて、その玄関前に二尺に一尺(60×30センチ)ばかりの玄蕃石のような切石が落ちて二つに割れていた。焼石とみえて余程あたたかであった」

これでかなり落下地点を絞り込めた。
現在の新宿区の早稲田と牛込榎木町の「とどめき」という所に落ちたのだ。
しかし「とどめき」とは、どこか。
そこに行けば今でも隕石が見つかるような気がしてどうしても知りたくなった。
それで江戸時代の住宅地図「江戸切絵図」をひらいてそこをみると宗参寺という寺があって傍らに轟橋という橋がある。ここかもしれない。

「江戸名所図会」という当時の江戸ガイドブックで宗参寺の項をみたら、大当たり。
「雲居山宗参寺、同所弁財天町にあり。この地を土俗どどめきと云ふ」とあった。
そこは狭い場所。ネット上の地図グーグルマップで調べると、現在、早稲田の銭湯・大黒湯の煙突を中心に半径100mほどのところだ。
やった。隕石の落下地点を特定した。隕石は貴重だ。
大きいものは数千万円から億円単位で取引される。
別にお金目当てではないが、宝探しの魅力に取りつかれ、私は浜松から新幹線に飛び乗ってそこを目指した。
隕石は落下地の神社やお寺でご神体や寺宝として保管されていることがある。

私は落下地点にある宗参寺に飛び込んだ。
まずは庭石に目を光らせる。黒く焦げた30センチの石を探したがない。
意を決して住職さんに声をかけた。「あのう。隕石を探しにきたのですが」。
住職さんは驚いてポカンとした顔。
怪しい人物と思われそうになったので、その時分勤めていた「静岡文化芸術大学」の名刺を渡し、調査だと事情を話した・
しかし、住職さんは、はあ、そんなことがあったのですか、という感じで、全く伝承は残っていなかった。
私は寺の境内に呆然と立ち尽くすしかなく、結局、隕石はみつからなかった。
 

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 8日(木)05時34分30秒
  「1956年昭和31年の今日第1次南極観測船宗谷が南極に向けて出港南極到着後南極の東オングル島で越冬隊のための設営に入った。  

我々は「本が作った国」に生きている2

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年11月 7日(水)20時17分52秒
  幕末の日本もまた、「本」が動かしたといってよい。

長州のイデオローグにして、松下村塾で多数の人材を育てた吉田松陰は、まさに万巻の書を糧として自らの思想を形成したひとである。
幼くして藩の兵学師範を務めた吉田家の家督を嗣ぎ、四書五経から山鹿流兵学の「武教全書」まで徹底して叩き込まれた。
平戸、江戸、東北と遊学する過程で、陽明学の葉山高行、世界情勢の魏源、西洋の学問に通じた佐久間象山、水戸学の会沢正志斎・藤田東湖、国学の本居宣長・平田篤胤・・・・さまざまな書物を遍歴し、思索を深めている。

松陰は葉山や象山には直接会って師事しているが、基本は大量の書物を読み漁った「読書の人」で、アメリカ密航に失敗し、萩に戻されて投獄され、以降3年くらいの読書記録をみると、500冊近い本を読破している。
本の流通なくしては松陰は松陰にならなかった。

一方、薩摩の西郷隆盛も、情勢判断の知識と哲学は書物から得ている。
ワシントン米大統領やナポレオンについて当時としては正確な認識を持ち、列強の動きにも詳しかった。
そればかりか、西郷は禅もやったが、読書によって人格形成している。
当時を代表する儒学者・佐藤一斎の「言志四録」をまさに座右の書として持ち歩き、抜き書きまでしている。

佐藤一斎は美濃岩村藩出身で昌平黌の儒官、今でいえば東大総長を務めた。
弟子には佐久間象山、安積艮斎、横井小楠らがおり、象山の弟子だった松陰、勝海舟、坂本竜馬らは孫弟子にあたる。
一斎は1859年に88歳で亡くなるが、後半生をかけて書かれたのが「言志録」など四編の箴言集で、それらを総称して「言志四録」という。
千を超える金言名句が収められており、西郷は特に101を書き抜いて、西南戦争の最中も身につけていた。
「一燈を掲げて、暗夜を行く、暗夜を憂ふる勿れ、只だ一燈を頼め」といった一斎の言葉を拠り所としていた。

つまり長州も薩摩も、松陰や西郷が動かしているように見えて、実は「本」が彼らを動かしていた。
「取り込み性」という日本人の特性がいかんなく発揮されている。
漢字、国学、蘭学、洋学、何でも貪欲に取り込んでいく日本社会では、昔から「本」が主役であった。(途中省略)

日本が植民地にならず独立を守れたのは、単に遠い島国だったからではない。
島国というならフィリピンもスマトラも、みな植民地になっている。
日本が独立を保ってこられたのは、自らの出版文化を持ち独自の思想と情報の交流が行われたからである。
歴史家としていいたい。
この社会はその重みをもう一度かみしめなくてはならない。

今の出版界は経済学でいう「共有地の悲劇」を想起させる。
苦しい出版界が粗雑本を濫造し市場に流し込む生存競争をはじめると悲劇が起きる。
荒れ地になって牧草(著者)が育たなくなり、牛乳(いい本)も飲めなくなる。
本を読んだり、著者になったりという国民リテラシーの総体が「肥沃な土壌」になるが、今は土壌自体が流失しかかっている。
まずはいかにして「土留め」するか。
ネット上の単純議論の蔓延の先にあるのは荒れた日本しかない。
我々出版関係者は心して出版物を吟味し、良い著者を育て、最後の土留め砦とならねばならぬと思う。
 

朝刊の河柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 7日(水)19時11分45秒
  「市場が歌うーさらばスバルよー。」(先月までの不正検査)  

社会保障の問題点

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 7日(水)11時53分41秒
  社会保障の側面。認知症の増加も懸念されますが、糖尿病から併発腎臓病の増加も危惧される。腎臓病の年間医療費は初期では5万円ですが透析が始まると週に3乃至4日1回約6時間かかり一担はじまると死ぬまで必要である。40代前半で透析を始めた患者の場合平均余命が20乃至25年であるので透析だけで医療費が一人1億円かかる。透析患者の中には遺伝が原因の人もいるのでそういう方を非難する気はありませんが糖尿病が原因の場合本人の心がけで予防っできた可能性があります。
学士会会報933号「百歳まで元気に過ごす健幸な身体づくりの最前線。久野譜也筑波大学教授著より引用
 

我々は「本が作った国」に生きている

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年11月 7日(水)08時20分50秒
  歴史学者磯田道史氏の著書「日本史の内幕」から一部引用します。

日本の出版文化の充実ぶりは、世界を見渡しても類例がない。
それは江戸時代の遺産といってよく、江戸日本は世界一の「書物の国」で硬軟さまざまな本が流通していた。

幕末史は書物で動かされた面があった。
例をあげると、頼山陽の「日本外史」や「通議」である。
頼山陽といえば武家の興亡を書いた「日本外史」がまず有名で、「通議」もまた優れた政論の書である。
日本は誰がどのように治めてきたか、歴史を繙きながら、いかにあるべきかを説いている。
これによって江戸後期の日本人は時間のタテ軸による社会の変化のあり様を知った。
また清の思想家・魏源が著した「海国図志」というのもある。
西洋列強が覇を競う世界情勢を克明に記したもので、もともとは清の国政改革を促そうとした書物で、これにより、日本人は空間のヨコ軸で世界で何が起きているかを知った。
それが日本にすぐ入ってきて、阿片戦争に危機感を募らせていた知識層に読まれた。
佐久間象山や吉田松陰は魏源から大きな影響を受けており、清よりも日本で真剣に読まれた本である。

柔らかい書物もたくさんあった。
それこそ黄表紙、人情本、滑稽本などいろいろだが、実用的で面白いのが「吉原細見」である。
これは今でいえば風俗情報誌で、吉原の妓楼や遊女が細かく紹介され、郭内の案内図付きで、遊女の格付けや料金まで書いてあった。
17世紀以降、各時代のものが残されており、これだけで一大研究ジャンルになっている。

当時の出版文化がすごいのは、江戸、京、大坂などの大都市だけではなく、各藩、各地域の村々にまで書物が行き渡っていたことである。
武士・神主・僧侶の家に四書五経が揃っているのは当たり前で、むしろ庶民の家にも多くの書物があった。

江戸後期の人口はだいたい3000万人、村は全国で5万といわれる。
大雑把に計算すればひとつの村が600人、だいたい100軒の家があった。
地方にもよるが、全体の1割以上は四書五経を揃えていたとすれば、庄屋の家はもちろん一村に10セット以上高価な教科書があったことになる。(途中省略)

また、教育という意味では「往来者」も忘れてはいけない。
寺子屋などで使われた教科書だが、もともとは手紙の文例集として始まったのが、次第に職業の心得や作法を書いたものが作られるようになる、「百姓往来」「農業往来」「商売往来」「問屋往来」「大工往来」・・・ありとあらゆる職業のものができた。

注目すべきは、貝原益軒の「養生訓」である。
日々の食事や薬の飲み方、心構えなどを説いた健康な生活への指南書で大ベストセラーとなった。
この本がなければ保健衛生意識の高い日本社会も、長寿国家日本もなかった。それほど日本人の健康観に与えた影響は大きく、元禄期に書かれた本が大きな遺産を残してくれたといってよい。

つまり日本では江戸時代に出されたさまざまな本が、職業知識や礼儀作法、健康知識などのインフラを築いていた。
そこが中国や朝鮮とは決定的に違う。
中国や朝鮮には高度な儒教文化や漢方医学の体系があったが、科挙の受験者や一部専門家の知識に留まった。
知識が女性や庶民の実学へ広がっていかず、閉鎖的なものになり、活字の儒書がむしろ女性や庶民を教養から遠ざけていた。

ところが日本では仮名交じりの木版出版文化で、本で女性や庶民へ実学が広がった。
識字率の高い、労働力の質の高い社会ができあがった。
いわば「本」こそが日本を作ったといってよい。
大砲が日本を作ったのではない。すぐに大砲も自動車も自前で作れるようになったが、この日本人の基礎教養は、長い時間をかけて「本」が造り上げた。
この点が重用である。(続く)
 

今朝の川柳」

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 7日(水)05時45分26秒
  「創生は離れ小島と先見し。」(どうか四国から片山大臣)  

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 7日(水)05時31分25秒
  1936年昭和11年の今日国会議事堂の落成式が行われた。  

11月8日の朝の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 7日(水)04時41分6秒
  「床抜ける前に母校へ寄贈する。」(村上ライブラリー)  

今朝の川柳」

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 6日(火)19時29分3秒
  「エリートのチームにキラリたたき上げ。」(タカ貝斐捕手)、甲斐捕手は育成選手あがりのMVP.
 

今朝の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 6日(火)13時32分43秒
  「アメリカに希望をつなぐ痛ましさ、」。(移民キャラバン)  

今朝の川柳」

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 6日(火)11時53分3秒
  「星条旗二色に塗るか星の色」。(中間選挙)  

秀吉は秀頼の実父か 2

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年11月 6日(火)08時00分33秒
  実は、日本史上の重大問題がある。
肥前名護屋城のこの御殿で秀吉が淀殿を抱いていなければ「豊臣秀頼は秀吉の子ではない」ことになるのだ。
すでに九州大学の服部英雄教授が「河原ノ者・非人・秀吉」で考察されているが、文禄二(1593)年旧暦八月三日生まれの秀頼が秀吉の子であるためには文禄元年旧暦十一月初旬前後に、秀吉と淀殿が閨を共にしていなければならぬ。
この時期、秀吉は名護屋城にいた。
これに淀殿が随行していなければ、秀頼の父は秀吉以外の誰かになる。

淀殿が名護屋に下ったかは、歴史学者の間でも見解が分かれるが、私は、現時点で淀殿の名護屋下向は疑わしいと思っている。
たしかに、「淀の御前様も御同心のよし申し候(淀殿も同行されているといわれている)」と書状に書いて国元に送った史料はある。
しかし淀殿の下向を示す重要証拠はこの一点だけ。
しかもこれは佐竹家臣の平塚瀧俊という豊臣家の内情を知らない茨城の武士が留守宅に「淀殿もきているらしい」との噂をききつけて書き送ったものだ。

豊臣家の内情を知悉している者の記録は「大かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)」だ。
「信長公記」の著者・太田牛一が書いた。
太田は名護屋に駐留、弓大将でのち秀吉の側室の世話もした男。
秀吉が女たちに見送られて大坂を出発し、同行したのが側室の京極殿(松の丸殿)であったことを記している。
しかも出発から旅程まで側室の動向を詳細に記述している。
淀殿が同行すれば、太田が記録せぬはずがない。
淀殿は信長の姪である有名な側室。
京極殿が来ても、地方大名の家臣だと淀殿が来たと噂することはありそうだ。
私も服部教授と同意見で、平塚は京極殿を淀殿と誤記したのではないかと思う。

※では実父は誰なのか?
磯田氏は「その詮索はさらに、ややこしい古文書の探索が必要になるので」ということでこの問題は先送りしている。

良く噂される、石田光成や大野治長は名護屋城に来ているし、また、イケメンの木村重成も名護屋に来ている。では、いったい誰なのか??
 

今日は何の日

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 6日(火)05時35分30秒
  1963年昭和38年の今日「石油危機」のため、電力会社が節電を呼びかけ「銀座」から夜のネオン広告が消えた。  

神様

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 6日(火)05時04分28秒
  トト様の投稿、「落とし物」は神様の定めたことなので云云私にはよく解りません、が。  

なくしもの

 投稿者:トト  投稿日:2018年11月 5日(月)20時07分34秒
  落とし物、なくしものは尽きることがありません。
これらを防止しようと思っても、そもそも神様が定めたことなので、如何とも仕方がないのです。

これは運命なのです。

 

秀吉は秀頼の実父か

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年11月 5日(月)14時35分52秒
  歴史学者磯田道史氏の著書「日本史の内幕」ーー中公新書2017・10・25初版ーーから引用します。

佐賀県唐津の肥前名護屋城がいま面白い。
天守の下にあった豊臣秀吉の居住区とおぼしく建物跡が発掘中ときき、佐賀新聞の中尾清一郎社長と城跡に登ってみた。

秀吉がこの城を拠点に大陸征服を狙ったのは事実だが、この男は征服そのものより、自分の意思に人が従い、物が集まるさまを可視化するのが、生きる目標であったように私は感じている。
彼は突貫工事でこの巨城=名護屋城を現出させ、その本丸から十万人単位の将兵を見下ろした。
徳川家康さえも眼下の陣屋において使い走りにして楽しんだ。
前半生、不当に卑しめられてきたことへの反動でもあったろう。
おのれの権力の可視化こそが彼の快感であった。

ただ、この秀吉の我儘は日本政治史に大きな副産物をもたらした。
日本中の大名と重臣・兵卒までが一か所に集結して対外戦争をやったため、天下・統一国家日本の現物を日本中の人間が見てしまった。
日本は一つとの国民国家思想の形成の前処理がここで済んだ。

私が秀吉の御殿とにらんだ建物跡はまさに掘り出されたばかり。
県立名護屋城博物館の学芸員さんが、見たそうにしている私を哀れに思ったか、特別に青いビニールシートをあけて見せてくれた。
驚いたことに、その御殿跡は、海風が土を吹き飛ばすせいか、あまり埋もれていない。
軒下に雨垂れ受けのため置かれていたこぶし大の玉石がある。
本丸は風が強すぎ、後に秀吉はやや下がった山里丸に移ったそうだが、ここに居たのは間違いない。
約400年前に秀吉が草履で踏んだであろうその石が地表から数センチのところに完璧に残っているのを見ているうちに、私はまじめな妄想をはじめた。
「この御殿で秀吉は淀殿を抱いたのか」。(続く)
 

表紙の写真

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年11月 4日(日)23時27分28秒
  いつも感心するけど、タローさんの花に集まる昆虫や鳥の写真はみごとですね。
今回は9枚の写真の連結ですね。
 

コキア

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年11月 4日(日)21時02分40秒
  9年前の鉢植えのコキアです。
丁度紅葉のシーズンです。
花は見たことありませんねぇ。
 

コキア

 投稿者:パウロ  投稿日:2018年11月 4日(日)19時21分30秒
  ご存知コキアです。別名ほうき草と言いこじんまりとして夏は緑で秋には紅葉し可愛い草花です。しかし花を見たことはありません。すっかり茶色になったので、ハサミで根元を切り束ねて両手で古い葉をもみ落とし、根元の茎をビニールテープできつく縛ってほうきができました。結構重宝してます。  

朝日俳壇

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 4日(日)07時16分7秒
  「長谷川櫂選。評。」「蓑虫は90歳かも知れぬ」蓑虫の老いたる顔が浮かぶ。蓑の中の幻  

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 4日(日)05時33分1秒
  「1980年の今日王貞治引退
「1946年昭和22年の今日国連のユネスコが創設。今日はユネスコ記念日である。
 

新聞の川柳

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 4日(日)05時15分7秒
  「沖縄と裸で付き合いたいと言い。」(裸騒動の宮腰沖縄北方相)  

落し物

 投稿者:関西のヒマジン  投稿日:2018年11月 3日(土)13時43分11秒
  ポシェットを携帯し、その中に必需品を入れるようにしてから忘れ物がなくなっていました。
ところが、ポシェットに入れていない、自転車の鍵など(2本)やジムの会員証を先月立て続けになくしました。
そのうち2つは幸いにも出てきましたが、今度は貴重品など大切なものが入っているポシェットをなくしはしないかと心配です。

落としたり忘れたりするのは、頻繁に起こったり、また、長い間起こらなかったり、波があるのでしょうか?

トトさま、如何でしょうか?
 

今日は何の日?

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2018年11月 3日(土)05時33分26秒
  1948年昭和23年の今日湯川秀樹が日本人で初めてのノーベル物理学賞を授与された。